第10編 成約人への道
第一章 人生観
一 人生とは何か
1.今まで人生問題は迷路
私がなぜ生まれ、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さんが自分で生まれたと考えてはいけません。生まれはしたけれど、どのような動機で生まれ、何のために生まれたか、私をして生ましめた動機と目的が分からない私たちです。生まれるには生まれたけれど、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きるけれど、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死ぬけれど、私が死のうとして死ぬのではないというのです。
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ところで、私をもってして何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死ぬ道を避けることもできない自分をもって何を誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きていかざるを得ない運命です。
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今日まで哲学は、歴史時代を通じて人生問題を解決するために苦心してきました。真の人間の価値、人間がどのように完成することができ、人間自体から勝利して万宇宙に誇ることのできる勝利の完成した姿を、いかに成し遂げるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが出てきて、苦心しながらありとあらゆる主張をしました。それが今となっては、人間を通じて思想体系を立てたすべての主義主張がもはや実験をすべて終え、既に落第してしまったというのです。みな脱落してしまいました。
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なぜ人間が、このように特別することもなく生きながらも死ぬことを嫌い、「なぜ生きるべきか。根源がどのようになっているのか」と、皆さん疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書籍を通しては解決できません。哲学というものは、今まで神様を探していく道を開発したものです。宗教とは何でしょうか。神様を知って、共に生きる生活から始めるのが宗教生活です。
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人生をこのように生きて行く目的とは何でしょうか。この問題を、もう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではなく、目的も私だけのものではないことに間違いありません。生きる上において幸福な場を嫌う者がどこにおり、豪華絢爛な場で生きたくない者がどこにいるでしょうか。しかし思いどおりにできないのが私です。それでも自分を誇りたいし、思いどおりに生きたいし、思いどおりに残りたい私です。このような心情の交差点をもった私だというのです。
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さあ皆さん、見てください。皆さんが八十年ほど生きたとします。その中で夜寝る時間を除けば四十年になります。半分に減るということです。寝ることも生きることでしょうか。寝ることは死んでいるようなものです。寝ることは死んだ命です。ですから、二十四時間の間で生きようともがく時間は半分にもなるでしょうか。また、そこから御飯を食べる時間を一時間ずつ切り捨てたらどうですか。御飯を食べる時間を一時間は見ないといけません。
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さあ、またその中で友達の宴会の日、近所の町内のお年寄りの還暦を祝う日、誰かが亡くなった日、葬式を行う日、病気になって寝ている日、すべての日を全部差し引くと一生の中で生きているという日が半分にもなるでしょうか。この間計算してみたところ、生きているという日が七年と出ました。その七年の中で「本当に生きた」と言える日が何日出てくるかというのです。
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一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物心ついてこの世の物情を知り、あれこれしていて四十を越えたら五十であり、もう十年はあっという間なのです。そして十年たてば六十があっという間であり、六十になれば七十があっという間であり、私も静かに考えてみると、一場春夢(注:人生のはかないたとえ)という言葉を実感するのです。
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自分が運を百ほどもって生まれたのに、百二十ほど生きて死ぬ人は、その後孫が滅びるのです。人の運は、ゴムひもと同じでピンと張るというのです。しかし八十ほど生きて死ねば二十ほどの福を残して、その運勢を後孫の前に相続してあげ、逝くことができるというのです。
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運命は変更することができますが、宿命は変更することができないのです。大韓民国の人として生まれたことは、変わり得ますか。自分のお父さんの息子、娘として生まれたことは、変わり得ますか。その国の主権がどんなに強く、その国の慣習がどんなに強くても、お父さんの息子、娘だということは変更できないというのです。そのように復帰の道は、宿命的な道です。どうせ、いつの日かは清算しなければなりません。
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出発を誤ればとんでもない所に行くというのです。ですから船が大海を航海するにしても、出発した港から羅針盤を中心として行くべき目的地に向かって、方向性を描いてこそ行くことができるというのです。
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それでは、人間が出発した港とはどこなのでしょうか。分からないでいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達することのできる、目的地を描いて行くことのできる方向性がどこにあるのでしょうか。ないというのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように見るとき、人間はどんなにやったとしても人間で終わるのです。
