今日体調をよくするために近くのいつもの温泉に行ったところ、テレビ局が来ていて気分が悪くなった。
ウクライナとロシアに対してウソ真逆報道を堂々としてお金を貰い、平然とこの日本の土の上で生きていて、空気を吸い、更に温泉までやって来ている。撮影に来れば人は喜ぶと思っているのもいやらしい。そういうことをしていても温泉なんぞで癒される権利があると思っている。もう日本に何が起こっても知らないし、こういう人たちが堂々と生きている日本にもう希望は持てない。
決して、一緒の土地の上に住みたいとも思わない。
数年前もう一緒の空気吸うのもいやだと思っていたら偶然コロナが流行り出した。
今度は何が起こるだろう。コロナは陰謀論に染まってしまったけれど、あれはあれでそれなりの理由があると思う。
世界は悪くなる悪くなると言う人々がけっこういるけれど、悪い奴がやっと顔を出し始めたのでそう見えるのかもしれないし。どっちかな。
あまり言わない方がよいかなと思っていたけれど、
空気が云十年前に戻り始めているような気がしてならない。
あのときの、あの空気。
あたたかい楽しい空気。あの時ふつうの人々は幸せだったと思う。
幸せ不幸せに理由はいらない。人は理由付けが好きすぎる。
あまりにも幸せに対しての理由付けや、また反対に不幸せに対する理由付けが多すぎる。ホントはあまり関係ないような気がする。
こじ付けと言えば、オバハン脳だが、これは自分の感じたい様にしか思考できない脳のことだ。自分では考えたつもりでも捻じれた感情が先に来るため、その直後にそれに沿ったように思考を作り上げているが、それさえも気付かない。
そもそも捻じれた感情は捻じれているので、
瞬間的な、感じ方の撚り捻じれを元に戻そうという善意は働かないために、自分の感じ方の間違いが余計気付きにくい。直後、これも瞬間的にくる思考までも汚染される結果になる。
感情の捻じれが思考にダイレクトに影響して思考も同様に捻じれてしまう。
全体的にみると、思考が感情の補足としてちょっとだけ働いているにすぎないように見える。だから現実とは全くかけ離れた結果が出てくるが、
その人たちは永遠とも言える時間を丹念に、その内面を噂話として昇華している。
周囲の気はコロナに匹敵する。
それとは別に
ウィークポイント弱さに人間の可愛さがあることを無意識に昔の人はわかっていたのだろうか。
あの時のあの空気には不幸や欠点の理由づけが、全く通用しないような空気が流れていた。
土地の空気によって、人の欠点や弱さ違いというものが、場によっては同じ事象であっても異なって感じられることがある。
違いが可愛い特徴に感じるときと、違いを厳しく判断しようとする感情がわくときがある。
感情をコントロールできると人間は勘違いしているようだ。
バックグラウンドのosで大枠が決められる。小枠はその他もろもろ。
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