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原子力発電所の再稼働をなぜ日本政府はこだわるのだろうか

2015-04-29 10:13:41 | 日記
原子力発電所の再稼働をなぜ日本政府はこだわるのだろうか ?

いま
私は小森陽一著『死者の声、生者の言葉』新日本出版刊を読書中である。

小森氏はサブタイトルを「文学で問う原発の日本」としていた。
御著の帯には
3.11後の川上弘美から賢治、漱石
としていた。
この
サブタイトルに魅せられて購入したのであったが、

本文には
>日米安全保障条約の体制と日米原子力協定体制は一体・・・となっている、と著者は述べていた。

いま、安倍首相はアメリカへでかけておるが
日米安全保障条約のさらなる解釈拡大を約束したとの報道だ。
世界の果てまで アメリカさんの軍事行動をサポートするらしいのである。

その約束には
>日米安全保障条約の体制と日米原子力協定体制は一体・・・となっている、ことから

訪米中であるだけに
日本の原子力発電所を20~22%は維持する、と固守してみせたかったのであろうか。


 2011年3月におきたフクシマの原発大災害事件はいまだに収束をしていない。解決をしていないのだ。

小森陽一著では
フクシマの詩人若松丈太郎の詩文を紹介している。
詩人若松さんは
フクシマは核災害である、といわれているのだ。

《 私は原発を〈核発電〉、原発事故を〈核災〉ということにしている。その理由は核エネルギーなのに、あたかも別物であるかのように〈原子力発電〉と称して人びとを偽っていることをあきらかにするため、〈核発電〉という表現をもちいて、〈核爆弾〉と同根のものであると意識するためである。
さらに、〈原発事故〉は、単なる事故として当事者だけにとどまらないで、空間的にも時間的にも広範囲に影響を及ぼす〈核にいる構造的な人災〉であるとの認識から〈核災〉と言っている。 》

日本のメデアは原発、原子力発電所と平和的装いで発信してきたが、
詩人若松丈太郎さんは
核発電・・・と正確に核心をつかれている。

たしか、ノーベル文学賞候補者の村上春樹氏も
原子力発電といわずに核発電所といおう、と発信されていたかと記憶する。

私はフクシマの原発事故というとらえかたがしっくりこず、原発事件とあえて発信してきた。

福島県での東京電力会社による事件ではないか、
事件は起きたのだから
犯人は償いをしてもらいたい、という主張をこめたつもりで事件と述べてきたつもりである。

犯人に責任をとらせもしないなかで
政府は
原子力発電所
つまり
核発電所を
再稼働させるという腹なのであろうか。

アメリカとの約束を履行することを第一義としているのであろうか。
それとも
日本人の生命財産を守ることで
政治をおこなうことにするのなら・・・・

おのずと
廃炉にむかうのでは・・・・

日本人はヒロシマ
      ナガサキ
         ビキニ
今回の
   フクシマ

の被曝を体験してきた。

政治を国民の側においてもらわないことには
第5の
被曝者をうみださぬともかぎらぬのではないだろうか。

地震大国
火山大国の立地条件下にある日本を考慮するなら、

核の制御のできぬ発電所であるのだから、、、

核発電の存続をしてよいのか、
  廃炉にすべきか、
    選択の道はひとつとなるのでは
            ないだろうか。











宮沢賢治  雨ニモマケズ ヒドリ論

2015-04-29 10:10:42 | 日記
宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏(1~29)を発信した。
以下は
その目次である。

―――――――――――目次――――――――――――

(1)――――――――慶大留学生Sも賢治ファン
(2)―――――――光太郎 濡れ衣か
(3)―――――――――智恵子と光太郎
(4)―――――――――――賢治の第一号碑
(5)―――――――――――佐藤隆房博士
(6)――――――――――岩手日報
(7)――――――――世界文化遺産の三保の松原
(8)――――――――那須町
(9)―――――――――――視点・論点"除染"に思うに反響
(10)―――――――――北川省一著『賢治と沙門良寛』
(11)――――――――――賢治の遺品
(12)――――――――光太郎旧居訪問
(13)――――――――世田谷文学館
(14)――――――――和田文雄氏
(15)――――――――――――村上弘明さん
(16)――――――――――雨ニモマケズ手帳の発見日
(17)―――――――――筑摩書房『校異篇宮沢賢治全集』
(18)―――――――――――ブログ「みちのくの山野草」さま
(19)――――――――――イーハトーヴォの地勢
(20)―――――――――岩手県立農業科学博物館
(21)―――――――――日蓮大聖人
(22)――――――――――ヒドリ説を陳述
(23)―――――――――――無用の用
(24)――――――――松尾芭蕉の俳号「桃青」
(25)―――――――――文芸作品の多義性
(26)―――――――――――冷夏・飢饉
(27)―――――――――賢治の父:政次郎翁
(28)―――――――――――最終回:私のヒデリ説
(29)――――――――ブログ資料・考察
(30)―――――――――目次