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2.私たちはどこに行くべきか
一生を経たのちに、私はどのような所に行くのでしょうか。これが、人間たちが解決しなければならない重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。それで皆さん自身も、このような運勢に捕らわれて導かれていっていることを否認することができないのです。
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それならば、どうせ行かなければならない私自身であるとすれば、この体はどこに行こうとするのでしょうか。この心はどこに行こうとするのでしょうか。またこの生命はどこに向かって傾いていて、私の心情はどこに行こうとするのでしょうか。私の所願あるいは所望と理念はどこに行こうとしているのでしょうか。
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この問題を解決することができないとしても、私たちはどうせ行かなければならない運命に置かれているのです。私たちが生きて、そして死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わるのです。それならば体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは所願までも一緒に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここに確実な内容と、確実な解決点と、確実な目的観を立てておかない限り、これは不幸な人間でしかあり得ないのです。
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せみの卵がせみになるためには、赤ちゃん時代、幼虫時代があります。幼虫時代には水たまりに棲み、あるいは地面のくぼみにある穴の中に棲むとしても、それらが行かなければならない道はそこではありません。大空を飛ぶことのできる道を行かなければならないのです。飛ぶためにはどんなに地面の穴を掘り入ったり、水の中で泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければなりませんが、それが絶対条件だというのです。なくてはならない条件だというのです。
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幼虫時代から成虫時代に越えていくためには、幼虫時代において飛ぶことができる万端の体制が準備されなければならないのです。そこに反対の要素である皮を脱いで整備することができる一時を必ず通過しなければなりません。殻を脱がなければなりません。水の中で棲む時は平たくなければならず、水の上に浮かんで回るのに必要な姿が適格でしょうが、空中で飛ぶようになる時にはそうであってはいけないというのです。そこに合うように、すべてのものが整えられなければなりません。
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私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行かなければならないのでしょうか。このことは、神様抜きには絶対駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果は収められず、価値が認定され得ないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
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秋の季節が来たという事実は、冬が近づいているということを意味します。冬は、生命があるものだけが通過することができる路程です。生命をもてないものはすべて、ここで後退するしかありません。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しなさいというのです。
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新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければなりません。そうでなくては、冬の季節を通過することはできません。冬の季節を通過することができる生命力をもつようになれば、それを通過する過程には苦労が多いのですが、行けば行くほど春の日が近づくのです。春の日が訪ねてくるのです。私達はその道を行くのです。
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二 人間は原因たる存在ではない
1.本来神様の愛によって生まれた人間
本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母なら父母自身がこれこれこのような息子、娘を生もうという計画のもとで生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないというのです。神の摂理を中心として私たちが存在するようになった根源を掘り下げてみるなら、私たち人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心として動いていく歴史と関係を結ぶ重大な責任をもつための一つの生命体として、この地に送られたとしか考えようがないのです。
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それゆえ歴史過程にある私自身、その中で生きている私たち個体がどんなに小さいとしても、一つの個体として終わるのではありません。
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人間自体が、自分で生まれたのでしょうか。自分を主張することができる起源はどこにあるのでしょうか。この大宇宙の原則の前に人間を主張することができる起源を、どこから探さなければならないのでしょうか。私たち人間は生まれた結果的存在なのに、結果的存在が原因を知ることはできないのに、自分を主張しようとする人、そのような人たちは精神の抜けた者たちです。全部が狂った人です。
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生まれたことについて、なぜ生まれたかという問題、神様が人間をなぜ造り、天地万物をなぜ造ったかという問題、その結論は簡単です。神様も愛の対象が必要なので、愛の対象として人間を創造されたのです。皆さんは今、「何でもない姿の私のような存在は、いてもいなくても同じだ」と考えるでしょう。それではいけません。神様の愛の対象になるのに、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であれば、優れていようがいまいが愛するというのです。
