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詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第35回 水4 相沢 正一郎

2016-01-23 04:42:05 | 日記
 「水」の詩、といえば私のなかで安藤元雄氏の「水の中の歳月」は、第33回で紹介しました大岡信氏の「地名論」と同様、つよく印象に残っています。水の二つの正確――舞台が静止した演劇と、映像のように視点が流れる映画と。
 安藤氏は「水中感覚」というエッセイで、《水こそは歴史を超えた時間そのもののイマージュである》と述べています。大岡氏の川の流れるような、あるいは墨をふくんだ筆の動きのような「地名論」と、海のような、または動きがはじまる時の「間」のような「水の中の歳月」と言い換えた方がいいかもしれません。
 もっとも、私のこうした考えは、同エッセイで、《「流れる」も「淀む」も、所詮は時間を基軸として成立する概念にすぎない》と、あっさり打ち消されてしまいますが。正確にいうと「水の中」もまた歳月(時間)は流れています。地球の時間に比較して宇宙での時間のように、ゆっくりと。
 さて、「水の中の歳月」を読んでみましょう。《こうして上も下もない水の中で、辛うじて体の位置を保ちながら、私は待っている。水は私の鼻と口とを覆い、瞳孔に冷たく、そして私の耳は限りなく静かである》ではじまる「水の中の歳月」は*で区切られ、現代詩文庫で、少なくて2行、多くて14行の11の断章からなります。(番号は振られていませんので、以下、たとえば7番目「の断章」と書くべきところを、「 」内は省略して、7番目という風に書きます)。
 前述した《上も下もない》水の中の空間は、日常の尺度の通用しない宇宙を連想させます。6番目の《かつて地上では、濡れているということは特別の一時的な状態であった》とか、8番目の《私は何を思い出しているのか》というフレーズから、たとえば洪水伝説のように大きな事件が終わった後とも思えます。SF小説、たとえば安部公房の『第四間氷期』を思い出してもいいかもしれない。
 さて、1番目の《体の位置を保ち》とか《私の鼻と口とを覆》う水の感触、瞳孔に感じる体温、といった私の身体は作品を読むにつれ、次第に体の内と外が消え、体自体がだんだん失われていきます。体ばかりではありません。2番目の《待っている――何を? 私はそれが何であるかを知らない。というよりも、私は自分の待っているものが何であるかがわかるのを待っているのだ。だから私は、実は何も待っていないのと同じである》と話者は自分の思考をこんどは明晰なのに妙にナンセンスに近い論理で話者自身をも打消し、とうとう「語り」自体も沈黙に沈んでいく。《そしてやがて私が水の中にいることを私自身忘れる日がきたとき、水はその冷たい悪意を完成させるだろう》と。
 安藤氏の訳したサミュエル・ベケットの長編小説『名づけえぬもの』の《ある瞬間には頭蓋の中にいるかと思えば、次の瞬間には胎の中にいる》という話者の声を思い起こせば、この作品もまた頭蓋の中の声とも、母胎の中の胎児とも、そしてベケット的にじつは墓の中の死者とも、思えます。
 連作詩『めぐりの歌』が第七回「萩原朔太郎賞」を受賞。その記念講演が、現代詩文庫に収録されていて、たいへん興味深く読みました。タイトルは「詩人という井戸」、水にふかく関わりがあります。そのエッセイの中で、「詩人というものは空洞である」という小見出しの後で氏はこう語っています。《けれども詩人の実態は、私は井戸の方だと思います。井戸の内部に外から来た言葉がたまる。そのたまったものをどうやって自分の井戸から上へ汲み上げてもらうか》と。
 このエッセイは、谷川俊太郎氏が、「詩は無意識からことばを汲み上げる」といった発言とも、またユングの意識の層を深く掘ると「無意識」、「民族的無意識」、そして「集合的無意識」に、といった思想とも、「自我」から水のもつ「無名性」へ、ということで響きあいます。
 「めぐり」ということで連想しましたが、時間を車輪のように考えてみたらどうでしょう。おおきく回転する外側と、内側の静止した軸。「不易流行」という松尾芭蕉の俳諧の用語がありますが、ちょっと変えて中心の永遠性と賞味期限の短い「流行」。ただこの永遠、不動であるけれどなにか生命力が希薄でリアリティがない。水を例に挙げると、蒸留水では味がない。
 そこらへんの微妙なバランスを氏は「水中感覚」で、「水の中の歳月」の題名を《「時間」でなしに「歳月」としたのは、時間という言葉のもつ無機的な抽象性を避けて、もっとなまなましい感覚的なものを表現したかったからだし、「日々」という言葉を選ばなかったのは、そこになおもわれわれとは寸法の違うもの、根源的で避けがたいものが匂ってほしいと思ったからだ》と述べています。
 水の中でもゆっくり時間が流れている。安藤氏の作品は車輪の中心のすぐ近くに位置しながら、やはりリアルな手触りを感じさせ、車輪全体をも暗示している。詩人の水鏡は現実をも深いところから映し出している、といえます。

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