広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより20-10月用

「読む会」だより(20年10月用)文責IZ
(前回の議論など)
9月20日に行われた「読む会」では、「“形成”と呼ぶにせよ“増殖”と呼ぶにせよ、価値の増大は、労働付加によって価値付加(価値形成)された生産物が流通することで起こるのではないか」という意見が出されました。前回も総労働の分配など当該の問題と直接に関係のない事柄をもち出して問題を混乱させてしまい反省しています。
意見の前半で言われているように、形成(付加)と呼ばれるにせよ増殖(増大)と呼ばれるにせよ、価値の生産は労働の支出──その労働が個人的な生産物のためにではなくて、社会的な生産物のために支出されたということが条件ですが──によってのみ行われる、というのはまったくその通りです。
しかしここでの問題は、貨幣流通(循環)G-W-Gにおいて価値の増殖はいかにして可能かということでした。Wという商品に対して、新たな労働が追加されるならばたしかにその価値はそれだけ増大するのですが、しかしそれはWという商品(例えば革)が別の新たな商品W’(例えば長靴といった別の新しい使用価値をもった)に変わるということを意味しています。それはだから、G-W-Gという流通の内部でWという一つの商品の価値がいかにして増大しうるか、という問題に答えるものではありません。脱落のあった引用部分にあるように、「革は自分の価値<支出労働時間……レポータ>を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値<すなわち革を長靴とするために追加された労働時間を超える、より大きな労働時間……レポータ>を身に着けたのではない」と言われるのです。(前回言いましたように、この点で、Wを中間項とするような7月用の記述は正しくありませんでした。)
問題は、ここでのW(労働力商品)は、商品である自分自身の価値を増大させ得るということなのです。なぜなら、労働力商品がもつ価値(社会的労働時間)は、商品である労働能力を保持するための既存の確定された大きさをもった必要生活資料の価値であるのに対して、労働力商品の使用すなわち労働は、一定期間においてその必要生活資料の価値(支出労働時間)をこえて支出することが可能だからにほかなりません(1日24時間以内という自然的限界内で)。労働力商品は、その使用においてそれがもっている価値以上の価値を自分自身で生み出すことができるということ、これが価値増殖の問題の核心なのです。

(説明)第4章の説明の続き第3節「労働力の売買」
3)労賃(賃金)では、労働者に支払われる対価が労働力(労働“能力”)の価値ではなくて、「“労働”の価値」であるかのような外観をもつ
・「この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた。というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はそのあとで行われる力の発揮においてはじめて成り立つのである。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。@
資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまった後で、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。この信用貸しがけっして空虚な妄想でないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されている。とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。だが、関係を純粋に理解するためには、しばらく<第4篇に入るまでの、資本の循環等の考察においては……レポータ>は、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。」(全集版、P227)

その使用が価値の源泉になるという労働力商品は、労働者の労働“能力”が契約上譲渡されたからと言っても、そのままその使用価値──すなわち労働能力を発揮して商品を生産し、その価値を形成するという──を利用できるものではありません。だから契約によるその使用価値の形式的譲渡と、生産過程でのその使用価値の実際の発揮とが時間的に離れているという特性をもちます。この場合、買い手である資本家の貨幣(「労賃」)は、支払手段として、言い換えれば売り手である労働者への債務の返済手段として機能することになり、労働力商品は、その売買と同時にではなくて、それが資本家へ一定期間譲渡された後に支払を受けるという“現象”をもちます。
しかしながら、第一に、それは労働力商品の売買の“形態”の問題であって、「労働力の価値」の決まり方とは別の問題です。「労働力の価値」は、「他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた」のであり、労働者がその労働能力を維持するために必要な生活資料の生産のための社会的必要労働時間として、すでに支出され、決定されているからです。労働力商品の場合は商品一般と違って、この価値の大きさがこの労働能力をもつ人間そのものの生産のために支出される労働時間として直接に決定されるのではなく、生活資料生産のための労働時間という“回り道”をして決定されるとしても、商品の「価値」(社会的必要労働時間)の大きさが「価格」として、つまり他の商品と共通な一商品・貨幣金を材料として表現されるということに違いがあるわけではありません。言い換えれば、労賃が“後払い”されるかどうかにはかかわらず、「労働力の価格」=「労賃(賃金)」は、「労働力商品の価値」が“現象”したものであることに変わりはないのです。
第二に、ところが「労働力の価格」=「労賃(賃金)」が後払いされるという“現象”は、労賃(賃金)が、労働能力の価格ではなくて「“労働”の価格」であるかのような、言い換えれば労働者が行った全労働時間が支払いを受けたものであるかのような、したがってまた資本と労働力の交換において剰余価値は生まれないかのような、外観をもたらすのです。

