夏への扉 ひとつでも信じてることさえあれば

人の世の不可思議について、徒然なるままに綴るブログ。

もう「がんばって」などと言わない

2010-03-06 | 日記

「がんばって」。
便利な言葉です。
日本では、Good Luck! と同じ意味で使われています。

「がんばって」は、「私は、あなたの味方で、あなたに対しては善意の人間ですよ」と自分の気持ちを伝えているだけです。
そこには、相手の事情に対する理解や、本当の思いやりはないのかもしれません。
本当の思いやりがあったとしても、実は相手には何も伝わっていません。



バンクーバー五輪が終わりました。
日本からも、レポーターが現地に赴き、連日、日本人選手の動向を伝えていました。
選手にインタビューした後は、どのレポーターも必ず「がんばって、ぜひ日本にメダルを持ち帰ってください」というような意味のことを繰り返します。どのテレビ局も、どのコメンテーターも。まるでロボットのように同じことを繰り返していました。

日本にいるときから選手たちは十分頑張っているのです。これ以上何をがんばれ、というのでしょうか。
「あますところなく実力を発揮して、悔いのない演技ができることを祈っています」という言い方に変えたら、選手たちは、どれだけいい成績を残せたことでしょう。

「結果がどうであれ、日本人は、あなたの帰国を楽しみに待っていますよ」と、どうして言えないのでょうか。

NHK総合で「ツレがうつになりまして」というドラマの再放送を観ました。
外資系データ処理会社に勤務する夫と、友人感覚の漫画家志望の奥さんが、夫の「うつ病」に向き合うドラマです。
http://www.nhk.or.jp/kindora/tsure/index.html


私の周りにも、最近はうつ病の人が多く、過去に友人・知り合いの何人かを、うつ病で亡くしました。
自殺です。

このドラマは、本当に心の中を上手に描いています。
主演の原田泰造さんの演技が、意外や意外です。
この作家は、実体験があるのだと思いました。
分かる人には、心を打つドラマです。

うつ病のなり始めは、不眠、頭痛、心臓の動悸、嘔吐、足元のふらつき、など、いくつかのシグナルが発せられます。しかし、こうした症状は、日常的なものなので、周囲の人も、本人でさえも見落としがちです。
ドラマのように、毎日顔を合わせている夫婦であっても、分からないのです。

まして、会社の同僚などは、常に上からプレッシャーをかけられているのですから、人のことを深く見つめるゆとりなどないのです。自分のことだけでせいいっばいです。

このドラマの主人公のように、何があっても人にせいにしない責任感の強い人、有能でテキパキ仕事を処理できる人、思いやりに溢れた豊かな感性のある人などが、特にうつ病になりやすいのです。
つまり、「優れた、いい人」がなりやすいのです。
もっと率直に言えば、人として魅力に溢れた人が、うつ病になりやすいものなのです。

この、あなたの何気ない「がんばって」の一言が、相手を追い詰め、自殺に追いやっていることを知ったら、あなたはどうしますか?

しかし、こんなことは、自分が、うつ病になった経験がなければ、なかなか分からないものなのです。
そして、ついうっかり、「がんばって」と間違った励ましの仕方をしてしまうのです。

相手は、もういっぱいいっぱいに、がんばっているのです。
その上、さらに「がんばって」と言うことは残酷な仕打ち以外の何者でもないのです。

相手は、そんなあなたの心無い「がんばって」の一言を真剣に受け止めます。
「そうか、自分は、がんばっているように人には見られていないんだな。これではダメだ。もっとがんばらなくちゃ」と、あなたの何気ない「がんばって」に一人で静かに考え応えようとしているのです。
そして、もう「がんばれなくなって」倒れてしまうのです。

