平成24年4月度 広布唱題会の砌 (総本山客殿)
本日は、四月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年も既に四月に入り、四分の一が過ぎましたが、皆様には僧俗一致・異体同心して日夜、折伏誓願達成へ向けて御精進のことと思います。
最近の混沌とした国内外の世情を見るに、我々は「立正安国論」の御正意に照らし、平成二十七年・三十三年の目標は、宗門の僧俗が一致団結し、総力を挙げてなんとしても達成しなければならないと思います。
そのためにも、本年は是非、全支部が折伏誓願を達成されますようお祈りをする次第であります。
さて、法華経法師品(注1)を拝しますと、
「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、
能(よ)く竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、
乃至一句を説かん。
当(まさ)に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。
如来の所遣として、如来の事を行ずるなり。
何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に
説かんをや」(法華経321)
aa
とあります。
「善男子」とは、仏法を信ずる在家の男性。「善女人」とは、仏法を信ずる在家の女性であります。つまり、善法を信じていることから「善男子」「善女人」というのであります。
ただし、現時に約して言えば、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人御出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊様を信奉し、自行化他の行業に励む僧俗を言うのであります。
故に『椎地四郎殿御書』には、
「法師品には『若是善男子善女人乃至則如来使』と
説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人に
かたらん人は如来の使ひと見えたり」
(御書P1555)
と仰せられ、さらに『諸法実相抄』には、
「若し日蓮池涌の菩薩の数に入らば、豈(あに)日蓮が
弟子檀那地涌の流類(るるい。注2)に非ずや。
経に云はく『能く竊かに一人の為に法華経の乃至一句を
説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の
所遣として如来の事を行ずるなり』と、豈別人の事を
説き給ふならんや」(御書P666)
と仰せであります。
これらの御文からも拝せられますように、今日、宗祖日蓮大聖人様の弟子檀那として、題目を唱え、折伏を行ずる者が如来の使いであり、如来から遣わされてきた者であり、如来の事を実行する者であります。
そもそも、御本仏大聖人様の末法御出現の目的は、本因下種の妙法をもって、一切衆生をしてことごとく成仏せしめるためであります。
大聖人亡きあと、その実現を目指し、身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴し、御遺命達成へ向けて挺身していくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。
今、宗門は来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、僧俗一致・異体同心して前進しております。特に、本年は「実行前進の年」であります。
されば、この時に当たり、我々は一人ひとりが「如来の使」としての自覚と誇りと使命を持って、あらゆる困難と障害を乗り越え、誓願達成へ向けて断固たる決意と勇気を持って折伏を実行していかなければなりません。
折伏は、たとえ相手が直ちに納得し、入信するに至らなくても、下種折伏することによって、それが縁となり、のちに必ず成仏に至るのであります。
故に『一念三千法門』には、
「妙法蓮華経と唱ふる時心性(しんしょう、注3)の
如来顕はる。
耳にふれし類は無量阿僧祇劫(むりょうあそうぎこう)
の罪を滅す。
一念も随喜する時即身成仏す。
縦ひ(たとひ、たとえ)信ぜずとも種と成り熟と成り
必ず之に依って成仏す」
(御書P109)
と仰せられています。また『唱法華題目抄』には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節
なる事諍ひ無き者をや」(御書P231)
と仰せられています。
すなわち、折伏は順縁、逆縁、共に救われるのでありますから、相手のいかんにかかわらず、慈悲の心をもって折伏を実行することが大事であって、そこにおのずと折伏を行ずる大きな功徳が存するのであります。
されば『如説修行抄(注4)』には、
「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、
豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ)
にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば
