夏への扉 ひとつでも信じてることさえあれば

人の世の不可思議について、徒然なるままに綴るブログ。

もう「がんばって」などと言わない

2010-03-06 | 日記

「がんばって」。
便利な言葉です。
日本では、Good Luck! と同じ意味で使われています。

「がんばって」は、「私は、あなたの味方で、あなたに対しては善意の人間ですよ」と自分の気持ちを伝えているだけです。
そこには、相手の事情に対する理解や、本当の思いやりはないのかもしれません。
本当の思いやりがあったとしても、実は相手には何も伝わっていません。



バンクーバー五輪が終わりました。
日本からも、レポーターが現地に赴き、連日、日本人選手の動向を伝えていました。
選手にインタビューした後は、どのレポーターも必ず「がんばって、ぜひ日本にメダルを持ち帰ってください」というような意味のことを繰り返します。どのテレビ局も、どのコメンテーターも。まるでロボットのように同じことを繰り返していました。

日本にいるときから選手たちは十分頑張っているのです。これ以上何をがんばれ、というのでしょうか。
「あますところなく実力を発揮して、悔いのない演技ができることを祈っています」という言い方に変えたら、選手たちは、どれだけいい成績を残せたことでしょう。

「結果がどうであれ、日本人は、あなたの帰国を楽しみに待っていますよ」と、どうして言えないのでょうか。

NHK総合で「ツレがうつになりまして」というドラマの再放送を観ました。
外資系データ処理会社に勤務する夫と、友人感覚の漫画家志望の奥さんが、夫の「うつ病」に向き合うドラマです。
http://www.nhk.or.jp/kindora/tsure/index.html


私の周りにも、最近はうつ病の人が多く、過去に友人・知り合いの何人かを、うつ病で亡くしました。
自殺です。

このドラマは、本当に心の中を上手に描いています。
主演の原田泰造さんの演技が、意外や意外です。
この作家は、実体験があるのだと思いました。
分かる人には、心を打つドラマです。

うつ病のなり始めは、不眠、頭痛、心臓の動悸、嘔吐、足元のふらつき、など、いくつかのシグナルが発せられます。しかし、こうした症状は、日常的なものなので、周囲の人も、本人でさえも見落としがちです。
ドラマのように、毎日顔を合わせている夫婦であっても、分からないのです。

まして、会社の同僚などは、常に上からプレッシャーをかけられているのですから、人のことを深く見つめるゆとりなどないのです。自分のことだけでせいいっばいです。

このドラマの主人公のように、何があっても人にせいにしない責任感の強い人、有能でテキパキ仕事を処理できる人、思いやりに溢れた豊かな感性のある人などが、特にうつ病になりやすいのです。
つまり、「優れた、いい人」がなりやすいのです。
もっと率直に言えば、人として魅力に溢れた人が、うつ病になりやすいものなのです。

この、あなたの何気ない「がんばって」の一言が、相手を追い詰め、自殺に追いやっていることを知ったら、あなたはどうしますか?

しかし、こんなことは、自分が、うつ病になった経験がなければ、なかなか分からないものなのです。
そして、ついうっかり、「がんばって」と間違った励ましの仕方をしてしまうのです。

相手は、もういっぱいいっぱいに、がんばっているのです。
その上、さらに「がんばって」と言うことは残酷な仕打ち以外の何者でもないのです。

相手は、そんなあなたの心無い「がんばって」の一言を真剣に受け止めます。
「そうか、自分は、がんばっているように人には見られていないんだな。これではダメだ。もっとがんばらなくちゃ」と、あなたの何気ない「がんばって」に一人で静かに考え応えようとしているのです。
そして、もう「がんばれなくなって」倒れてしまうのです。

「なんだ、そんなにがんばらなくてもいいのに。いちいち人の言うことを真に受けないでよ」と、仮にあなたは相手に言ったとします。

それでも、相手は、そんなあなたを恨んだりしていないのです。
「みんなや家族の期待に応えることができない自分など、価値のない人間だ」と自分を責めるのです。
人を恨むことを知らない人たち。実は、本当に素晴らしい人たちなのです。
私たちにとっては、宝物のような人たちなのです。

「自分は価値のない人間だ」と思っても、さらに無理します。
これは、外見からは、ほとんど分かりません。なぜなら、自分が必死に努力していることを相手が知ったら、不快な思いをさせてしまうのではないか、と心配しているからです。

こうした心優しい人は、わずかでも人を苦しめることなど絶対にできない人なのです。もし、あなたが相手を罵倒して、その結果、相手が、うつ病になって自殺しても、それでもあなたを恨んだりしないのです。
こんな辛いことが、他にありますか?