マルクスは、この点について第17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」で詳細に触れていますので、いくつか紹介しておきましょう。
・「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。そこでは労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では、労働の市場価格、すなわち労働の必要価格の上下に振動する価格が論ぜられる。……
「労働の価値」という表現では、価値概念はまったく消し去られているだけではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは、本質的な諸関係の現象形態を表わす範疇である。現象では事物が転倒されて現れることがよくあるということは、経済学以外では、どの科学でもかなりよく知られていることである。」(同、P693)
・「さらに、人の見るように、1労働日の支払い部分すなわち6時間の労働を表わしている3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の1労働日全体の価値または価格として現れる。つまり労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現れるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のためにする部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼のすべての労働が不払労働として現れる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現れる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとの方の場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである。
このことから、労働力の価値と価格が労賃という形態に、すなわち労働そのものの価値と価格とに転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである。」(同、P699)

価値とは何かということがわかってはじめて、労働力商品の特性やその現れ方が、つまり剰余価値の発生のメカニズムが理解できると言わなければなりません。
目に見える“現象”は、“全体的なもの”である“真実(現実)”のすべてなのではありません。第17章の最後でマルクスは次のように語って俗流経済学者を批判しています。
・「とにかく、「労働の価値および価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現れる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。」(同、702)
(参考)
第5章「労働過程と価値増殖過程」以降で、いよいよ剰余価値の生産(すなわち資本の生産)のメカニズムが詳しく明らかにされていきます。マルクスに特有な言葉(概念)にとらわれすぎて大まかな位置づけを見失わないために、ここであらかじめ資本論の構成、とくにその第1部「資本の生産過程」の篇別と章別を参考のために見ておきましょう(各巻の目次を見れば明らかですが)。

すでに幾度か触れているように、資本論は、第1部「資本の生産過程」、第2部「資本の流通過程」、第3部「資本主義的生産の総過程」(準備的草稿である『批判要綱』では「資本と利潤」と名付けられていた)の3部だてになっており、また「剰余価値学説史」がいわば補足の理論史として第4部をなしています。

ちなみに、『資本論』の研究対象とその目的について、マルクスは「初版・序文」でこう触れています。
・「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。……資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展度の高低が、それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し、自分をつらぬくこの傾向、これが問題なのである。」(全集版、P8~9)
・「たとえ一社会がその運動の自然法則を探り出したとしても──そして近代社会<ブルジョア社会すなわち資本主義社会……レポータ>の経済的運動法則を明らかにすることはこの著作の最終目的でもある──、その社会は自然的な発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし緩和することはできるのである。」


第1部「資本の生産過程」
第1篇商品と貨幣(1章「商品」2章「交換過程」3章「貨幣または商品流通」)
第2篇貨幣の資本への転化(4章「貨幣の資本への転化」)
第3篇絶対的剰余価値の生産(5章「労働過程と価値増殖過程」6章「不変資本と可変資本」7章「剰余価値率」8章「労働日」9章「剰余価値率と剰余価値量」)
第4篇相対的剰余価値の生産(10章「相対的剰余価値の概念」11章「協業」12章「分業とマニュファクチュア13章「機械と大工業」)
第5篇絶対的および相対的剰余価値の生産(14章「絶対的および相対的剰余価値」15章「労働力の価格と剰余価値との量的変動」16章「剰余価値率を表わす種々の定式」)
第6篇労賃(17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」18章「時間賃金」19章「出来高賃金」20章「労賃の国民的相違」)
第7篇資本の蓄積過程(21章「単純再生産」22章「剰余価値の資本への転化」23章「資本主義的蓄積の一般的法則」24章「いわゆる本源的蓄積」25章「近代植民理論」)


第1~3章までの第1篇では、商品の価値とはその生産のために支出された社会的労働量であり、この価値量は商品流通の内部で変化するものでないことが明らかにされました。また商品は、価値としては──社会的労働の対象化としては──すべて同等であるという貨幣性質をもっているということが明らかにされました。
第4章だけの第4篇では、労働力商品のもつ価値とその使用がもたらす価値量との不一致から、剰余価値が発生することが明らかにされました。したがって資本の本質的な関係は、賃労働と資本との不等価交換という関係であり、資本が“現象”としてとる貨幣や生産手段の姿はこの本質的な関係の物象的な外観であることが明らかにされました。
第5章以降では、この剰余価値の発生のメカニズムがより詳しく分析・検討され、またこの分析に必要な「絶対的剰余価値」とか「不変資本と可変資本」や「剰余価値率」の概念、すなわち基本的な関係が明らかにされていくことになります。
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