誰か経文の如く行じ給へる。
誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまず
よばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して
御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し」
(御書P673)
と仰せられているのであります。
まさしく「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」とのお言葉を、我々は今一度しっかりと心肝に染め、広布への尊い使命を持った「如来の使」として、勇躍奮起して折伏を実行し、遠くは一天四海本因妙広布流布を目指し、近くは平成二十七年・三十三年の目標達成ならびに本年度の誓願達成へ向けて、いよいよ御精進くださることを心からお願い申し上げ、本日の挨拶といたします。
-----------------------------------------------------------
注1:妙法蓮華経法師品第十
この品より安楽行品までの五品は、前の方便品より人記品までの八品に説かれた内容を流通せしめる部分。特に法師品は釈尊自らが経を広めることの功徳の深重なことを説いて世間に宣布することを勧める章。(岩波版法華経より)
ちなみに、猊下御引用の文の後ろには「薬王よ、若し悪人ありて、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏の前において、常に仏を毀罵(そしりののし)るとも、その罪は尚、軽し。若し人、一の悪言をもって、在家にもあれ、出家にもあれ、法華経を読誦する者を毀(そ)しらば、その罪は甚だ重し。」と続き、法華経を誹謗することの罪深さが語られていることに注意。
注2:地涌の流類
流類は眷属と言う意味であり、合わせて「地涌の菩薩の眷属である」となる。
「地涌の菩薩」とは、法華経『涌出品』において、釈尊の久遠の開顕を助けるために大地より涌出した六万恒河沙(ごうがしゃ)の大菩薩のことで、釈尊の久遠以来の弟子(本化(ほんげ)の菩薩)で三十二相の大威徳を具(そな)え、その上首として上行(じょうぎょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょうぎょう)の四大菩薩がいるが、末法にはそれらのすべての徳を具えた上行菩薩ただお一人が出現される。
すなわち『寿量品』で久遠本果を開顕した釈尊は、『神力品』に至って上行菩薩に結要(けっちょう)付嘱し、末法における法華弘通を託されたのであり、末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初自受用報身如来となる。
末法の一切衆生は、客観的な機から見ると、日蓮大聖人によって初めて妙法を下種される本未有善の荒凡夫なので、地涌の菩薩ではない。
しかし『御義口伝』の
「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と
唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」
(御書P1764)
の文に明らかなごとく、大聖人の御当体たる御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える功徳により、私たちにも地涌の菩薩の命が涌現するのです。
ただし『諸法実相抄』に、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
(同 P666)
と仰せのように、末法の衆生は御本尊を信ずる日蓮大聖人の眷属だけが、より正確には日興上人以来の血脈法水に連(つら)なる僧俗、すなわち総じての血脈だけでなく、別しての血脈相承が成されている当宗と、その三大秘法を報じる当宗僧俗のみが地涌の菩薩の境界を開くことができることとなり、偏狭な血脈論を報じる創価学会は明確に否定される。
注3:しんしょう(orしんせい)
心のあり方、心の特質、心根のこと。
注4:如説修行抄
○御述作の由来
本抄は、文永十(一二七三)年五月、大聖人様が五十二歳のときに佐渡一谷(いちのさわ)において認(したた)められた御消息。
大聖人様が数々の難に遭(あ)われていく中、佐渡に配流(はいる)されたことにより、ますます動揺し退転していく者が後を絶ちませんでした。そのような状況において、門下一同に対し、不退転の信心を促(うなが)されるために与えられた御消息が本抄で、如説修行についての御教示が主であることから『如説修行抄』と題されるが、本抄の追伸に「此の書御身(おんみ)を離さず常に御覧有るべく候」とあることから、『随身不離抄』とも称される。
なお、御真蹟は現存しないが大夫阿闍梨日尊の写本が残る。
○本抄の大意
(1)三類の敵人出現の予言
まずはじめに、真実の法華経の行者である大聖人様の弟子檀那となるならば、三類の敵人が現れることは必定(ひつじょう)であると述べるとともに、いざ大小の難が競い起こったときに退転していく者がいることを述べられ、平素の教訓に違背せぬよう門下一同を誡められています。