昔、東京五輪のマラソンランナー、円谷幸一という自衛官が、銅メダルを取りました。戦後、まだ体が貧弱な日本人が多い中で、これは快挙でした。
日本中が、円谷選手の銅メダルに沸きかえったのです。

しかし、次のオリンピックでは、ふるわず、それを苦に自殺してしまったのです。円谷さんの自殺は、日本国民全員の責任なのです。
彼は、もう頑張れなかったのです。それでも、応援の声援に応えようとてストイックな生活を続けてきました。
結果は出ませんでしてた。

「自分はみんなの期待を裏切った。こんな自分は生きている価値などない」と勝手に思い込んでしまうのです。

「そんなの病気なんだから仕方がないよ」と片付けられますか?
すべて自殺した円谷さんの責任にして、自分たちの「無知」は責めないのですか?
私たちは間違いなく加害者なのです。
たとえ、法律を犯していなくとも、そんなもの何になりますか?
自分に対して犯す罪がいちばん恐ろしいのです。
無知だから平気でできるのです、こんな残酷なことを。

でも、日本国民は知っているのです。自分たちが円谷さんを自殺に追い込んだ、ということを。
もちろん、私は当時のことは知りません。
ただ、熱狂は、こうした物言わぬ人たちの悲鳴をかき消してしまうことだけは知らなければならないでしょう。

「がんばって」などという言葉は、そもそも何も意味がありません。
もう止めませんか?

それより、「もし、うまくいったら、思いっきり美味しいものをご馳走するよ」と言ってあげたほうが、よほどいいです。
本当に「いい結果を出してほしい」のなら、そうするべきです。

知らない間に、あなたが加害者になる恐怖に怯えるより、別な言い方にしよう、と心がけるほうがいいと思いませんか?
人の命がかかっているかも知れないのです。
いや、人の命がかかっているのです。

これは、私の体験談です。

その頃、私は若手作家さんの知り合いが多かったのです。
普段の人となりを知っていのるので、大作家などともてはやされ、テレビに出ているのを見ると、失礼ながらクスクス笑ってしまいます。

その中で、特に印象に残っているのが、この方です。
http://www.alao.co.jp/2004ArchivalDairyAlaoYokogi/SagisawaMegumu/040415.html


私は、当時、いろいろなアウトドアのグループに入っていました。
毎回、20~30人程度、集まってテニスをやったり、スキーに行ったり、キャンプをしたりと、わいわい騒いでいたのです。

幹事から「家が近いので、この人を迎えにいってくれますか?」と言われて、車にお乗せしたのが、始まりです。
彼女が文学界新人賞を最年少で受賞した直後のことです。

伊豆まででしたから、道中、行き帰りの車の中で、外国の女優限定、あるいは米国のミュージシャン限定という「厳しい条件つき」のしりとりなどをやって時間をつぶしました。
その記憶力の良さ、感覚の鋭さ、まさしく天才でした。

当時、将来の文学界を背負って立つ、とまで言われた人ですから、出版社側のガードが固く、簡単にはお願いごとなどできないのですが、私の頼みごとを快く引き受けてくださったことを今でも感謝しています。

その後、彼女は期待通りに超売れっ子作家になり、新進気鋭の映画監督と結婚して、順風満帆の様子。
テレビ番組で、レギュラーのコメンテーターをされていたのを観たときは、その才気に再び感動したものでした。

その後、ずっと疎遠でしたが、あるときテレビのニュースで信じられない知らせを聞いたのです。
彼女が自殺した、と。
ショックでした。心の中で、1トンの鉄の塊が落ちたような音がしました。

ただ、私には、なんとなくその理由が分かるのです。
彼女は、その天才がゆえに、人の見ていないことを見ていたのです。これは初対面で感じたことです。
あまりの天才がゆえに、本当に理解してくれる人がひとりもいなかったのだと。

常人に天才を理解するのは、ほぼ不可能です。だからといって、天才が故の悲劇と片付けていいはずがありません。

たったひとり。たったひとりでいいのです。
本当に理解できる人がいれば、彼女は、大作家の名をほしいままにしていたでしょう。

書店に行くと、彼女の著作コーナーがあります。その名前を見ると、今でも悔しくて仕方がありません。

この経験が、それまで杜撰な私の態度を慎重にしました。特に対人面については言葉を選ぶように私を変えたのです。


もうひとり。
私の親友が、うつ病になってしまいました。
やはり、優秀な人です。
ガラスのように脆く、鋭い感性を持っていました。

実家は、地主。数軒の飲食店を経営する裕福な家庭です。
そのまま、親の脛をかじっていればいいのですが、なまじ生真面目で自立心が人一倍強いので、なんでもかんでも引き受けてしまいます。

