バルカン半島に嫁いだ女の日記

「幸せ」という字には「辛い」という字が隠れている。
 バルカン半島より喜怒哀楽の心模様を伝えたい。

寺田寅彦エッセイ集から

2009年09月07日 | 読書感想
寺田寅彦エッセイ集から

「科学者とあたま」

 ここには、頭のいい人の問題点、頭の悪い人と言われる人の長所を、科学者の立場から平易にずばりと語られている。何も科学者にのみ当てはまるというわけではないと思う。私はこういう人が大好きなのだ。

 --- 「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない。」これは普通、世人の口にする一つの命題である。これはある意味では本当だと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはり本当である。そうしてこの後の方の命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。

 この一見相反する二つの命題は、実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義のあいまい不鮮明から生まれることはもちろんである。

 論理の連鎖のただ一つの環をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには、前途を見通す内察と直感の力をもたなければならない。すなわち、この意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。

 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認め、そうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学養育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で、科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっとものわかりの悪い、のみこみの悪い田舎者であり、ぼくねんじんでなければならない。

 --- とずっと続く。“科学者はぼくねんじんでもなければならない”かあ。“ぼくねんじん”という言葉すら長く聞いていなかった。

 次に、頭のいい人の欠点。悪い人の思いがけない長所。このたとえ方が最高にいい。

--- いわゆる頭のいい人は、いわば脚の早い旅人のようなものである。

人より先に人のまだ行かないところへ行き着くこともできるかわりに、途中の道端、あるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人、脚ののろい人が、ずっと後からおくれて来て、わけもなくその大事な宝物を拾って行く場合がある。

 頭のいい人は、いわば富士の裾野まで来て、そこから頂上を眺めただけで、それで富士の全体をのみこんで東京へ引き返すという心配がある。

富士はやはり登ってみなければわからない。

 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくとも自分ではそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は、前途に切りがかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても、存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのは極めてまれだからである。

 それで、研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を乞うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されて、そうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。

---略
 頭のよい人は、あまりの多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然の方がまちがっている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。

---略
 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命つづけている。やっと、それがだめだとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでないほかのものの糸口を取り上げている。

---略
 科学の歴史はある意味では、錯覚と失策の歴史である。偉大なるおろかものの、頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
 頭のいい人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険がともなうからである。けがを恐れる人は大工になれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の河のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦死にはなりにくい。

 頭のいい人には、他人の仕事のあらが眼につきやすい。

---略
 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思いりこうだと思う人は、先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前におろかな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者になれないことももちろんである。やはり、観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。

 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。

--- と、まだ続くが、この位にする。

 私は、寺田寅彦の大ファンになってしまった。子供達に観察をするということ、発見をするということを学んでほしいなあと思うが。

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あたまが悪くなくてはいけない (逆説人)
2009-09-07 17:44:17
久し振りに二重否定の文章を見るので、頭の中が混乱してしまった。なつかしいね。寺田寅彦。
英語では何というのでしょう。夏目先生に聞いてみたいね。

If you will be a scientist, you must not be one whose brain is not bad

では単純過ぎるでしょうね。
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偉人! (hide)
2009-09-07 23:07:08
やはり寺田先生は偉人ですね。科学者の基本的スタンスなるものを教えてくれるばかりか、人間が自然に対して持つべき謙虚さまでも明示してくれていると思います。これは自己反省ですが、つい生徒に対して小利口な教師になってしまいます。「わからない」状態の生徒を、楽しみながら導く余裕がないと教師は務まりませんね。
 実際に「りこう」な先生は、生徒の「わからなさ」を理解できません。体育の先生の例ですが、自分自身が100mを12秒台で走れるから、100mを20秒以上かかる生徒のことを理解できないと云うことがあるそうです。一所懸命走らないからだと叱られたら堪りませんよね。僕もつい「なんでこんな簡単な因数分解ができないんだ?」と声を荒げてしまったことが、若かりし時はありました。さすがに、高校生が九九を間違えたら叱るけど、今では軟らかくなりましたね。
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みんな優しいんだなあ。 (杉の子)
2009-09-08 02:48:27
逆説人さま、ひで先生どうもありがとうございます。

 --脚の速い旅人--ってかっこいい。それじゃ、私は”行き先も目的もわからん脚の遅い旅人だ。”(転がっているみごとな丸石を拾い集め、よそ見をしすぎて、穴に蹴躓いて転んでばかりいる。)


 寺田寅彦は東京で生まれ、高知、熊本で過ごしたそうだ。奥様に先立たれ、再婚し、また先立たれる。3度も妻も迎えた。たった57歳そこそこで逝ってしまった。明治の人だから、当時としては50歳位まで生きればよかったのかもしれないが。

 みんなできる人というのは、それが彼らにとっては”普通”だから、どうしてもできない人のレベルに落として理解するのが難しいのだと思う。

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一応チャレンジ (杉の子)
2009-09-09 02:44:17
英語もだめなんですが、逆説人さまがせっかく頑張ったんだから、私もできないながらも考えた。一応。

 If you want to be a true scientist, be an intellctual man with 6 year's old heart.

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なるほど (逆説人)
2009-09-24 23:00:15
“I am only like a child picking up pebbles on the shore of the great ocean of truth.”

と言ったニュートンの言葉に似ていていいですね。

最近「有るものは何故有るのか」という究極の真理に近づきつつあるとも言われるがニュートンや寺田寅彦はどう思うだろう?
ニュートンは絶対空間、絶対時間が存在し、光は粒子であると言ったが、自分のその言葉が究極の真理ではないと感じていたのかもしれない。
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