(2)三類の敵人が出現する理由
次に、如説修行の行者は現世安穏であるはずなのに、なぜ三類の強敵が興盛するのかとの問いを構えられ、その縁由(えんゆ)と現世安穏について述べられています。
(3)諸宗の誤りの指摘
如説修行の正意に迷い法華経以外の諸経にとらわれている諸宗の誤りを指摘されています。
(4)摂受と折伏の解説と採用すべき時の教え
仏法を修行するには摂受と折伏があることを知らなければならないとされ、末法今時は折伏を行ずる時であることを教示されています。そして、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しです。
(5)どのような難にも負けぬことの激励
末法においては、大聖人様並びに弟子檀那こそ如説修行の行人であること、それゆえどのような迫害を受けようとも、命が尽きるまで唱題をするよう勧奨されている。
○拝読のポイント
(1)不惜身命の精神を貫く覚悟を持とう
本抄は、全編を通じて大切な御教示が数多く拝せられるが、特に大切と思われる点が二つある。
まず一つ目は、末法は折伏の時であるということ。
大聖人様は本抄において、
「凡(およ)そ仏法を修行せん者は摂折
(しょうしゃく)二門を知るべきなり。
一切の経論此の二を出でざるなり。
されば国中の諸学者等、仏法をあらあら
まな(学)ぶと云へども、時刻相応の道理
を知らず」
と仰せになり、仏道修行には摂受と折伏の二門があって、時に応じて仏道修行の在り方も異なることをお示しである。
摂受とは、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引して正法に導く化導法であり、折伏とは、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法です。
本抄および
「仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時に
よるべし」(御書P578)
との御教示をあわせ、「仏法においては時ということが重要であり、末法の今に行うべき仏道修行は、勤行・唱題はもとより、折伏行であること。」の重要性が解き明かされる。
したがって、日蓮正宗に籍を置きながらも折伏を行わないとすれば、時を見失い仏道修行を怠(おこた)っている身であり、そこには功徳としての実証が生活の上に顕れる道理はなく、御本尊様の御威光を実感することはできないことが明かされる。
(2)折伏を行ずるところには必ず三類の強敵が現れるということです。
本抄に、
「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり」
とあり、また、
「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵(ごうてき)来たらん事は疑ひ無し」
とあるように、大聖人様の仏法を信受し、折伏を行っていくならば、言い換えるなら「正しい信心を貫き通しているなら」必ず三類の強敵が現れると御指南である。
三類の強敵とは、釈尊滅後、法華経の行者を様々な形で迫害する三種の敵人のことで、俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つをいい、この三類の強敵が、釈尊滅後のなかでも特に末法において現れると大聖人様は御指南あそばされている。
このことは、大聖人様が弟子檀那に対して常々仰せになられていたが、いざ三類の強敵に迫害されると、弟子檀那の中には退転してしまう者が後を絶たなかったようで、その様子を本抄には、
「此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと。然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」
と仰せになっている。
また、大聖人様は当時の弟子檀那に対する迫害の様子を本抄において次のように述べられている。
「弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし」
このことから、当時の弟子檀那が過酷な迫害を受けていたことをうかがい知ることができる。
では、現在の私たちが同じ状況に立たされたとして、果たしてどれだけの人が退転せずに正法を受持できるか。
大聖人様の御指南は不変なので、折伏を行ずるところには、たとえ時代は変わり世の中が変わろうとも三類の強敵が必ず現れる。
ゆえに私たちは、本抄に、
「一期過ぎなむ事は程(ほど)無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」
と仰せのごとく、いかなる強敵が押し寄せようとも、不惜身命を貫く覚悟を持たねばならず、本抄の結びにおいて、大聖人様が弟子檀那に対し壮絶な覚悟をする御指南されていることを肝に銘じるべき。
すなわち、たとえ首を鋸(のこぎり)で切られ、胴体を鋭い鉾(ほこ)で突かれ、足には釘を打って錐(きり)で揉(も)むようなことがあっても、命のある限り唱題を続けなさい。そうするならば、必ず釈迦・多宝・十方の諸仏が守護し、寂光の宝刹(ほうせつ)に送り届けてくださるとの指南。