人を心地よくしなければけいないと、細心の注意を払って生きているような人間です。
いつの間にか重度のうつ病になって、嘔吐、頭痛、絶食、昏倒と、本当に命の危険があったのです。死ぬことばかり考えていたのです。
にもかかわらず、親には迷惑をかけたくない、と実家には知らせないのです。
そんな人に限って、うつ病になりやすいのです。

私は、うつ病の本当の恐ろしさを少しは知っています。
今度は絶対に「死なせはしない」と。

それから、うつ病に関する専門書を読み漁り、知識を蓄えました。グスグスしていたら大変ことが起きるかもしれないので、数日で「にわかセラピスト」の誕生です。

私が仕事以外で個人的に使える時間のすべてを使いました。
時間がない、命の危険がある。
とにかく、本人の同意を誘うようにして、海に山に高原に連れ出して、くったくのない話をしました。

病気のことは一切話題にしません。

「病気なのだから、休むのが当たり前だ」
「いままで人の三倍がんばってきて、これ以上頑張ったら神様が怒る」
「雨は必ず止む」
「夜明け前がいちばん暗い」
「人と比べても意味がない」
「自分らしく生きた人間がいちばんの勝ちだ」
………
こんなことを繰り返していたのです。

すべてを受け入れる。
決して「No」と言わない。
「がんばって」と言わない。

私が自分の「掟」としたことです。

他人は風邪を引いたときは、「お大事に」と言いますが、うつ病の人に対しては、「がんばって治して」と奇妙奇天烈なことを言います。
人間は、かくも不思議な生き物です。
まったく相手の心を見ていない無責任な言葉を浴びせかけて平気なのです。
私は、こうした心無い人間たちからガードしなければならない。
そう誓ったのです。

かかっている精神科医から処方された薬も種類が多すぎるので、代わりにチェックしました。なんと4種類、10粒も飲むようにその精神科医は言うのです。
「これはおかしい」。こんな精神科医の言うことなど鵜呑みにできない。
第一、薬を飲んだ後、本人は立っていられないほど、ふらつくのです。
これでは階段から落ちたり、車にはねられてしまう。
このヤブ医者は、いったい何を診ているのだ!
お前は人殺しか!
世の中の冷たさ、無関心に怒りがこみ上げてきます。

本人にしてみれば、生真面目が災いしてか、薬を処方してくれた精神科医の気分を害したくないぱかりに、一生懸命、薬を飲むのです。
それでも良くならない。絶望するのです。
実は、処方が間違えていることがほとんどなのです。

それでも、遺書には、感謝の言葉をたくさん並べて。
ひとりで逝くのです。
無関心なヤツラ、「何を見ているんだ!」です。

私は、うつ病の人の周囲を取り囲む医者、無理解な家族、急に離れていく友人たちに鬼のように怒っていたのです。

もちろん、当人にはそんな態度は見せません。平静を装い、言葉は穏やか、接するときは細心の注意を払うのです。
「修行僧でも、こんな苦行には耐えられまい」と思ったものでした。


そして、疑わしい精神科医に通うのを止めさせて、大病院に替えさせました。
抗うつ剤の量も種類が少なくなり、安定してきました。

そして5ヵ月経ったある日、大病院の精神科医から呼ばれたのです。
「ぜひ、お会いしたいのですが、お時間頂戴できますか?」。
いったい何事だろう。

私は仕事の合間を縫って、その大病院に向かいました。
精神科は別棟の近代的な建物です。ロビーには誰もいません。
ガラ~ンとしてロビーにひとりだけ、若い医師が立っていました。

その精神科医は、私を部屋に通してからすぐに、
「このケースは一般に全快までには、かなりの月日がかります。こんなに早く病気が治るとは考えていませんでした」。
「何があったのか知りたい」というのです。

私は、不思議そうな怪訝な表情を浮かべる精神科医に吹き出しそうになりながら、
「『がんばって』と言わなかっただけです」と答えました。

そして、親友に「素晴らしい自分を認めない君は、まだ十分生きたとはいえないだろう。それを確かめてみないか」と
繰り返し伝えたことを話したのです。

精神科医は、私の答えに納得したようです。
きっと、私が呪術でも使ったのかと思っていたのかもしれませんね。

それは、「本人が、自分が素晴らしいことを少しずつ分かってきた」からです。私は、何もしなかった。
そして、親友は全快したのです。5ヶ月で。

この経験で、私は言葉の大切さを自覚したのです。
そして、あきらめなければ道は開ける。
信じられないことだって、起きるかもしれないと。
それが叶わなければ、焦らずじっとしていればいいんだと。
今は「その時期」でないだけだ。
このことが分かったのです。

