広島・資本論を読む会ブログ

「読む会だより」20-9月用

「読む会」だより(20年9月用)文責IZ
(前回の議論など)
7月19日に行われた「読む会」では、まず2)一般的意識の矛盾とはどういうことかの3ページ2行目の引用の部分に脱落がありました。
「より多くの価値をもっているが、しかし革の価値は」とある部分は、「より多くの価値を『もつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが』、しかし革の価値は元のままである。」でした(『』部分が脱落)。
また、その第3パラグラフの趣旨については、
資本(資本家階級というべきかもしれません)による賃労働(賃労働者階級……同)の搾取という人間関係は、支出された全“労働”が賃金と等価で交換されるという外見のもとでは、物である“生産手段”が資本として、つまり他の人間の剰余労働を吸収する手段として利用されるという形で現れます。階級社会が出来上がったのちは、いつでも直接的生産者が何らかの形で搾取され、その剰余労働が支配階級の形成と社会の生産力の発展の源になることに変わりはありません。しかし商品交換を基礎にする資本主義では、この剰余労働の搾取が、特定の使用価値を生み出す労働の搾取としてではなくて労働一般の搾取(つまり剰余“価値”の取得)として行われ、また資本の価値増殖という物の姿をとるところに、歴史的な特徴と意義がある。そして労働力(労働能力)が商品として現れるためには、私的な生産の拡大と流通の発展といった一つの歴史的関係の全体がその前提に含まれる、といったような意味に受け取っていただければと思います。
また、3)の部分では、これはチューターの説明がよくなかった──G-W-G’をG-W……W-G’といった中間項に分けるといったように──せいとも思われますが、「労働によって価値が“形成(付加)”されるというのは分かるが、それと価値が“増殖”するということがどう違うのかよく分からない」という質問が出て、次回の宿題ということになりました。
「商品に新たな価値を付加する」等と言われる場合、その多くは価値(社会的労働時間)の形成のことではなくて、むしろ新たな、あるいはより多くの“使用価値”(有用性)の形成・付加のことを指すように思われます。新たな使用価値の形成ということは、それが新たな労働の支出つまり価値の形成を含む場合であっても、その商品自身の価値の増殖(自己増殖)ということとは別の事柄です。
まず価値(商品価値)の“形成(付加)”ということですが、これはその商品の生産のために相互に同等な社会の総労働のうちからどれほどかが支出されたということを意味します。そして、その価値の大きさ、比率は、各種の生産物を各人に分配するための基準になります。たとえば、1着の上着の生産に平均して10時間かかり、1俵のコメの生産に平均して100時間かかるとすれば、10着の上着=1俵のコメであり、両者が分業しているとすれば、その分配(交換)の比率が10対1になるということです。しかしここで注意しなければならないのは、商品の価値の大きさは、その生産のために“すでに支出された”労働の大きさなのですから、その大きさは他の商品との交換比率とは無関係であって、交換によって変化するわけではないということです。だからこそ、支出された労働の大きさを基準として、他の商品と自分との価値の大小を比較しうるのです。
もし何らかの事情でその商品の価値が増大したとするならば、それはその商品の生産のためにさらなる労働の追加が行われたということを意味するにすぎません。それは、その商品の価値が“増殖(自己増殖)”したわけではなくて、むしろ社会全体では、総労働が他の商品の生産のために振り分けうる部分を減少させる役割しか果たしません。交換による価値の増大といったものは、ただ個別の商品にとって相対的に可能なだけであって、それは社会全体としての価値量すなわち支出総労働量に変化を与えるわけではありません。
だから先ほどの脱落のあった部分では、「商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。……長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身に着けたのではない。」と言われるのです。
これにたいして、価値の“増殖(自己増殖)”というのは、そのような商品の交換で生じうるただの相対的な偶然的な価値増大ではありません。単なる商品循環W-G-W(買いのための売り)において、両端のWは、使用価値の相違が前提されていても価値量すなわち支出労働量は同量であり、またこの過程の内部ではWの使用価値の消費がないことが前提されています(右辺のWにおいては、それがこの流通=価値転形過程から去って消費に入れば、その消費と同時にその価値も消失するのですが)。
他方、貨幣循環G-W-G(すなわち売りのための買い)を価値の形態転換としてだけ見るならば、新たな労働支出の付加をともなわないのですから、商品循環と同様に、価値量の増大を伴うことができません。だから実際に行われているように、この貨幣循環が価値量の増大を含み、価値増殖G-W-G’でありうるためには、ここでのWはその使用価値の消費がその価値量を増大させうるような、そのような特殊な商品でなければならないということになります。その商品Wの価値は左辺のGの価値と同じであるのに、その商品はこの過程の内部において使用価値が消費されることによって以前にもっていた価値(支出労働量)以上の価値(支出労働量)を生みうる場合にのみ、そのWの価値は右辺の増大したG’と同じでありえます。
そのような特殊な商品が労働力(労働能力)です。労働力商品は、それが商品としてもっていた交換価値、すなわちその労働力保持のために必要な物資のための支出労働量を超えて、労働力を支出し労働を付加することができるからです。この場合は、労働力商品の消費の過程を通じて、貨幣循環の過程は継続的にいわば絶対的に、その原価値に加えて剰余の価値を取得し、その価値を増大・増殖させうることになります。
むろん、社会的総労働の支出という観点から言えば、この価値増殖も外見的なものであって、それはただ実際に労働支出が増加したということでしかありません。しかしこの過程によって支払い価値を超える不払い価値が生ずるからこそ、GはG’に価値増殖し、生産手段は剰余労働を吸収する資本としての性格をもちえます。この価値増殖=資本形成こそが賃金制度という資本主義に独自な分配関係の基礎となるのです。

いろいろ問題があったので、3)項は機会を見てタイトルを含めて書き直すことにします。第3節「労働力の売買」の主な内容については、ここで触れてしまいましたが、今少しばかり労働力商品に特有な性質について次回触れたのちに、第5章「労働過程と価値増殖過程」から始まる第3篇「絶対的剰余価値の生産」に入りたいと思います。
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