本日は、四月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年も既に四月に入り、四分の一が過ぎましたが、皆様には僧俗一致・異体同心して日夜、折伏誓願達成へ向けて御精進のことと思います。
最近の混沌とした国内外の世情を見るに、我々は「立正安国論」の御正意に照らし、平成二十七年・三十三年の目標は、宗門の僧俗が一致団結し、総力を挙げてなんとしても達成しなければならないと思います。
そのためにも、本年は是非、全支部が折伏誓願を達成されますようお祈りをする次第であります。
さて、法華経法師品(注1)を拝しますと、
「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、
能(よ)く竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、
乃至一句を説かん。
当(まさ)に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。
如来の所遣として、如来の事を行ずるなり。
何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に
説かんをや」(法華経321)
aa
とあります。
「善男子」とは、仏法を信ずる在家の男性。「善女人」とは、仏法を信ずる在家の女性であります。つまり、善法を信じていることから「善男子」「善女人」というのであります。
ただし、現時に約して言えば、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人御出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊様を信奉し、自行化他の行業に励む僧俗を言うのであります。
故に『椎地四郎殿御書』には、
「法師品には『若是善男子善女人乃至則如来使』と
説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人に
かたらん人は如来の使ひと見えたり」
(御書P1555)
と仰せられ、さらに『諸法実相抄』には、
「若し日蓮池涌の菩薩の数に入らば、豈(あに)日蓮が
弟子檀那地涌の流類(るるい。注2)に非ずや。
経に云はく『能く竊かに一人の為に法華経の乃至一句を
説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の
所遣として如来の事を行ずるなり』と、豈別人の事を
説き給ふならんや」(御書P666)
と仰せであります。
これらの御文からも拝せられますように、今日、宗祖日蓮大聖人様の弟子檀那として、題目を唱え、折伏を行ずる者が如来の使いであり、如来から遣わされてきた者であり、如来の事を実行する者であります。
そもそも、御本仏大聖人様の末法御出現の目的は、本因下種の妙法をもって、一切衆生をしてことごとく成仏せしめるためであります。
大聖人亡きあと、その実現を目指し、身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴し、御遺命達成へ向けて挺身していくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。
今、宗門は来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、僧俗一致・異体同心して前進しております。特に、本年は「実行前進の年」であります。
されば、この時に当たり、我々は一人ひとりが「如来の使」としての自覚と誇りと使命を持って、あらゆる困難と障害を乗り越え、誓願達成へ向けて断固たる決意と勇気を持って折伏を実行していかなければなりません。
折伏は、たとえ相手が直ちに納得し、入信するに至らなくても、下種折伏することによって、それが縁となり、のちに必ず成仏に至るのであります。
故に『一念三千法門』には、
「妙法蓮華経と唱ふる時心性(しんしょう、注3)の
如来顕はる。
耳にふれし類は無量阿僧祇劫(むりょうあそうぎこう)
の罪を滅す。
一念も随喜する時即身成仏す。
縦ひ(たとひ、たとえ)信ぜずとも種と成り熟と成り
必ず之に依って成仏す」
(御書P109)
と仰せられています。また『唱法華題目抄』には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節
なる事諍ひ無き者をや」(御書P231)
と仰せられています。
すなわち、折伏は順縁、逆縁、共に救われるのでありますから、相手のいかんにかかわらず、慈悲の心をもって折伏を実行することが大事であって、そこにおのずと折伏を行ずる大きな功徳が存するのであります。
されば『如説修行抄(注4)』には、
「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、
豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ)
にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば
