花ざかりの廃園

If you celebrate it,  it's art.  if you don't,  it isn't. 

"美について” 田中美知太郎

2009年09月13日 | 美術

田中美知太郎 (1902~1985) 京都大学哲学科でギリシア哲学を学ぶ。昭和20年5月の東京大空襲に際し、顔を失うほどの重傷を受ける。著作・「ロゴスとイデア」「善と必然との間に」「思想の遠近」「片隅からの発言」など。「美について」は昭和23年「人間美学」に発表。 (ちょっと長いけど、載せちゃいます。)

          (一)

美醜の判断では、わたしたちはあまり迷うことはない。わたしたちの好悪は、生まれつきと習わしで、もう決定されているためかも知れない。とにかく、われら何をなすべきかというような迷いは、美にはないと言える。わたしたちが美について、うるさいことを考えたり、論じたりしなくても、美しいものはわたしたちを楽しませてくれる。そしてそれでもうたくさんなのである。とかくうるさいことの多い世の中に生きていると、わたしたちはそのような美に、この世の最上のものを認めて、人生の目的をそこに定めることもある。風流に生きるというのも、恐らくそのような生き方のひとつであろう。無論、これは生き方の問題で、美だけの問題ではないが、このような生き方が考えられるのも、美がひとつの確実性をもち、わたしたちがそこに安心をもとめることができると信じられるからであろう。わたしたちはいろいろのところで、いわゆる理想と現実とのくい違いになやみ、つねに不満を感じなければならないが、美においては、すでにひとつの完了が現実に与えられていて、わたしたちはそこに満足を覚える。地上において、美ほどわたしたちに、地上にあることを忘れさせるものはないとも言える。美の恍惚境は、わたしたちを神に近づけ、神に接するの思いをさせるとも考えられる。「この世はすべて美し」という気持になる時、わたしたちはひとつの宗教的な境地にあるのではないだろうか。無論このような生き方については、昔からいろいろな批判がなされているし、近頃はまたきまりきった非難の言葉が飽きるほどくりかえされている。しかしこの種の生き方が、わたしたちの現実に与えられている満足をよりどころにしていることは、何としても、その強みだと言わなければならない。こんなにたやすく手に入れられる満足と完成は、ほかにはないかも知れない。どんな顔でも、どんな草本でも見て美しい、有難いと思えれば、もうそれでよいわけで、そこにわたしたちは神を見たのだというようなことが言われるが、このような美的汎神論とでも呼ぶべき、ものの見方、生き方は、わたしたちにとってすでに昔からの、言わばなじみ深い見方であり、生き方だったのである。しかしあまり早く神となり、あまりたやすく神を見ることに、ひとつのつまずきがあるとも考えられる。無論しかしながら、あるいは神のごとく、あるいは非人情に、あるいは永遠の相の下に、万物を美しくながめるということは、決して容易ではなく、そのようなことに終始することは、ひとつの理想であって、現実とはなり得ないとも言われるであろう。たしかに、このような静観は、誰でもできるというものではなく、わたしたちはそれ相当の精神修養をしなければならない。またいかに修養をつんでも、そのような静観に終始することは、実際の生活が許さないであろう。しかしながら、美のそのような経験が、人生の実際に存在し、その瞬間においてわたしたちが、神のごとき満足感を覚えることもまた、ひとつの疑うべからざる事実であると言わなければならない。わたしたちは容易にわれを忘れて、神と一つであることを感じる。そしてこのような世界をかいま見ることから、一瞬を永遠に直して、わたしたちは世界の神におけるあり方というようなものを、わが心に描き出すことを試みることもあるであろう。それはひとつの美しい眺めである。そして神秘主義の哲学には、プロティノス以来このような、美の経験を基礎とする、ひとつの傾向が指摘されるであろう。しかしながら、神人合一のためには、必ずしも哲学によらねばならぬということはない。昔からディオニュソスの徒は、もっと簡単容易な方法を知っていたのである。歩道に坐りこんで、世界中でこんなよいところはないなどと、涙を流したりしている、かの幸福なバッコスの徒は、人生において最もしばしば神を見たと言えるのかも知れない。アヘン常用者のごときは、あるいは終始神と共にあることの、理想をほとんど実現したものと言われるであろう。しかしながら、このような場合まで考えて来ると、わたしたちはこの種の生き方に、少し疑いをもたねばならなくなる。それは健康な生き方ではないように思われるからである。わたしたちは個人の幸福も、理想の社会も、美なしには考えられない。幸福や理想の具体的内容は、いつも美しく彩色されていなければならない。単に失業がないとか、腹一杯たべられるとかいうことは、それだけでは何の幸福にもなりはしない。そしてわたしたちが、この住みにくい世の中にあっても多少の幸福を現実に感じ得る時には、いつも美しさが感じられると言ってよいであろう。しかしそれにもかかわらず、美のみを求める生活は、何かかえって不幸な暗い影を感じさせる。耽美生活というようなものは、どうもわたしたちの理想にはなり得ないような気がする。たやすくわれを忘れて、すぐに神と化するようなことは、言わば悪魔の誘惑のごときもので、ひとつの欺瞞に過ぎないのではないかとも疑われる。われを忘れるといっても、それでわれが失われてしまうのではない。わたしたちの生活の実際は、わたしたちがみずから欺いて、これを見ないようにしたところで、別になくなってしまうわけではない。そのようなわたしたち自身の生活を、あえてどうすることもなしに、 ただわたしたちを楽しませ、わたしたちにわれを忘れさせるようなものを待つというのが、果してわたしたちの日常でなければならないだろうか。映画見物というようなものは、わたしたちが無為に、頭をぼんやりさせていても、わたしたちを楽しませてくれる。休日の映画見物は楽しいことかも知れない。しかしわたしたちは、それを毎日の生活にはしないであろう。そのような生活は、もはや生活ではないであろう。美はわたしたちの生活を楽しくする。しかしわたしたちは、美だけで生活することはできない。言ってみれば、美は生活を形容することはできるけれども、生活そのものにはならないのである。しかしまたわたしたちの生活は、生活そのものを目的としているのではない。わたしたちはむしろ「幸福」な「生活」を願っているのだと言われるかも知れない。そしてその幸福というものは、美なしには考えられなかったのである。