「なんだ、そんなにがんばらなくてもいいのに。いちいち人の言うことを真に受けないでよ」と、仮にあなたは相手に言ったとします。

それでも、相手は、そんなあなたを恨んだりしていないのです。
「みんなや家族の期待に応えることができない自分など、価値のない人間だ」と自分を責めるのです。
人を恨むことを知らない人たち。実は、本当に素晴らしい人たちなのです。
私たちにとっては、宝物のような人たちなのです。

「自分は価値のない人間だ」と思っても、さらに無理します。
これは、外見からは、ほとんど分かりません。なぜなら、自分が必死に努力していることを相手が知ったら、不快な思いをさせてしまうのではないか、と心配しているからです。

こうした心優しい人は、わずかでも人を苦しめることなど絶対にできない人なのです。もし、あなたが相手を罵倒して、その結果、相手が、うつ病になって自殺しても、それでもあなたを恨んだりしないのです。
こんな辛いことが、他にありますか?

昔、東京五輪のマラソンランナー、円谷幸一という自衛官が、銅メダルを取りました。戦後、まだ体が貧弱な日本人が多い中で、これは快挙でした。
日本中が、円谷選手の銅メダルに沸きかえったのです。

しかし、次のオリンピックでは、ふるわず、それを苦に自殺してしまったのです。円谷さんの自殺は、日本国民全員の責任なのです。
彼は、もう頑張れなかったのです。それでも、応援の声援に応えようとてストイックな生活を続けてきました。
結果は出ませんでしてた。

「自分はみんなの期待を裏切った。こんな自分は生きている価値などない」と勝手に思い込んでしまうのです。

「そんなの病気なんだから仕方がないよ」と片付けられますか?
すべて自殺した円谷さんの責任にして、自分たちの「無知」は責めないのですか?
私たちは間違いなく加害者なのです。
たとえ、法律を犯していなくとも、そんなもの何になりますか?
自分に対して犯す罪がいちばん恐ろしいのです。
無知だから平気でできるのです、こんな残酷なことを。

でも、日本国民は知っているのです。自分たちが円谷さんを自殺に追い込んだ、ということを。
もちろん、私は当時のことは知りません。
ただ、熱狂は、こうした物言わぬ人たちの悲鳴をかき消してしまうことだけは知らなければならないでしょう。

「がんばって」などという言葉は、そもそも何も意味がありません。
もう止めませんか?

それより、「もし、うまくいったら、思いっきり美味しいものをご馳走するよ」と言ってあげたほうが、よほどいいです。
本当に「いい結果を出してほしい」のなら、そうするべきです。

知らない間に、あなたが加害者になる恐怖に怯えるより、別な言い方にしよう、と心がけるほうがいいと思いませんか?
人の命がかかっているかも知れないのです。
いや、人の命がかかっているのです。

これは、私の体験談です。

その頃、私は若手作家さんの知り合いが多かったのです。
普段の人となりを知っていのるので、大作家などともてはやされ、テレビに出ているのを見ると、失礼ながらクスクス笑ってしまいます。

その中で、特に印象に残っているのが、この方です。
http://www.alao.co.jp/2004ArchivalDairyAlaoYokogi/SagisawaMegumu/040415.html


私は、当時、いろいろなアウトドアのグループに入っていました。
毎回、20~30人程度、集まってテニスをやったり、スキーに行ったり、キャンプをしたりと、わいわい騒いでいたのです。

幹事から「家が近いので、この人を迎えにいってくれますか?」と言われて、車にお乗せしたのが、始まりです。
彼女が文学界新人賞を最年少で受賞した直後のことです。

伊豆まででしたから、道中、行き帰りの車の中で、外国の女優限定、あるいは米国のミュージシャン限定という「厳しい条件つき」のしりとりなどをやって時間をつぶしました。
その記憶力の良さ、感覚の鋭さ、まさしく天才でした。

当時、将来の文学界を背負って立つ、とまで言われた人ですから、出版社側のガードが固く、簡単にはお願いごとなどできないのですが、私の頼みごとを快く引き受けてくださったことを今でも感謝しています。

