2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。


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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に、開業医ロバートマンローの長男として生まれる。一族はスコットランドでは名家のひとつで、祖先は14世紀まで辿ることが可能。

1865年 イギリスの箱館領事館館員のアイヌ墳墓盗掘事件が発覚。横浜の大使館に居た医師ウィリスの要望に基づくものとの説もある。ウィリスもエジンバラ大学卒業。

1869年 英国大使の要望により、外人患者用用地として山手居留地の一部(1千坪)が有償貸与される。(「横浜市史」では1878年とされる。

1876年 コナン・ドイル、エジンバラ大学医学部に進学

1877年(明治10) アメリカ人生物学者エドワード・モース、横浜から東京に向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見。発掘に取り組んだ学生グループから人類学研究者が輩出される。

1879年 

5月 モースが鹿児島に考古学の調査に入る。

79年マンロー、エジンバラ大学医学部に入学。1888年まで10年にわたり在籍。

1882年 エジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンが死去。ダーウィンも医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。「種の起源」(進化論)の発表されたのは59年。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川の河岸段丘で旧石器の発掘作業に加わる。

1886年 チェンバレン、東京大学のお雇い教師として来日。直後よりアイヌに興味を持ち、北海道でバチェラーのもとに一ヶ月程滞在。アイヌの調査やアイヌ語の研究を行う。

1886年 渡瀬庄三郎がコロポックル先住説を展開。これを白井光太郎が批判。

1887年 マンロー、病気療養のため大学を休学。その間チュニジア・イタリアなどを旅行。

2月 坪井正五郎、『東京人類学報告』第12号に『コロボックル北海道に住みしなるべし』を掲載。白井の批判に逐条反論を行う。これに対し小金井良精・マンローらはアイヌ先住説を唱え論争となる。

8月 坪井正五郎、埼玉県吉見の横穴(吉見百穴)を調査。コロポックルが住んでいたと主張。今日では墳墓説で確定したが、坪井は最後まで自説を曲げなかった。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位(MD)はとれず。「医学士」(MB)および「外科修士」の資格を得る。

88年 スコットランドを離れる。ペニンシュラ&オリエンタル汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。
“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)

88年(明治21) イギリス留学から帰った坪井正五郎、解剖学教室の小金井良精らを中心に東京人類学会設立。翌年には合同で北海道へ調査旅行。小金井はその後も、渡道を繰り返す。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O社)の船医になる。
後に妻チヨに当時の模様を語っている。
英国人はインドでも香港 でも現地の人々を激しく差別していた。さらにインド国内のカースト制による激しい階級差別も併存していた。

90年 インド滞在中に執筆した哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を寄港先の横浜で刊行。
アンコナ号は、当時香港-横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。チヨによれば入院は年余に及んだと言う。

8月 33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられる。

1892年 マンロー、退院した後横浜市内の自宅で開業。(病気治癒後、入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務:桑原)

来日後の数年間、マンローの足取りははっきりと掴めていなかったが、岡本らの研究で明らかになってきた。本年譜ではその所説を尊重する。桑原らによる従来説は別記する。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893 年(明治26) マンロー、一般病院の第8代院長に就任。ただしこれは一般病院の「名誉碑」の記載であり、事実とは異なる可能性が高い。

ゼネラルホスピタルは「総合病院」の意味だが、市民は「一般病院」と呼び習わした。マンローは考古学に熱中し休職多く、前院長がその間引き続き代行したという。

1894年(31歳) 日清戦争に日本軍従軍医師として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(33歳) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の娘アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。

95年(明治28) 日本考古学会創立。マンローはこの頃から日本の遺跡に興味を持ち、勉強を開始したと語っている。

1897年 一般病院の外科担当医師となる。このときベルツが同院顧問医だたことから知り合う。ベルツを通じて発掘研究にふたたび興味を掻き立てられる(岡本)

また新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようだ。

6月 長男ロバートが誕生。レッツ家墓碑銘には記載あるが、マンローの戸籍には記載なし。

1898年(明治31) バチェラーの案内で最初の北海道旅行。白老のアイヌ村落を訪問(35歳)