          (二)

 美の問題は、わたしたちの生活から考えれば、好悪の問題だとも言える。ギリシアの思想家の考えを借りれば、美はいつもエロースといっしょなのである。恐らくわたしたちの生活にとって、一番近い美というものは、人間の美なのではないだろうか。プラトンが、エロースの初歩を、肉体の美しさに対するものから始めているのも、現実的な洞察であると言わなければならない。そして美は、むしろ女性の徳であると言ってもよい。わたしたちの美に対する眼は、まず美しい人に対して開かれる。生きている人間の美しさに比較すれば、他の美は影のようなものになるかも知れない。エロースのはげしさがあってこそ、美もまた生きて来るとも言われるであろう。しかしまた美は、雌雄の情につきるのではあるまい。人間の肉体の美をはなれて、わたしたちのエロースが純化されて行く時、 わたしたちは他に多くの美を見出すようになる。プラトンの「饗宴」はそのようなエロースの向上と、美の発見とをひとつの修行のごときものとして語っている。わたしたちが人間の肉体に見出す美しさというものは、最初に見られたままでは、まことにはかなく、うつろいやすいものであって、わたしたちの好悪もすぐ変り、むしろ醜を感ずることが多くなるかも知れない。そこになお美しさを見るためには、わたしたちの愛もまた変化して、こまやかにしみじみと相手の全体に行きわたる愛とならぬばならない。精神をも含めた全人的な愛へとエロースが進化しなければならない。その心づくし、その言葉が愛されなければならない。そのような愛のこころに、人間は全体としての美しさを示すと言うべきであろう。そしてこのように深くされた愛は、またわたしたちに、ひろく他のものにも美を感じさせるであろう。いわゆるプラトニック・ラブは、最も抽象的なものへの愛となり、最も非人間的な美にも生々とした愛情を感ずることにほかならないのである。わたしたちはさきに、わたしたちの美に対する態度を、何か無為受動的なものと見た。そしていわゆる耽美派の生き方なるものを、その点において不健康なものと考えた。しかしながら、エロースは最も能動的なものであって、愛する者の熱情は、どんな困難をものり越えさせる力をもっている。エロースのある限り、美もまた決して単に受動的ではない。わたしたちの心が積極的に燃えなければ、美もまた輝かないであろう。いわゆる耽美派の美は、この点でも、愛の心を失っているから不健康なのであって、美をもとめることそのことには、何の不健康なところもなかったのである。彼等の病はむしろ美をもとめる心の衰えにあると言わなければならない。 不精な彼等が、無為のまま空しく待っていても、彼等を本当によろこばすような美は見出されないであろう。「世は美し」というためには、純粋な愛のこころを不断にもちつづけなければならない。愛する者にのみ、美の世界が開かれて来ると言わなければならない。
 ところで、美とエロースのこのような結びつきは、またもう一つ別のことを考えさせる。それはすでにプラトンが教えたことなのであるが、わたしたちは美しいものを見て、それにみたされる時、生むことを欲するということである。エロースの原始的なすがたは、また子供を生もうとする欲情なのである。わたしたちは肉体を得て、そこに子供を生もうとする。エロースは、その高められた段階においても、このような生産と制作の欲望なのである。わたしたちは、美の感激において、単に受動的なのではない。その能動性は、このような生産にまで発達しなければならない。美の感動が芸術を生むのであり、また学問も、このような美にみたされて、はじめて生産的になると言うことができるのであろう。そして教育というようなことは、ソクラテスの意味において、常にこのような愛をもとにしなければならない。
天成の教育家は、若い美しいたましいを見る時に、そこに何かを生みつけたいという、はげしいエロースに襲われることになる。それは人間の第二の出産にかかわるものなのであって、ソクラテスの有名な産婆術も、このことに関係するのである。人間の精神を形成することほど、激しいエロースを必要とする制作は他にないかも知れない。ソクラテスがエローティコスであったゆえんはそこにある。そして他の一切の芸街上の制作も、このような激しいエロースと美にみたされたことを必要とするのである。わたしたちがある種の鑑賞家や美学者を軽蔑するのは、彼等にはエロースが欠けていて、美にみたされた心が言葉を生むというような、内面の充実した必要性が彼等に認められないからである。