「素晴らしい自分を認めない君は、まだ十分生きたとはいえないだろう。それを確かめてみないか」……
こういう意味のことを、いろいろな表現を交えて、それとなく話してきたのです。
ただ、本当に私自身が、心から、そう信じていなければ、相手は、私の言葉が、“ただのお為ごかし”であることを見破ったことでしよう。
そのとき、本人の絶望は、ますます深くなってしまいます。
それでも、本人は、ニコニコ微笑んでいるだけなのです。私を気遣って。

まず、自分が、本当に相手が素晴らしい存在であることを信じて、それを、心に刻むことです。
それは、結局は、自分自身による「心の掘り下げ」に役立ちます。
いちばん、豊かになったのは、うつ病を克服した友人ではなく、私自身であったことが後になって分かったのです。


実を言うと、ここだけの話ですが、抗うつ剤は、少しずつ減らしていたのですよ。
その方法は、当人が毎日、決まりきった時間に薬を飲むことを忘れるように、豊かなこと、人の痛み、などについて、話したのです。
本人は、薬を飲むことを忘れてしまったことを恐怖して、あわててコップに水を注ぐのです。
しかし、何度も、その都度、こうした屈託のない話をします。
すると、本人は、「また薬を飲むのを忘れてしまった」と気づくのです。
そして、薬の量が減ったことにも気づくのです。

こんなこと、素人が勝手にやっては危険です。
医師に怒られますので内緒に。


死ぬときに後悔する25のこと

2009-11-17 | 日記
「死ぬときに後悔する25のこと」という本が、ロングセラーになっています。。
1000人の末期患者に立ち会ってきた週末医療専門家の書いた本です。
大津秀一氏 (緩和医療医) 1976年生まれ。茨城県出身。岐阜大学医学部卒業。緩和医療医。
「緩和医療」とあるので、主にガンの緩和ケアのことでしょう。


私はこの本をまだ読んでいません。が、テレビのバラエティ情報番組で同じタイトル=「死ぬときに後悔する25のこと」というコーナー企画をやっていました。大方の内容は分かりました。

テーマが重く、デリケートなので、「死を待つ人々」の映像は実際のものではなく、イメージVでした。それでも身につまされる思いになります。

・なぜ自分は、俺がいちばんだと、人の助言を聞かなかったのか。

・なぜ、あのとき、「ありがとうの一言」が言えなかったのか。

・なぜタバコを止めて、という家内の忠告を無視し続けてきたのか。

     …………

人は、なぜ元気なうちに素直になれないのか。
病床に臥せって初めて介護してくれる人のありがたさが身にしみてわかる。
人は自分ひとりの力では生きてはいけない、ということがわかる。

人は生まれたときから「死」を運命づけられています。「死」に向かってひたすら人生をつき進んでいくのです。
この宿命は、どんな天才だろうと、どんな聖人だろうと、等しく訪れる約束事です。

そして、人の明日は誰にもわかりません。玄関のドアを開けたとたん、ダンプカーが突っ込んできたり、通勤・通学の駅の階段でコケて頭を打つかもしれません。それが「宿命」というものでしょうか。
どんなに注意していても、突然やってくる災厄のようなものがあります。
そもそも、今生きていることそのものが「奇跡」のようなものです。

この一瞬、一瞬が「死」へ向かって突き進んでいること。このことは誰でも頭の中では理解できています。これは、生きとし生けるもの、すべてに負わされた宿命です。

「運命」と「宿命」は違うもの。「宿命」は生まれながらに決まっているもの。「運命」は、自分の力で切り開くことができるもの、だから希望を持って頑張れ!と人は言います。私も青年の頃はそう思っていました。でも、どうも違うようです。
宿命は、自分では決められないもの。
運命は、切り開くものではなく、与えられるもの。
そんな風に考えるようになりました。

「因縁因果」という言葉があります。過去にやってきたことが「因」となり、その「因」が結実したものが「果」という。人の人生は、この因果律のスパイラルの中での流転していくのです。そこからは何人も逃れることはできないのです。

芭蕉の句に「夏草やつわものどもが夢のあと」という句があります。どんなに栄耀栄華を誇っても「盛者必衰」の「掟」からは逃れられないことを詠った句です。
どんなに隆盛を極めても、やがては衰退がやってくる。
歴史上の偉大な革命家たちが、百年、二百年の時を経過した後では、「粗暴な暴君」と評価されたり、「ファシスト」と酷評されたりしてしまうのです。
そのときに「正しい」と思っても、時代が移り変わり、社会の共通価値が変わればそれまで「正義」とされていたことさえ「犯罪」になってしまうのです。