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったという。

1899年(明治32) 

1月 長男ロバートが死去。

4月 北海道旧土人保護法が制定される。実際にはアイヌ民族同化と資産収奪法であった。

7月 内務省、マンローに「医術開業免状」を交付。日本人の診療も可能となる。

1900年(明治33) 

11月 次男のイアンが誕生。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。マンローは講演の中で「貞観(じょうかん)時代」を「テイカン」と誤読した。高畠トクはその誤りを英語で指摘した。直後、マンローは、高畠に秘書兼通訳になってほしいと申し出た。トクは快諾した。

トクは明治10年生で当時23歳。旧柳川藩江戸詰家老高畠由憲・ゆうの次女。実家は明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1902年 東大の御抱え教師チェンバレン、鶴見で大規模な発掘を行う。マンローと交際があり、影響を与えた可能性がある。
 
1903年(40歳) 

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。(おそらく高畠とくが随行)

冬季 嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。
アデレーは声楽とピアノの得意な令嬢で、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった(いずれも桑原)

1904年

2月 日露戦争開始。

3月 マンローとベルツ、共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘。このとき41歳。

この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。(慶応大岡本孝之氏)
ゼネラルホスピタルの隣接地にメイプルズ・ホテルを開業。病院(サナトリウム)とホテルを兼ねた施設だったが、1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる(岡本)

4月 マンロー、ベルツと前後して二風谷を訪問。(谷の年表に記載なし)

9月 研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。古銭に関する英語入門書として好評を博す。横浜の好事家の集まり「横浜古泉会」が協力。
 
1905 年(明治38)

1月 東京人類学会に自薦入会。この頃学会内では、坪井と小金井らによるコロポックル論争が白熱していた。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、日本で外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る(戸籍謄本にて確認)

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。このときマンロー42歳、トク28歳。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 箱根一帯で発掘作業に入る。早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器時代の遺物とみられるものを発見。(現在縄文時代と呼ばれている時代は、西欧の時代区分では旧石器時代に属する)

8 ふたたび早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。

秋 三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見。その後7ヶ月をかけて発掘調査。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などを検出する。

桑原によれば、一つの縦穴住居跡よりほぼ完全な人骨群が発掘(こども1体、大人4体)された。マンローはこれを“アイノ頭蓋骨”と予想し、小金井に鑑定を依頼、合わせて発掘現場の検分を依頼する。小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断。

三ツ沢遺跡はその後も50年にわたり、日本人学者による調査が続けられた。主体は縄文中期から後期、一部弥生時代遺物も見つかっている。
人骨群は一つの住居跡に埋葬されていた。縄文時代の家族をうかがわせる。

12月 長女アヤメ(英名アイリス)が誕生。月数は多少合わない。

マンロー、遺跡発見の功を認められ、「王立アジア協会」の会員に推挙される。

ベルツ、東大での勤務を終えドイツに戻る。56歳

1906年(明治39)

2月 出産直後のトクを伴い、小樽・忍路のストーンサークルを実測調査する。おそらく縄文人骨の関連でアイヌに興味を持ったのだろう。地主の娘白井セイを通訳見習いとして連れ帰る。(セイは堂垣内元道知事の実母)

5月 人類学会の小金井良晴(解剖)がモンローのもとを訪れる。

7月 小金井良精らが、川崎の南加瀬貝塚の発掘調査。マンローもこれに参加。

マンローは一連の発掘報告の中で、層位的分析に基づいて縄文土器と弥生土器に年代的な差があり、縄文土器にも年代差があることを確認。

夏 この後さらに軽井沢古墳の調査を行う。軽井沢は信州ではなく横浜市西区南軽井沢の前方後円墳。

9月 「日本亜細亜協会誌」に、人骨の発見状況、頭蓋骨の計測所見を記載。いくつかの根拠を元にアイヌ人であると断定する。足立文太郎は、発見された人骨が南方x北方の混合種であると主張。