誰か経文の如く行じ給へる。
誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまず
よばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して
御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し」
(御書P673)
と仰せられているのであります。
まさしく「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」とのお言葉を、我々は今一度しっかりと心肝に染め、広布への尊い使命を持った「如来の使」として、勇躍奮起して折伏を実行し、遠くは一天四海本因妙広布流布を目指し、近くは平成二十七年・三十三年の目標達成ならびに本年度の誓願達成へ向けて、いよいよ御精進くださることを心からお願い申し上げ、本日の挨拶といたします。
-----------------------------------------------------------
注1:妙法蓮華経法師品第十
この品より安楽行品までの五品は、前の方便品より人記品までの八品に説かれた内容を流通せしめる部分。特に法師品は釈尊自らが経を広めることの功徳の深重なことを説いて世間に宣布することを勧める章。(岩波版法華経より)
ちなみに、猊下御引用の文の後ろには「薬王よ、若し悪人ありて、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏の前において、常に仏を毀罵(そしりののし)るとも、その罪は尚、軽し。若し人、一の悪言をもって、在家にもあれ、出家にもあれ、法華経を読誦する者を毀(そ)しらば、その罪は甚だ重し。」と続き、法華経を誹謗することの罪深さが語られていることに注意。
注2:地涌の流類
流類は眷属と言う意味であり、合わせて「地涌の菩薩の眷属である」となる。
「地涌の菩薩」とは、法華経『涌出品』において、釈尊の久遠の開顕を助けるために大地より涌出した六万恒河沙(ごうがしゃ)の大菩薩のことで、釈尊の久遠以来の弟子(本化(ほんげ)の菩薩)で三十二相の大威徳を具(そな)え、その上首として上行(じょうぎょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょうぎょう)の四大菩薩がいるが、末法にはそれらのすべての徳を具えた上行菩薩ただお一人が出現される。
すなわち『寿量品』で久遠本果を開顕した釈尊は、『神力品』に至って上行菩薩に結要(けっちょう)付嘱し、末法における法華弘通を託されたのであり、末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初自受用報身如来となる。
末法の一切衆生は、客観的な機から見ると、日蓮大聖人によって初めて妙法を下種される本未有善の荒凡夫なので、地涌の菩薩ではない。
しかし『御義口伝』の
「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と
唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」
(御書P1764)
の文に明らかなごとく、大聖人の御当体たる御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える功徳により、私たちにも地涌の菩薩の命が涌現するのです。
ただし『諸法実相抄』に、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
(同 P666)
と仰せのように、末法の衆生は御本尊を信ずる日蓮大聖人の眷属だけが、より正確には日興上人以来の血脈法水に連(つら)なる僧俗、すなわち総じての血脈だけでなく、別しての血脈相承が成されている当宗と、その三大秘法を報じる当宗僧俗のみが地涌の菩薩の境界を開くことができることとなり、偏狭な血脈論を報じる創価学会は明確に否定される。
注3:しんしょう(orしんせい)
心のあり方、心の特質、心根のこと。
注4:如説修行抄
○御述作の由来
本抄は、文永十(一二七三)年五月、大聖人様が五十二歳のときに佐渡一谷(いちのさわ)において認(したた)められた御消息。
大聖人様が数々の難に遭(あ)われていく中、佐渡に配流(はいる)されたことにより、ますます動揺し退転していく者が後を絶ちませんでした。そのような状況において、門下一同に対し、不退転の信心を促(うなが)されるために与えられた御消息が本抄で、如説修行についての御教示が主であることから『如説修行抄』と題されるが、本抄の追伸に「此の書御身(おんみ)を離さず常に御覧有るべく候」とあることから、『随身不離抄』とも称される。
なお、御真蹟は現存しないが大夫阿闍梨日尊の写本が残る。
○本抄の大意
(1)三類の敵人出現の予言
まずはじめに、真実の法華経の行者である大聖人様の弟子檀那となるならば、三類の敵人が現れることは必定(ひつじょう)であると述べるとともに、いざ大小の難が競い起こったときに退転していく者がいることを述べられ、平素の教訓に違背せぬよう門下一同を誡められています。