そういう長い時間のモノサシで見れば、今、あなたが、そして私がやっていることは、ほとんど間違いだらけなのでしょう。
この一瞬が、宿命が形作る因を形成していること。だから、慎重に、悪い因を作らぬよう、粗相をしないよう生きよう、と考えます。
もっとも、輪廻ということがあれば、の話ですが。
輪廻転生があっても、転生したときは忘れているのですから、ないも同じことなのですが。

しかし、たとえ間違いでも、良かれと思ったことは、やったほうがいいのです。結果はわかりません。しまった、間違えた!と分かったときは、「ごめんなさい」と心から謝ればいいのです。
謝れば、それで済む、ということばかりではありません。しかし、少なくとも、誤りの「因」・「果」の鎖は、そこで断ち切ることができます。

現代は、みんな迷っています。大成功した者も、大伽藍の中の大僧正も、大天才も、みんな悩んでいます。「自分の進んでいる道が正しいのか、そうでないのか分からない」と言います。一見、なんの屈託もないように見える人でも悩んでいます。「何か違う」と思っているのです。

大往生、という言葉があります。
いかにも「わが人生に悔いなし」といった感じです。
果たして、そんな人生などあるのでしょうか。
おそらく「ない」と思います。
後悔に苛まれ、塗炭の苦しみにもがいて息絶えるのではないか。

幸いにも、突然死でもなければ、人の最期には、「死」という「悟り」の時間が天の采配によって用意されています。このときにこれまで来し方を、しみじみ想うのでしょう。

私は、こう考えています。
「しょせん、人は人。いくら学問を積んでも、心の修養をしても、しょせんは、どこまでいっても人。それなら後悔を恐れず、良かれと思ったことはやってみよう」と。
そして、死の渕に立ったときは、「よーし、死後の世界が、どんなになっているのか、これからじっくり調べてやるぞ」と。

うおー、なんと業の深い人間だこと。




「価値観」という落とし穴

2009-11-15 | 日記
芸能人同士のカップルが離婚するときに「価値観の違い」を理由に挙げます。
若い女性でも、「彼とは価値観が違うんだよねぇ」などと言ったりします。
「価値観」とは、そもそもなんでしょうか。何時頃から日本人はこの言葉を日常的に使うようになったのでしょうか。
私は、この「価値観」という言葉に以前よりどうも違和感を感じて仕方がないのです。
端的に言えば、これは日本人に仕掛けられた「罠」だと思っているのです。

昨日と今日で「価値観」が大きく変わることはありません。長い期間、ある条件、環境に置かれ、ある習慣のもとで生活した結果、その個人独自の感じ方が形成されます。要するに「コレ、私好き」、「アレ、私嫌い」。そんな単純なことを理屈っぽく説明するための方便に過ぎません。

芸能人カップルの離婚記者会見のときも、「価値観」なんて持ち出さないで、「嫌いになった」とはっきり言ったほうがいいです。
もちろん、好きでも分かれる場合もあります。こんな場合の離婚記者会見には「価値観」なんて言葉は出てきません。相手へのいたわりの言葉、これが自然に出てくるはずなのです。

「価値観」とは、
「好き嫌い」の感情を大人らしく装うための偽装に他ならないのです。

私は日本人には「価値観の世界」は似合わないと思っています。
日本人には特殊な能力があります。「双方の確執の元になりそうなことは、あえて触れないままにしておいて、相手の心変わりを温かく待つ」という能力です。
相手を傷つけずに自分の思いを上手に伝える優れた手法のことです。
自己主張こそ存在の証、と考える欧米人には永遠に理解できないことでしょう。
反面、「なあなあでうやむやにしてしまう」悪しき習慣だ、とする向きもあるでょう。私は、どちらかというと、物事の白黒をはっきりつけたいほうなので、この「待つ」という構えは苦手なのです。

最近、はっきりモノを言う日本人が増えてきました。これはこれでいいことだとおもっています。ただ、「緩急自在」に使い分けをできればもっといいのですが。
人の奥深い心のうちを推し量ることは疲れる作業です。でも、このことによって日本人の洞察力が磨かれてきたこと事実なのです。何か、「価値観」の言葉で片付けてしまうことによって、無味乾燥な世の中になっているような気がしてなりません。