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障害のある子供をもつ父母の胸がもっと痛いのと同じように……。天地の中心であられる神様の愛の心は、皆さんが優れているとかいないとかいうことを超えているのです。本性の愛の、そのパターンをもっているかいないかということが重要です。ですから、私がなぜ造られ、宇宙がなぜ創造されたかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために造られたという事実を知らなければなりません。
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神様がなぜ天地万物を造り、神様が私をなぜ造ったのでしょうか。愛のためです。私がなぜ生まれたのでしょうか。神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたのです。「神様と共に私の家庭で愛することができる人だ、神様と共に私の社会で愛することができる人だ、神様と共に私の国で愛することができる人だ、神様と共に私の世界で愛することができる人だ」と言うことができる人になるために、神様の愛の中で生きなければならないのです。
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私というものは父母から何を受けて生まれたのでしょうか。生命の連結体として生まれた、このように見るのです。お母さん、お父さんが一つになる所から、お母さん、お父さんの生命力の価値をもって生まれたというのです。
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その生命力は何によって? 愛によって。その生命力と愛は何ゆえに? 宇宙の目的を完成するために。このようになるのです。目的を完成するために生まれたというのです。男なら男、女なら女としてのある目的、大宇宙目的の協助体としての自らを完成するために、このような生命力を中心とした結合によって生まれたというのです。
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私たちが生まれたのは、なぜ生まれたというのですか。何のために生まれましたか。神様の愛、神様の愛ゆえに生まれたというのです。ここで「ドカン!」といえば、神様の頭に「ガン!」と通じることのできる、その愛だというのです。皆さんが何かを持って池に「ポン!」と投げれば、波紋が池の辺に広がるのと同じように、この宇宙の中で愛を「パーン!」と投げれば、全宇宙に波紋が生じるはずだというのです。そのようなことをしているのです。皆さんが何によって大きな波紋を起こすかということが問題だというのです。
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神様とはどういうお方でしょうか。創造主です。創造主とはどういうお方でしょうか。宗教世界での概念では、「神様は私たちのお父さんだ」「私たちは神様の子女だ」と言うのです。では、そのお父さんは、どんなお父さんですか。どのようになったお父さんですか。これは漠然としているというのです。
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借りてきたお父さんですか、隣近所のお父さんですか、あるいは養父ですか、どんな父母ですか。そうでなければ妻の父母ですか、嫁ぎ先の父母ですか。お父さんという言葉はたくさんあります。根本を解決できずしては、どんなに環境が拡大されたその世界で解決しようとしたところで、それは解決が出てこないのです。千万年行っても解決ができないというのです。
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それならば、人間と神様が問題です。「神様が私たちのお父さんだ」と言うとき、皆さんは神様がお父さんだと感じられますか。私よりも、私がいる前にもっと確実なのがお母さん、お父さんです。お母さん、お父さんが私より先にいるので、私がいるということを前提とする時は、私がいるということを主張する前に、私たちのお母さん、お父さんがいると主張しなければならないのです。それが正しい定義です。お母さん、お父さんをのけ者にして私がいるという主張は、愚かな主張なのです。
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人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在だというのです。ですから私がいるということを語る前に、お母さん、お父さんがいることを語るべきなのです。このように見れば、根本に帰って宇宙の根本となる神様という問題を、根本的に、一番最初に解決しておかなければならないのではないかというのです。
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お母さん以上、お父さん以上、先祖、先祖と言って上がっていけば神様になるでしょう。このような論理を追求すれば、私を主張する前に神様を決定しなければなりません。神様はどんな方だ、彼は私のお父さんだ、そのお父さんはどんなお父さんだということを。それで私たち統一教会はこれを教えてあげるのです。
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本然の出発点を正しくつかめ、正しく求めよというのです。人間は結果的存在なので原因の起点にもっていって合わせろというのです。原因の起点に合わせますが、その起点が盲目的起点になってはいけません。神が人格をもっているので、人格をもった人間においても知情意のすべての良心的作用の内容を持ち合わせているのです。ですからその動機も原因的内容以上の動機でなければならないというのです。それでいて絶対的でなければいけません。一度出発したものが誤ったなら、永遠に是正することはできません。
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2.人間が生まれた本然の目的
神様は宇宙の第一原因であられ、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛するお父さんであられます。神様は特別なみ旨を成し遂げられるために万物を創造されたのであり、その目的は正に愛の具現にあります。神様は真の愛の根源であられますが、どんなに全能な神様であられるとしても、一人では決して愛の喜びを感じることができません。