          (三)

 かくて美は、生産的なものであり、エロースを必要とするものなのである。わたしたちはエロースの教育が、また美の教育であり、美の教育が、またエロースの教育であることを知らねばならない。すでにプラトンが見ていたように、教育の根本は美の教育でなければならないであろう。わたしたちには好悪の情があって、それがわたしたちの行動と生活のもとになっている。いかに外部から強制してみても、好まないことを行なわせるのは容易ではない。またいやいやしたことに、よい結果を期待することもできない。わたしたちはわたしたち自身のためにも、また国家社会のためにも、いろいろ好ましいもの、好ましからざるものをもっている。教育の目的は、好ましいものを好ませ、好ましくないものをにくませて、個人のためにも国家社会のためにも、よい結果を得ることにあると言われるかも知れない。そのためには、教育まず好悪の教育から始められなければならない。しかし好悪は、説教によって教えられるのではない。むしろただ美しいものを見せることによって、知らぬ間にそのような効果をあげることが期待されるだけである。卑俗なもの、下劣なものに対して、真に美しいものを見せ、心からこれを美しいと思わせること、それがまたエロースの教育なのである。それによってわたしたちは、真に愛すべきものを愛することへと導かれるであろう。
プラトンが苛酷な芸術批評家であって、特に音楽について神経質であったのは、このような教育的関心があったからであると考えられる。わたしたちは単に肉体の美しさに動かされるだけでなく、人間の全体を愛することを学ばねばならない。わたしたちの美にみたされた心は、わたしたちを最も抽象的なものの愛へと導き、わたしたちの制作活動を人間世界のひろい領域に拡大させるであろう。法律をつくることも、都市をつくることも、美のインスピレーションをもとにすることができる。美は生産的活動に結びつくことによって、永遠の酩酊を天国とするような、無為の美的汎神論とは別に、この世を美しとする、他の生き方にも発展することができるかも知れない。それはこの世をつくった神が、これを善しと見たような、創造者のよろこびにつらなるものとも言われるであろう。とはいえ、つくることの困難は、わたしたちに一足飛びの神化を許さないであろう。わたしたちは人間に許された限りのよろこびをもって、自己の生産物を眺め、また自己自身を見るであろう。それは自覚となり、自己自身を美しくすることにもなるであろう。美は外にのみ見られるのではなく、自己自身がまた美しく形成されなければならないのである。
    「ちくま哲学の森 6 詩と真実」(筑摩書房)より










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