訴訟国家・米国のように個人主義の国では「価値観」は重宝されます。しかし、言いたいことを言う、主張したいことを主張していたら、国は滅びてしまいます。「価値観」は人の心を幼稚化させるからです。深い推察力、洞察力を奪ってしまうからです。
離婚した母親が預かっているわが子に会いたい一心で、元夫が離婚調停で交わした約束事を破り、わが子を束の間、連れて帰ったりしたら誘拐犯として刑務所に入れられる社会が健全ですか? まともな国ではありません。
繰り返し言いますが、「価値観」は「罠」です。
「価値観」の連発は、互いに内部から疲弊し合い、双方ともへとへとにさせてしまうのです。米国は疲れています。そろそろ終焉を迎えそうな気がしてなりません。
こういう国は戦争で最終決着をつけるしか他にスベがないので、平安は永久に訪れないのです。悪く言えば、幼稚な精神性の国です。

国を滅ぼすには、その国の民の心を破壊すればいいのです。兵器など必要ありません。そして、その国をコントロールするには、個人主義の大切さを毎日、教育の現場で刷り込み、正常な思考を麻痺させてしまえばいいのです。正常な思考が希薄だから、「契約」にこだわる。「小難しく考えること」を放棄して何でも法律に任せてしまう。弁護士なしには成り立たない国家になってしまうのです。
ちなみに米国の弁護士は圧倒的にユダヤ人が多いのです。

これで答えはおわかりでしょう。「価値観」という仕掛けを考え出した人たちが誰であるか。
私たち日本人は、和合を持って物事を解決するこれまでのやり方を見直す必要があるのです。これが無駄なことにコストをかけずに、人間関係を、果ては国家を運営する最善の方法なのです。それができるのは日本人だけなのです。


平等の不平等

2009-11-14 | 日記
「平等の不平等」ということばがあります。
「平等」ほど「不平等で理不尽なこと」はない、という意味です。

人には、生まれながらにして備わった環境、条件、能力というものがあります。
いわゆる世間で言う「家柄の良い家」に生まれて、大した苦労もせずにいい暮らしができる人、反対に幼いときから過酷な試練に直面し、艱難辛苦の人生を余儀なくされる人、幼少の頃から大人顔負けの天才的な能力を発揮する人…さまざまです。

人と人との間には必ず「差異」が生じます。これは実は必要があってのことで、自分自身がその「差異」を生み出す「因」を作っているのです。ただ、それに気がついていないだけ。

前政権の行き過ぎた市場競争原理の導入によって、格差社会が生まれてしまいました。ひいては教育格差にまで広がってしまい、この国の将来が危ぶまれています。新政権は、必死にその調整をやっています。
これは、すべて人間が考え出した社会システムでの出来事です。
政治によって、相当程度、人間らしい生活ができるようなにることは事実です。
しかし、「不平等」は、どこまでいっても解消されないでしょう。
「不平等」とは、人の心の中に巣食う差別意識の産物だからです。

野に咲くタンポポは、ひとつとして同じものがありません。大きなタンポポ、小さなタンポポ、しおれたタンポポ…
でも、それぞれ違ったタンポポが集まっているから、生き生きとした野原ができあがるのです。これが、まるで同じ規格品のようなタンポポばかりだったら、考えただけで、ぞっとします。空から見たら、草の緑とタンポポの黄色をまぜあわせた色紙のようです。味も素っ気もありません。

人も同じ。
お金持ちの人、そうでない人、容姿の美しい人、そうでない人、勉強のできる人、できない人…
でも、いろいろな人がいて活気のある楽しい社会ができ上がっています。

お金持ちの人は、そうでない人に「お金持ちになれる秘訣」を教える喜びがあります。教えてもらう人は、自分がお金持ちになっていく喜びと教えてくれる人に感謝する喜びがあります。

容姿の美しい人は、どうやったらより美しくなれるか伝授したくなります。容姿のそれほど美しくない人は、ちょっとの工夫で見違えるほど綺麗になった自分に自信を持ち感謝します。

勉強のできる人は、そうでない人に教えてあげることで教科書で学べない勉強ができます。勉強のできない人は、「やればだきる」と自信をつけてくれた人に感謝する喜びを与えられます。

私の子供の頃は、子供同士、認め合って楽しく遊んだことを覚えています。
運動神経は抜群だけれど、家が貧しくてお小遣いがもらえない子供には、みんなで毎回、カンパして仲間に入れていました。
勉強のできる子供は、勉強はできないけれど人笑わせるのが上手なので、しょっちゅう連れまわしていました。
ヘンなモノサシを子供たちには偏見はありません。あるのは「どんなアイデアを出したら、みんなで楽しく遊べるか」、これだけです。