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神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が帰ってくることを願っていらっしゃいます。その対象としての最高の被造物が、正に私たち人間です。そのような理由で人間の生命には目的があるのです。人生の目的は成熟し、神様と永遠の真の愛の関係を実現するところにあるのです。正にこれが、神様と人間の間に平和をつくり上げる根本原理なのです。
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豊かに生きることも重要で、何かをすることも重要ですが、まずは縦的な天の父母の前に孝の道理を立てなければなりません。縦的天の父母の前に忠の道理を立てなければなりません。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないというのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人に出会うために神様が人を造ったのです。そのような目的があるというのです。
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人生が真実に行く道とはどこでしょうか。人間はどこから生まれたのでしょうか。愛から生まれました。人生はどんな道を行くべきなのでしょうか。愛の道を行かなければなりません。どのように死ぬべきなのでしょうか。
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愛のために死ななければならないという結論が出てきます。その愛とはどんな愛でしょうか。大宇宙が歓迎することができる愛です。小宇宙ではないというのです。神様が公認し、天使世界が公認し、万物が公認し、すべての人が公認し、私たちの父母が公認することができる大宇宙の中で生まれ、その中で生きて、その中で愛し、その中で死んでいくことが、人生の目的だと見るのです。
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愛は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様はお父さん、私は息子……。人生の究極的な目的は、父を訪ね、切ることのできない関係を結んで喜びを感じることです。
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先生はいつか、道を行く途中で年を取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに「どこに行かれますか」と尋ねると、「行くって、どこに行きますか。うちの息子の家に決まってるでしょう」とおっしゃいました。「そうですか。行って何をされるんですか」ともう一度聞いてみると、「くれる御飯を食べて、たまに鶏でも出してくれるなら鶏もおいしく食べるんだよ」と言うのでした。また「それなら食べたあと、何をされますか」と聞いてみると、「食べたあとは特にないよ」と、このような答えでした。私たちの人生を、このように送ってもいいのでしょうか。
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家計の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらかを正確に決算します。このように帳簿を整理するときにも、収支計算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか。一生の間生きたことを収支決算してみましたか。赤字ですか、黒字ですか。赤字ならば地をたたいて痛哭しなければなりません。
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人は死ぬ場において、楽しく歌を歌って死ぬことができなければなりません。ところで、死を前にして生きようともがくことは、赤字の人生だという証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字の人生を生きなければなりません。
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人間は誰のために生きるのでしょうか。「私のために生きます」と言えば落第です。自分のために生きる人の前に家庭が存在することができますか。希望の家庭がないのです。国が存在することができますか。国は出てきません。そこに世界が存在することができますか。世界が存在することができません。世界が出てくることができる場がないのです。天地の公約は「この個人主義の悪党よ、立ち去れ」と制止するのです。個人を第一とするのに、そこに家庭が入ることができますか。そこにある理想的な国が入ることができますか。錐の先のような狭い所に入ることができるかというのです。どんなに入ろうとしても、入っていくことができないというのです。
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皆さんは愛を知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛だというのです。愛を求めて動き、愛を求めて存在しているというこの鉄則を、皆さんはいつももっていなければなりません。鳥たちがお互い好きになり、チュッチュとさえずりながら飛び回ることも愛ゆえであり、磁石のプラスとマイナスがお互い合わさることも愛で一つになるためだというのです。人がみな誰かに会おうとするのも一つになるためなのです。
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3.愛のために生きる
人生はどのように生きるべきでしょうか。人間はどこから、なぜ生まれ、どのように生きていくべきでしょうか。簡単だというのです。愛(神様を中心とした)ゆえに、愛によって生まれたので、愛の道を求めて、愛の目的地に行くのです。そうすれば循環法度上で、永遠に回ることができるのです。愛は永遠の概念なので愛を求めてこの中心に来るのです。それは愛でのみ成立するのです。
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私が一生の間生きるのは、私のために生きるのではありません。神様の愛のために生きるのです。その目的のために移動し生きるというのです。それがどれだけ素晴らしいことでしょうか。そのように生きる人は絶対滅びないのです。そこに大変なことがあり、涙もあり、時には悲惨なことがあったとしてもそれは神様の愛ゆえなので、悲惨ではなく、悲痛でもなく、悲しみでもないというのです。その原則を知らなければなりません。
