新宗教 大平良平

大平良平が刊行した雑誌新宗教の中から記事を抜粋していき、現在の社会生活と宗教生活の糧につなげるブログです。

教会と信仰 中山みきの話

2022年09月17日 | 新宗教

今の教会の出来ることも前々からお話しがあった。

世界の人間が今に講をこしらへ講元というものをこしらへて子でありながら兄弟を支配する様になる。けれどもお前等は決してそうするのやないで。掛け流しの云い流しにして通れよ

 今に教会が出来る。教会は何に使はうぞ。神がでゝはたらく場合にはどうする。誠の塊ばかり出来たら教会は出来ん。この大きな普請は質倉にしようか、酒倉にしようか、醤油倉にしようか。けれどもしよるぞ、普請をしよるぞ。皆な悪いことをして普請をする。けれどもその間誠を貫く人がない。けれどもこの教理を聞いてヂッと通る者が百人に一人といいたいけれども千人に一人あらうかな。

 この道はチョトつけかけたら木の葉の散る如く横目振る間も無い。そうなったら七分の人間は直きにつく。二分はしぶとい。後の一分のどうでも仕様のないも者が蹴落される。それだけ神は慈悲を加へたのだ。けれどもいうても/\聞かぬものは勘当する。

 神様の駄賃は人間の駄賃より少と高いわよ。今はそれだけの身分でないもの迄梅鉢の故に羽織袴を着せて先きの駄賃にしてやっている。それやから後で蹴落されたからとて決して怨むのやないぜ。

 今に本部は草繁って道見へぬ。枝先きの澄んだ所は雌松雄松はいわん。心の澄み切った所に神が入り込む。そうなれば何んぼ技先にいても元へ帰って来るぜ。けれども誠心で来たものも谷底から急に上がったものは人に嫉まれる。その為に二つの綱紀を出す。

 これは平生から神様のことをしたけれども蹴落される者もある。又た谷底から上がった人にはあんな低い所からこんな高い所へどうして上がったのだろうと不審をうつものの、ある時前生の因縁を知っているかといって聞かせる。良い手本と悪い手本と二派に出さんことには世界承知せん。それを筆に書いて出したらバット煙硝に火をつけた様にひろがる。その時迄金箔の魂はグット田園の底に埋でいる。

 お前達金が良いか銀が良いか。どれが良い?金ばくの魂はどんなに濁っていてもーつ撫でたら元の通り奇麗になる。そういう者には角目/\の話しをすれば直ぐに悟ってくれる。それが十社十柱の魂だ。

 

人間にも早生と中手と晩生と三段ある。今良い花を見るのはわせ。晩生というのは一番最後に神が表に表はれて働く時働く者が晩生である。それ迄余り長いのでヂットこぼれん様に持っているものがない。それ迄にこぼれる者は可哀相だな。けれども親の積んだお徳は滅多に他には行かせんで。子に生えなければ孫に生える。マアそれなと楽しんで居てくれなければどうもならんじゃないか。

 マア身上きりかえて行っても先きになって一つ鍋を喰うこともあるわよ。けれども後になると誠の者がどんな枝先から出て来るかわからん。その時は神と神との知恵比べをせんならん。そやけれども知恵比べをするものがあるだろう?それはチト難しいわよ。

 マアそれ迄何時という年限切れんけれども神の云う通りにしてくれたら私のニ十五才で世間明るい道にする。これを守らん為に年限がのびる。年限は何時ということはいわんけれども、何時の何時迄も放って置かれん。

 その時は偉い神が出て来て本部に入り込む。何しても入り込む。その時、本当のお授けを貰うのやで。それ迄お授けを貰うのやないで。

 

 神殿の普請を教祖の仰せになったのは

 

 「甘露台を北に八間離れて神様を祭り、南に八間離れて勤め場所を建てるのだ」

 ということを仰せになりました。そうすると神様は南向きになるはずですが今のは北向きになって居ります。

 

 これについて教祖存命中から

 「今に見ていなさい。本部では北向きの大きな普請をするから」

といわれておりました。

 

 

 今に道が大きくなると上八十畳下八十畳の立派な家が出来る。そこは十柱の神の休息所である。その中八十畳は十柱の神の休息所で下八十畳は食堂である。

 そのほか、まだ詰所というものが出来る。役宅というものが出来る。その人達は三寸の差渡しで裏は赤、表は黒の十二菊の紋一である。それを背中の真中につける。

 そのほかに未だ三十六人の勤めの人衆がある。それが世界の助けの人衆だ。その人達がお地場を出る時一人が二千枚の紙札をもって出る。その二千枚の札は一遍に重ねて上から判を押すと一枚は黒く一枚は白く写る。それがホンの拝みつけのお札だ。それを御膳を貰った所に泊めて貰った所に一枚ずづ置いて行き無くなったら帰って来る。

 その人達の出る時に小遣いといって一文もやらない。その代わりに一里には一里の小遣い、二里には二里の小遣いをつけてやる。又内に居れば内にいるだけのものを与へてやるというのである。

 そうなると誠の足らぬ人間は本部の地内に勤めることできん、たとえ下駄を揃えるにも便所の掃除をする役でも余程心の磨けた者でなければ入れん。そういう人達が本部へ来てどうか何なりとさせて戴きたいとの誠の心で願って来るのを断ったら、その者は木の葉の散るが如く散る。

 しかして二度と頼んで来てもそんなムサイ者は入れん。それ迄今の本部にいる者は充分の暮しをさしてある。けども悪い事をして金を溜めたものには皆それ/\因縁果す道が設けてあるで。

 

わしが生きて居れば教えはくるわぬが、わしが死んだら皆が嘘を云うて回る。知者と学者が来て社会に流れてしまう、学者は余計な事を書く、弁者は嘘をいうのが残念やが、天理王命という事だけは嘘をつかぬ。それだけでも世界に神名を流してくれたら結梢や、今度出て来て立て直ほしをすると申して昇天遊ばされた。

 

教祖は亡くなる三年前に仰った。

 

 私が生きて居ればこの道は煙草一服する問にズン/\弘まって行く。けれども今の所は何といっても己のいうことを聞く者がない。それで百十五才の定命を二十五年縮めて身を隠す。その後は暫時人間のする通りに任して置く。今に見ていなさい。神殿の普請をするから。けれどもその普請はア一結構やなというて出す人もあれば、あの人からこう言われたから仕方がないから出さうといってシプシプ出す者もある。何んぼ立派なものを立てゝも神は惜しみのかゝった御殿には住むことはできん。

 今度本普請をする様になったらたとえ一厘銭でも喜んで上げたもので建てたら惜しみがかゝらぬ。そうやから私の普請をするなら世界一般成り立ってからしてくれ。

 それから中介では尽くせ運べと去って下から銭や品物を巻き上げる。そ為に私は彼らからいわれるから義理にも出さなければならないとシプシプ出したものは神の受取がない。百姓なら三反なり五反なりの祖先伝来の田地があり商人なら分相応の資本をもっていたらそれで一度も無くしてくれてはならん。どうか神に上げるなら惜しみのかゝらぬものにしてくれ。