「格差」というモノサシを教えるのは大人です。
これと同じ、社会も、ある特定の人たちが「格差」というモノサシをたくみに操って無用な競争を煽るのです。得をするのは、この特定の人たちだけです。
「格差も時には必要だ」と言い放った元総理がいました。こうした愚劣な政治家が行った「ある勢力を利するための改革」によって、人の心もすさんでしまいました。
「この特定の人たち」がどんな人たちなのか、このブログを読み進めていくうちに、お分かりになると思います。

こうした「愚劣」と皆から鼻をつままれるような人間でさえも社会は受け入れ、必要としているのです。真面目に努力する人に試練を与え、いっそう鍛えるという役目を持っているからです。


そもそも最初から「平等」などはないのです。
「平等」という概念は人々の間に争いを生み出すべく仕掛けられたウイルスなのです。心を蝕む細菌兵器なのです。

生まれながら併せ持った「差異」を認め合い、互いに学びあう、ということから進歩が始まるのです。



生まれつき体や脳に重大な生涯を持った子供がいます。そうした子供に限って、明るく生命力に溢れ、聡明なのです。
こうした子供は、生まれてくるときに使命を持ってこの世に生を受けます。同じような心持ちの両親に引き寄せられるかのよう縁を結び生まれてくるのです。
私たちは、こうした子供の生き方を見て、学ばせていただき、その子供の存在そのもの感謝することが大切です。
こうした子供たちを支える心は必要ですが、同情する心は邪魔になります。同情する心は、「哀れみの心」がその原点です。むしろ、「哀れみの心」は自分自身にむけるべきです。無知ゆえに、差異の必要性を理解できず、やがては自分の心を蝕んでいくからです。

最近のニュースで象徴的なことがありました。
思考能力は人一倍優れており、感受性も豊かな小学生の女の子の話です。
この女の子は脳に障害を持っており、車椅子の上でこれまでの人生の大半を過ごしてきました。
この女の子が学区の公立中学に進学する際、入学を拒否された、というのです。体育の授業をみんなと同じように受けることができない、という理由でその学区の中学校と教育委員会が受け入れを拒否したのです。

このことに義憤を感じた父親は裁判を起こしました。「自分の娘に、みんなと同じように中学校に上げてやれない自分のふがいなさ」を子供に詫びながらも、打開策を模索していたのでした。まだ小学生の子供に「大人に醜い都合」など教えたくない、とぃったんは躊躇したものの、勇気を持って訴訟を起こしたのです。
判決は、「問題なく公立中学校に進学できる」というものでした。
裁判官は「何ができないか、ということばかり考えるのではなく、何ができるのか、を考えるべきだ」という「教育者としての原点」に触れた判決を言い渡したのです。

この女の子の中学入学を拒否した中学校の校長、教頭、そして教育委員会。
こんな人間たちは教育の現場にいてはならないのです。極悪、といっても言い過ぎではないヤカラです。
「標準以上の子供たちだけを集めてスタンダードなカリキュラムだけを消化する」のであれば、教師などいらないのです。職場放棄、仕事放棄にも等しいこうした教育者たち。もはや「教育の目的」さえも喪失してしまったかのようです。
学校こそ「不平等の素晴らしさ」を学ぶ格好の場所なのです。


「平等の不平等」。平等が却って不平等を生み出している、とでも言っているようです。

タンポポはやがて枯れて種子をつけた綿毛になります。この綿毛が風や鳥によって運ばれて、別な土地で再び花が開く。まるでタンポポの生まれ変わりですね。
これをひたすら繰り返しながら自然を構成しているのです。これが自然界のオキテです。
人間も、ひょっとしたら、このようにしてこの世に生を受けるのではないか。輪廻転生と言ったりしていますね。カルマと因果律によって、あるべきところに生まれ出てくる。
だから、三歳にして突然ピアノを引き出したり、10歳にして数学の天才と言われたり、こうしたことも過去世の何代にもわたって、ひとつのことを学習し続けてきた結果に過ぎないのではないか。

よく天才児のことを「突然変異のなせるわざ」などといったりします。
確かに医学的に見ても特別な染色体を持っていたりします。
西洋占星術師などにホロスコープを作ってもらうと、これも確かに「天才の星の配置」になっているのです。
でも、こうした現象は「因」があって、それが反映しているだけなのです。自然界の「しるし」です。
こうした天才児が、その後の人生において満足のいく幸福な人生を歩んでいるか、というと、そうでない場合のほうが多いようです。