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私たちは何のために生きるのでしょうか。絶対的な真の愛、真の愛のために生きましょう! ここにすべてが入っているのです。ですから私のポケットにあるハンカチも愛のためにあり、私が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためにするというのです。私が話すことも真の愛のため、食べることも真の愛のため、遊ぶことも真の愛のため、すべてがそうだというのです。
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人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が合わさった目的に向かって進んでいかなければならないのです。
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そうすれば、どの目的が最後に残るでしょうか。個人を主としたものは流れていくし、家庭を主としたものも流れていくし、団体を主としたものも流れていくし、国を主としたものも流れていくし、世界を主としたものも流れていくのです。しかし一番最後まで残る一つの目的があるとすれば、それは神と人間が共同で追求する目的です。そのような目的だけが、人間の歴史の最後にまで残ることができるものなのです。
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皆さんの心が最後に安着することのできる終着点とはどこでしょうか。神様を求めて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとしません。心の最後の終着点は、神様を占領し、神様の愛を占領する所です。ですから皆さんが神様の愛を占領することができなければ、万事がむなしいのです。
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人生の最後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。その方とは中心の場所で会って、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従って神様と一致して、神様の愛を私のものにしようというのです。結論はそれです。
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人間が最後に到達したいのは、最高であられる方の愛の対象者になることです。その最高の方とは誰かというと、私たちの父であられると同時に、神様だというのです。
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本来人間の特権は、誰彼問わず、天上王国世界において皇太子として生まれることのできる権威をもっているのです。お姫様として生まれることのできる権威をもっているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威だったのです。
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心情が通じるようになれば、みんなが神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置いかんによって人間の価値が左右されるのではありません。そのいかなるものをもってしても人間の価値を決定することはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知るところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。
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私たちは新しい価値観を模索して、それを中心としなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ意と一致することのできる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なるのです。人間の意志を中心として立てられた価値観とは異なるのです。
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今日、この世界において確実な価値観をもたなければなりません。世界観を越えることのできる価値観をもたなければなりません。私たち統一教会は、その価値観の中心を神様においているのです。私たちの主張する世界に帰ろう、理想世界に帰ろう、ではないのです。神様に帰ろうというのです。
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神様に帰らなければ理想世界もないのであり、幸福な世界もないのであり、永遠な世界もないのであり、愛の世界もないのです。そのすべての幸福の要因、私たちが願うすべての要件は神様によって始まらなければならないからです。それゆえ、神様に帰らなければならないのです。これを懐かしがり、これを求めてきたのが、人類歴史上に現れた宗教という機関だということを知らなければなりません。
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私たち統一教会は絶対的な価値観を提示するとともに、真の御父母様を提示しています。私たちが願う絶対的価値の基準は、どこが終着点なのでしょうか。真の父母の息子、娘になるところです。永遠の生命をもつことができ、永遠の愛をもつことができる神様の息子、娘になることです。そのほかには道がありません。
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アダムとエバが堕落するとき、神様が許諾したところで相対理想を結んだのではありません。自分たちが勝手にやったのです。神様が許諾して関係をもって出発することができるのは父子の因縁しかありません。ところが、それが壊れたので、没落したので、それを標準にし、もう一度継ぎ当てしなければなりません。
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三 人間の価値は偉大である
1.人間の価値は神様的価値
人の価値は、どのくらい大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年懐かしがることができる存在が人間です。統一教会の文先生が見ると、これが宇宙の根本だというのです。これが内外関係になったので、縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になれば、縦横の愛の世界観が広がるのです。その中心には神様が臨在されるのです。心の深い谷間の位置で一つに固く結んであげることができるその場は、縦横の中心地です。これを結んでおかずしては縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。ですから人を、このように造らずにはいられなかったということを皆さんは知らなければなりません。