(2)三類の敵人が出現する理由
次に、如説修行の行者は現世安穏であるはずなのに、なぜ三類の強敵が興盛するのかとの問いを構えられ、その縁由(えんゆ)と現世安穏について述べられています。
(3)諸宗の誤りの指摘
如説修行の正意に迷い法華経以外の諸経にとらわれている諸宗の誤りを指摘されています。
(4)摂受と折伏の解説と採用すべき時の教え
仏法を修行するには摂受と折伏があることを知らなければならないとされ、末法今時は折伏を行ずる時であることを教示されています。そして、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しです。
(5)どのような難にも負けぬことの激励
末法においては、大聖人様並びに弟子檀那こそ如説修行の行人であること、それゆえどのような迫害を受けようとも、命が尽きるまで唱題をするよう勧奨されている。
○拝読のポイント
(1)不惜身命の精神を貫く覚悟を持とう
本抄は、全編を通じて大切な御教示が数多く拝せられるが、特に大切と思われる点が二つある。
まず一つ目は、末法は折伏の時であるということ。
大聖人様は本抄において、
「凡(およ)そ仏法を修行せん者は摂折
(しょうしゃく)二門を知るべきなり。
一切の経論此の二を出でざるなり。
されば国中の諸学者等、仏法をあらあら
まな(学)ぶと云へども、時刻相応の道理
を知らず」
と仰せになり、仏道修行には摂受と折伏の二門があって、時に応じて仏道修行の在り方も異なることをお示しである。
摂受とは、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引して正法に導く化導法であり、折伏とは、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法です。
本抄および
「仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時に
よるべし」(御書P578)
との御教示をあわせ、「仏法においては時ということが重要であり、末法の今に行うべき仏道修行は、勤行・唱題はもとより、折伏行であること。」の重要性が解き明かされる。
したがって、日蓮正宗に籍を置きながらも折伏を行わないとすれば、時を見失い仏道修行を怠(おこた)っている身であり、そこには功徳としての実証が生活の上に顕れる道理はなく、御本尊様の御威光を実感することはできないことが明かされる。
(2)折伏を行ずるところには必ず三類の強敵が現れるということです。
本抄に、
「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり」
とあり、また、
「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵(ごうてき)来たらん事は疑ひ無し」
とあるように、大聖人様の仏法を信受し、折伏を行っていくならば、言い換えるなら「正しい信心を貫き通しているなら」必ず三類の強敵が現れると御指南である。
三類の強敵とは、釈尊滅後、法華経の行者を様々な形で迫害する三種の敵人のことで、俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つをいい、この三類の強敵が、釈尊滅後のなかでも特に末法において現れると大聖人様は御指南あそばされている。
このことは、大聖人様が弟子檀那に対して常々仰せになられていたが、いざ三類の強敵に迫害されると、弟子檀那の中には退転してしまう者が後を絶たなかったようで、その様子を本抄には、
「此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと。然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」
と仰せになっている。
また、大聖人様は当時の弟子檀那に対する迫害の様子を本抄において次のように述べられている。
「弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし」
このことから、当時の弟子檀那が過酷な迫害を受けていたことをうかがい知ることができる。
では、現在の私たちが同じ状況に立たされたとして、果たしてどれだけの人が退転せずに正法を受持できるか。
大聖人様の御指南は不変なので、折伏を行ずるところには、たとえ時代は変わり世の中が変わろうとも三類の強敵が必ず現れる。
ゆえに私たちは、本抄に、
「一期過ぎなむ事は程(ほど)無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」
と仰せのごとく、いかなる強敵が押し寄せようとも、不惜身命を貫く覚悟を持たねばならず、本抄の結びにおいて、大聖人様が弟子檀那に対し壮絶な覚悟をする御指南されていることを肝に銘じるべき。
すなわち、たとえ首を鋸(のこぎり)で切られ、胴体を鋭い鉾(ほこ)で突かれ、足には釘を打って錐(きり)で揉(も)むようなことがあっても、命のある限り唱題を続けなさい。そうするならば、必ず釈迦・多宝・十方の諸仏が守護し、寂光の宝刹(ほうせつ)に送り届けてくださるとの指南。