人を管理したがる「ある種の人たち」は、「平等」という虚構をあたかも素晴らしいことのように喧伝し、人々の心に刷り込んでいくのです。

繰り返しますと、「平等」などは人間のご都合主義で人工的に創作されたものです。最初から「平等」などというものは存在せず、ただの幻影にすぎません。
「不平等」が本来のあるべき姿で、これを歪曲し、あたかも「いけないこと」のような教えてきたのです。
「不平等」が自然なのに、「平等」という檻の中に閉じ込めてしまう不自然。やがては活力をなくして病気になってしまうでしょう。今の教育の現場、家庭がまさにその危機に瀕しているのです。

それぞれが違うもので、違うからこそ厄介で、その厄介さの必要性を理解し工夫して付き合っていくこと。これが人間の智恵というものではないでしょうか。
これを心底理解することによって「不平等」という概念も虚構であることに気づき、何より「不平等」という「罠」の恐ろしさが分かるのではないでしょうか。

つまり、「平等」は虚構。「不平等」という概念も「差異」を人間の都合のいいモノサシで言い換えものに過ぎません。
「差異」、「違い」の素晴らしさが本当に理解できたときに、「不平等」という言葉自体もなくくなるでしょう。


あるのは「違い」だけ。「違い」から学べるのは知恵者。「違い」を利用するのは悪人。この「悪人」からさえ学ぼうとする者は聖者。

こんなこと、私には到底無理なことです。一生凡俗で結構。それはそれなりに楽しく生きていきます。心の中で感じるしか「手」はないです。


地球は傷ついてなどいない

2009-11-14 | 日記
「地球が傷ついている」、「地球がかわいそう」、「地球をこれ以上汚さないで」……。
いったい何のことでしょう。「私には、よく理解できません」と皮肉を言ってみたりして…。
それは誰に対しての「皮肉?」。
「地球が悲鳴を上げている」と言っている人たちの傲慢さ、にです。
あるいは「それ」を利用して、ひと儲けたくらんでいる人たちに対してです。

地球は悲鳴など上げていません。傷ついてもいません。ぜんぜん困ってなどいないのです。むしろ、困っているのは文明社会の中で生きている私たちなのです。

人間は、いつから地球より偉くなってしまったのでしょうか。

「地球は生きている。生き物だから、あまり痛めつけると死んでしまう」と言うひとがいます。いわゆる「ホメオスタシス」の限界を超えてしまうと、二度と再生できないとでも言いたいのでしょう。
これはまったくの詭弁で、死ぬのは地球ではなく、私たちのほうです。

地球にとっては、化学汚染物質や放射能などどうでもいいことなのです。
いくらゴミを河川に垂れ流そうが、山をブルドーザで削り取ろうが、痛くも痒くもないのです。人間が、後々困るだけなのです。

地球は、「小うるさい虫が背中で騒いでいるわい」と、ぶるっと体を震わせてポールシフトすれば、すぐにきれいになります。
なーに、放射能が消滅するのだって、化学物質が土に還るのだって、数十万年経てば、すっきりです。地球にとっての数十万年なんて、人間が一回呼吸する時間にもならないほど短いものです。

このように人間ほど、自分の都合を他に押し付ける存在は宇宙には他にありません。同じ人間を犠牲にしてまでも、自分だけ生き延びたいと考えるのは人間だけです。野生の動物でも、野の草花でも、自分がダメだと分かったら、ひとり死んでいくのです。

といっても、野生も生きていかなければなりません。動物が毒を出すのも、攻撃から身を守る防御本能です。あるいは、最低限、必要な食べ物を得る手段として使います。
野菜にしても、同じです。野菜の「アク」は毒なのです。これも野菜の防御本能です。アクは強烈で、害虫が付くと殺すほどの毒があります。ですから、無農薬有機野菜のアクは強烈です。これを「自然の味」だと勘違いしています。当然、人間にも毒として作用するのです。

人間は、どうでしょう。より快適で便利な生活を求めるあまり、毒を出し続けます。その毒は、他人を押しのける毒、資源を収奪する毒、そして何より人間が出す悪い想念、この毒がいちばん強烈です。

地球は困ってなんかいないので、人間は気が済むまで、この毒を出し続ければいいのです。
その代わり「この先、どうなるか分かってるんだろうな」ということです。
いけないと分かっていても、出し続ける赤字国債のようなものです。
いつかは、自分たちで決着をつけなければならないのです。

「地球は病んでいる」???
とんでもない。地球はいつもニコニコ微笑んで私たちを見守っているだけです。
その代わり、地球は、私たちの破壊の心が、私たち自身を破壊しても、いままでと変わらずニコニコ微笑んでいるのです。


なにもしてくれない?って。

地球は、すでに私たちにどれだけ素晴らしいことをしてくれているのでしょうか。
まずは、そのことに気がつくことです。