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神様は絶対的な創造の観を所有した絶対者であられるので、絶対的な対象としての価値のある存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中の何をあげても換えることのできないものです。
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価値的に見るならば、相対的存在とは神様をあげても換えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが。相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様をあげても換えることができないのです。神様をあげたところで神様一人になるというのです。神様として残ってしまうのです。
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ですから神様自身を投入して、神様自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をされるのです。ですから、神様をあげても換えることのできない価値的存在として造ったものが人間なのです。これと同じように、絶対的価値の存在が人間だということを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的存在として人間を造られたのです。
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神様は、人間を愛のために造られました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛のために造られたのです。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。
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人は誰に似ましたか。神様に似たというのです。ですから神様が愛を願うことも、結局人と同じだ、とこのように見るのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状として現れ、形状の表示が象徴として現れるのです。統一教会の原理は、そのように言っているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状となるものも自動的に喜び、形状となる存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるのです。そのような作用を何がしますか。愛のみがするのです。
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神様が、愛を求めていく対象を造ろうとするとき、誰に似るように造るでしょうか。神様に似るように造るのです。その神様に似るように造るなら、神様の中にあるもののように男性の性稟がなければならず、女性の性稟がなければなりません。自分に似たので自分の本性相からすべて抜き出して、見えない性相、見えない考えの形態を実体として展開させたものが人間だというのです。ですから聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形状のとおりに人間を創造したという言葉は正しいのです。
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見えない神様の形状を、私たちの体中に象徴的にすべて投入したというのです。目は、誰に似たのですか。神様です。ですから顔の真ん中を見てみると、目は深い所にあるのです。そうでありながら、すべてのものを観察するというのです。その次に、鼻はアダムとエバを象徴するのです。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。ですから、四八、三十二(四×八=三十二)、三十二個の歯をもっているのです。この世の万物を中心として四数を中心として。その次に、耳は四方を象徴するというのです。この首の上は天の国です。天の国の情報センターがあるというのです。
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顔は、天地創造の主人が自分の形状をすべて取り入れて造りました。ですから、人の中には神様の性稟がすべて入っているのです。この目は何を象徴するかというと、神様を象徴します。ですから生物が生まれるとき、目が最初にできるのです。天地の中心は神様であられるので、目は神様を象徴するのです。ですからどんな人でも、その人の目は神様を象徴するというのです。ですからどんな人でも、その人の目を見ればその人が良心的な人なのか、非良心的な人なのか直ちに分かるのです。
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いくら真理だと言っても、その真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的な愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結されているのです。ですから万物を見て神様が分かるし、アダムとエバは神様の形状なので、アダムとエバを見て神様が分かるのです。なぜですか。アダムとエバは縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二つすべて完全にピタッと、男女の愛を東西南北を通して世界の軸をもっていって合わせるときには、神様と霊界が通じ、全世界がすべて通じるのです。
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皆さんは主体と一つにならなければならず、対象と一つにならなければならないということを知るべきです。主体と対象が一つになれば、繁殖が起こります。与え受ければ、必ず繁殖が繰り広げられるのです。その繁殖することができる場は、うれしい場なのです。神様自身も性相と形状の二性性相になっているでしょう。各自が一人の時は主体ではありません。男性と女性が合わさってこそ家庭の主体が成立するのです。二人が合わされば、主体になるまいとしても主体になるのです。
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