おわび:
一部に文字化けがみられます。
本日2013.12.12、パソコン店で相談をしてきました。
ブログ会社の文字ソフトが旧字に対応できぬので、直らない、とのことでした。

文字化け箇所は、以下の目次の文の一部が該当します。
申し訳ございません。

(11)――――――――――賢治の遺品・・・・北上川の蛍気・・・旧漢字の蛍気が文字化け
(16)――――――――――雨ニモマケズ手帳の発見日・・・廃躯・・・躯が文字化け
(23)―――――――――――無用の用・・・ぶなの木の和製漢字の 橅・・・ブナが文字化け
(28)―――――――――――最終回:私のヒデリ説・・・ハリの漢字の玻璃ほかの 文字化け
・・・高橋虫麻呂の高橋  文字化け



日本人としての良識 村上春樹氏の「歴史問題は謝るしかない」・・・

2015-04-20 05:56:33 | 日記
2015年4月16日、
タイム誌は
「世界でもっとも影響力のある100人」を 発表した。そのなかに日本人ふたりが選ばれていた。

なかでも村上さんは
このところ毎年、ノーベル文学賞候補にあがっている文学者。
もうお一人は
片付けコンサルタントの近藤麻里恵さんとのことだ。

日本人がふたりも名を連ねたことは誇りである。


村上春樹さんの過去のにっぽんの戦争認識についての発信は、日本人の良識であろう。
春樹氏は
「歴史問題は謝るしかない」と述べておられる。

私も同感である。

このところ、NHKスペシャル戦後70年・日本の肖像「日本人と象徴天皇」シリーズを
視聴しておると、
その罪の深いことを思わされるし、
戦後の憲法にこめられた英知にも感心させられた。

平成天皇陛下および皇后さまが衷心からの反省をもってお年を重ねられての慰霊の行脚を行っておられることに、
なみだがこぼれるおもいで拝見している。

親の責任を
子が背負っての行脚なのであろうか。
わたくしは皇太子時代に奥日光に疎開されておったことを知るご婦人にいろいろとお話をきく機会があったが、
お父君にならって、靖国を参拝されない意味は、国際社会への誠意であったのであったか、
nhkスペシャルから学びとれた。
よくできた番組である。

あべさんの
歴史認識はしんぱいがあるが、慰安婦だけでなく
強制連行して働かせたことがあったことも、思い出してほしい。

今月、
群馬県みなかみへ出かけたが、
東電の発電所建設、中島飛行機のトンネル内工場つくりに、
中国人、朝鮮人・韓国人が動員されたと伝えられる。

現場では中国人と朝鮮人・韓国人を一緒にはなるような働かせ方はなかった、とも伺った。

強制的に徴用し働かせるなかでも“暴発防止”がとられていたという意味なのであろうか!?

以下の写真は月夜野町のお寺さまにある慰霊碑。中国人のみのお名前であるとすると、
朝鮮・韓国人は亡くなることはなかった、というのであろうか。
(以下の写真をクリックなさると画面が拡大されます。)







群馬県みなかみ町の人情に感動

2015-04-18 08:32:05 | 日記
今月中旬に
みなかみ町を訪ねてきた。

東京は桜は散ってしまったが、
みなかみは
梅、桜などは満開になったばかりの清浄さで むかえてくれた。

わたしたちは
みなかみ町下牧で伝統芸能・人形浄瑠璃をまもり続ける吉田座の
舞台をみようと
駆けつけた。

私は岐阜へでかけたおりに中津川の伝統芸能・人形浄瑠璃を鑑賞し、感激したのであったが、下牧には素朴さがあり、

演者の情熱もまたこまやかにみられて
感動した。




観劇後は
みなかみ町、月夜野町の歴史を
案内人Kさんの解説でみてまわった。

如意寺には

戦時中に強制連行されて徴用されトンネル掘りに動員され、亡くなった人たちの慰霊碑があった。
拝んできた。

ご住職夫人に
その当時のお話をうかがうことができた。
当時のご住職さまは犠牲者のおコツを守られたその智慧にあたまがさがった。
そしてみなかみの人々の人情厚さに感動した。みなかみの各地区の人たちが寄付をされて
中国人の慰霊碑をたてておられたのであった。
いまでも、法要をかかさぬとのことだ。



いまフクシマ原発で悪役の東京電力も中国人慰霊碑建立に献金をしていた。

お寺様の本堂入口には
学童疎開時代の
下駄箱があった。
東京は板橋区志村の学童がおせわになっていた如意寺さんであった。


Kさんは、最近まで、下駄箱には名札がついていました・・・
戦後70年のとしにふさわしい
みなかみ町探訪となれた。