その後、彼女は期待通りに超売れっ子作家になり、新進気鋭の映画監督と結婚して、順風満帆の様子。
テレビ番組で、レギュラーのコメンテーターをされていたのを観たときは、その才気に再び感動したものでした。

その後、ずっと疎遠でしたが、あるときテレビのニュースで信じられない知らせを聞いたのです。
彼女が自殺した、と。
ショックでした。心の中で、1トンの鉄の塊が落ちたような音がしました。

ただ、私には、なんとなくその理由が分かるのです。
彼女は、その天才がゆえに、人の見ていないことを見ていたのです。これは初対面で感じたことです。
あまりの天才がゆえに、本当に理解してくれる人がひとりもいなかったのだと。

常人に天才を理解するのは、ほぼ不可能です。だからといって、天才が故の悲劇と片付けていいはずがありません。

たったひとり。たったひとりでいいのです。
本当に理解できる人がいれば、彼女は、大作家の名をほしいままにしていたでしょう。

書店に行くと、彼女の著作コーナーがあります。その名前を見ると、今でも悔しくて仕方がありません。

この経験が、それまで杜撰な私の態度を慎重にしました。特に対人面については言葉を選ぶように私を変えたのです。


もうひとり。
私の親友が、うつ病になってしまいました。
やはり、優秀な人です。
ガラスのように脆く、鋭い感性を持っていました。

実家は、地主。数軒の飲食店を経営する裕福な家庭です。
そのまま、親の脛をかじっていればいいのですが、なまじ生真面目で自立心が人一倍強いので、なんでもかんでも引き受けてしまいます。

人を心地よくしなければけいないと、細心の注意を払って生きているような人間です。
いつの間にか重度のうつ病になって、嘔吐、頭痛、絶食、昏倒と、本当に命の危険があったのです。死ぬことばかり考えていたのです。
にもかかわらず、親には迷惑をかけたくない、と実家には知らせないのです。
そんな人に限って、うつ病になりやすいのです。

私は、うつ病の本当の恐ろしさを少しは知っています。
今度は絶対に「死なせはしない」と。

それから、うつ病に関する専門書を読み漁り、知識を蓄えました。グスグスしていたら大変ことが起きるかもしれないので、数日で「にわかセラピスト」の誕生です。

私が仕事以外で個人的に使える時間のすべてを使いました。
時間がない、命の危険がある。
とにかく、本人の同意を誘うようにして、海に山に高原に連れ出して、くったくのない話をしました。

病気のことは一切話題にしません。

「病気なのだから、休むのが当たり前だ」
「いままで人の三倍がんばってきて、これ以上頑張ったら神様が怒る」
「雨は必ず止む」
「夜明け前がいちばん暗い」
「人と比べても意味がない」
「自分らしく生きた人間がいちばんの勝ちだ」
………
こんなことを繰り返していたのです。

すべてを受け入れる。
決して「No」と言わない。
「がんばって」と言わない。

私が自分の「掟」としたことです。

他人は風邪を引いたときは、「お大事に」と言いますが、うつ病の人に対しては、「がんばって治して」と奇妙奇天烈なことを言います。
人間は、かくも不思議な生き物です。
まったく相手の心を見ていない無責任な言葉を浴びせかけて平気なのです。
私は、こうした心無い人間たちからガードしなければならない。
そう誓ったのです。

かかっている精神科医から処方された薬も種類が多すぎるので、代わりにチェックしました。なんと4種類、10粒も飲むようにその精神科医は言うのです。
「これはおかしい」。こんな精神科医の言うことなど鵜呑みにできない。
第一、薬を飲んだ後、本人は立っていられないほど、ふらつくのです。
これでは階段から落ちたり、車にはねられてしまう。
このヤブ医者は、いったい何を診ているのだ!
お前は人殺しか!
世の中の冷たさ、無関心に怒りがこみ上げてきます。

