白は全てを含む

いつまでも枯れない泉を求め、生かされて在る日々を深めること。

仏さまのもの

2010-08-27 23:41:24 | 
昔、フィギュアが好きな友達がいて、フィギュアを買って家に持ち帰ることを

「お迎えする」

というんだと自慢げに語っていたのですが、

当時から真如苑と結縁していた自分は、開祖が本尊不動明王を自宅に

「お迎えした」

出来事を不謹慎にも連想してしまっていたのでした。※

※この「お迎え」は、苑の歴史を知る人にとっては結構エポックメイキングな出来事とされていたりします。

最近は仏像のフィギュアも作られていて、阿修羅像など人気のようなのですが、

一体全体、仏像をお迎えすることと、

フィギュアを(ましてや等身大のものなどを)お迎えするということの間には

どんな共通項があるのだろうと、

まさか、マニアックな苑信徒がフィギュアを「お迎え」したなどと口走ったことが、

流行ってしまったのではないかなどと

不要な心配と思いつつ、想像してみたりもするのですが、

もし彼らが2次元キャラの愛らしいフィギュアの内に彼女なりを見い出しているのであれば

「お迎え」は違うだろうと思われ、

やはり2次元キャラの中に、この世のものならぬ崇高さを見い出しているからに他ならない

自身の理想を投影した、絶対的なものを見い出しているのであれば、

奇しくも、究極的な到達点である仏の像と同じように、フィギュアを

「お迎えする」

と表現するのはごく自然なことではないだろうか、

とも想像するのです(でもフィギュアはお迎えしたことがないのです。本当です…)。



仏像はあくまで仏の像であって、仏そのものではないのはもちろんですが、

あるものを別のものに「見立てる」という精神のはたらきは、

能などの日本の伝統的文化の中でも重要な役割を果たしている、

とどこかで読んだ記憶があります。

(しかし文化というものは少なくとも今じぶんが置かれている日本社会では、

お金やモノが十分に満たされた次にくるものか、

大人になりきれない暇な人がたしなむものという扱いになっているような風向きを感じ、

たしなむための大義名分はなかなか立ちにくいような気がします。)



真如苑の教えの中には、経典をじかに床に置かないとか、

仏壇の上を清掃するときには、仏像とそれ以外のものとで用具を分けるとか、

随所に細かな作法が息づいていると思うのですが、

そうした作法が、

日常において仏を観ずる、

つまり「一切悉有仏性」ということを理解する

ための訓練としての役割をになっていると思うことがあり、

それによって、行動のうちに自然と

他者を尊重するたちふるまいなどもにじみ出るようになり、

そういう風になってはじめて、「理解した」ということになるのではないかなどと

自分なりの仮説を立ててみたりもし、

なのでやはり、

仏さまのものをそれらしく尊く扱う作法を身につける

ということは基本として避けて通ってはいけないのだろうなあ

と朧気ながら感じる今日このごろです。

※今日は意識して行間を空けてみたのですが、「ボクにも書けるんだ携帯小説ぅ」
みたいな鼻意気を感じてもらえたらご愛嬌です。