本人にしてみれば、生真面目が災いしてか、薬を処方してくれた精神科医の気分を害したくないぱかりに、一生懸命、薬を飲むのです。
それでも良くならない。絶望するのです。
実は、処方が間違えていることがほとんどなのです。

それでも、遺書には、感謝の言葉をたくさん並べて。
ひとりで逝くのです。
無関心なヤツラ、「何を見ているんだ!」です。

私は、うつ病の人の周囲を取り囲む医者、無理解な家族、急に離れていく友人たちに鬼のように怒っていたのです。

もちろん、当人にはそんな態度は見せません。平静を装い、言葉は穏やか、接するときは細心の注意を払うのです。
「修行僧でも、こんな苦行には耐えられまい」と思ったものでした。


そして、疑わしい精神科医に通うのを止めさせて、大病院に替えさせました。
抗うつ剤の量も種類が少なくなり、安定してきました。

そして5ヵ月経ったある日、大病院の精神科医から呼ばれたのです。
「ぜひ、お会いしたいのですが、お時間頂戴できますか?」。
いったい何事だろう。

私は仕事の合間を縫って、その大病院に向かいました。
精神科は別棟の近代的な建物です。ロビーには誰もいません。
ガラ~ンとしてロビーにひとりだけ、若い医師が立っていました。

その精神科医は、私を部屋に通してからすぐに、
「このケースは一般に全快までには、かなりの月日がかります。こんなに早く病気が治るとは考えていませんでした」。
「何があったのか知りたい」というのです。

私は、不思議そうな怪訝な表情を浮かべる精神科医に吹き出しそうになりながら、
「『がんばって』と言わなかっただけです」と答えました。

そして、親友に「素晴らしい自分を認めない君は、まだ十分生きたとはいえないだろう。それを確かめてみないか」と
繰り返し伝えたことを話したのです。

精神科医は、私の答えに納得したようです。
きっと、私が呪術でも使ったのかと思っていたのかもしれませんね。

それは、「本人が、自分が素晴らしいことを少しずつ分かってきた」からです。私は、何もしなかった。
そして、親友は全快したのです。5ヶ月で。

この経験で、私は言葉の大切さを自覚したのです。
そして、あきらめなければ道は開ける。
信じられないことだって、起きるかもしれないと。
それが叶わなければ、焦らずじっとしていればいいんだと。
今は「その時期」でないだけだ。
このことが分かったのです。

「素晴らしい自分を認めない君は、まだ十分生きたとはいえないだろう。それを確かめてみないか」……
こういう意味のことを、いろいろな表現を交えて、それとなく話してきたのです。
ただ、本当に私自身が、心から、そう信じていなければ、相手は、私の言葉が、“ただのお為ごかし”であることを見破ったことでしよう。
そのとき、本人の絶望は、ますます深くなってしまいます。
それでも、本人は、ニコニコ微笑んでいるだけなのです。私を気遣って。

まず、自分が、本当に相手が素晴らしい存在であることを信じて、それを、心に刻むことです。
それは、結局は、自分自身による「心の掘り下げ」に役立ちます。
いちばん、豊かになったのは、うつ病を克服した友人ではなく、私自身であったことが後になって分かったのです。


実を言うと、ここだけの話ですが、抗うつ剤は、少しずつ減らしていたのですよ。
その方法は、当人が毎日、決まりきった時間に薬を飲むことを忘れるように、豊かなこと、人の痛み、などについて、話したのです。
本人は、薬を飲むことを忘れてしまったことを恐怖して、あわててコップに水を注ぐのです。
しかし、何度も、その都度、こうした屈託のない話をします。
すると、本人は、「また薬を飲むのを忘れてしまった」と気づくのです。
そして、薬の量が減ったことにも気づくのです。

こんなこと、素人が勝手にやっては危険です。
医師に怒られますので内緒に。