論文「日本の原始文化」(Primitive Culture in Japan)を「日本亜細亜協会誌」(Vol34-Pt2) に発表。南加瀬貝塚などの調査に基づき、弥生土器の年代評価を提起。


1907年 

6月~8月 東京人類学会雑誌に「後石器時代の頭蓋骨」、「アイヌ模様と石器時代模様」を相次いで発表。足立文太郎説に反論するなど旺盛に所説を展開。
マンローは縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと推定した。学会主流はマンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視した。

1908年(明治41) 

1月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を横浜で自費出版。長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものであった。
先史時代の日本


















































2月 「考古界」誌第6、7篇に「環状石籬と古代建設物の方位」を連載。ストーンサークルについて論じる。イギリスのドルメンに倣い、天体観測施設であると主張。

4月 東大退官後帰国していたベルツが伊藤博文の要請で再び来日。大正天皇(このときは皇太子)の診察を行う。ベルツ、マンローは二人で関西旅行し共同調査を行った(桑原)
実際にはベルツは広島に行き、マンローは京都で分かれて飛鳥の石舞台など大和・河内の古墳を歴訪した(岡本)

5月 権威付けのためにM.D(医学博士)の肩書きが必要と痛感したマンローは、20年ぶりに帰国。母校のエディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。学位論文は「日本のガンーその統計的検討」というほとんどでっち上げの論文だった。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。医学博士の学位を授与される(46歳)
その後、エディンバラ博物館の美術民俗学部門から正式な日本通信員に任命される。マンローはその後6年に渡り、アイヌ資料をふくむ考古学資料2000点以上をエディンバラに送り続けた。

7月 東京人類学雑誌268号に「コロポックルについて」が掲載される。坪井のコロボックル説を詳細に批判。石器、土器の使用はアイヌにも共通している。三ツ沢の縄文人骨がアイヌであることは確認された。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

10月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

10月 マンローの考古学研究状況が「Nature」誌に掲載される。


1909年(46歳)

2月 トク夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。
桑原さんは、とくさんになじるかのような冷たい目を注ぐ。さすがにそれはお門違いでしょう。

ベ平連で有名となった高畠通敏は、トクの義理の孫(養子の子)に当たる。

5月 日本アジア協会例会で、「ヨーロッパの旧石器と日本の遺物」と題して講演。

北海道旅行。東釧路の武佐貝塚を調査し、春採コタンで熊祭を撮影。マンローは件の女性を連れ歩き横浜に戻るとそのまま送り返した(桑原)

1910年(明治43)

5月 日本アジア協会例会で、「いくつかの故物と遺物」(Some Origins and Survivals)と題して講演。

5月 「大逆事件」フレームアップが開始される。

6月 「佐倉義民伝」を見た感激そのままに戯曲「宗五郎、その偉大なる愛」(Sogoro or Greater Love)を自費出版。上演されたかどうかは不明。

8月 日韓併合。

この頃からアイヌが日本の先住民という主張は姿を消し、アイヌ人に関する民俗学的研究に比重が遷る。桑原は、背景に大逆事件があったのではないかと考えている。

1911年(48歳)

1月 「先史時代の日本」第二版を自費出版。エディンバラでも発売される。「いくつかの故物と遺物」を論文として発表。

母死亡。帰国せず。

この頃、生活は極度の混乱。身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変える。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡(茂沢、宮平)で調査に従事。

1913年

8月 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

12月 東京人類学会の坪井会長がペテルブルクで客死。マンローは「坪井教授の業績」を人類学会雑誌に寄稿。

この年、北海道を大凶作が襲う。

1914年(51歳) 

10月 在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(33歳)と3度目の結婚。アデルの母は日本人。
ファブルブラント(James Favre-Brandt)はマンローに対し強い警戒心を持っていたが、すでに1年前から事実婚となっていたため承諾せざるを得なかった。

マンローは病院を3年間休職し、アデルとともに沖縄・九州 を旅行。鹿児島を中心に各地で発掘調査に携わる。これらはすべて親友の大山柏公爵の手配によるもの。

10 月 マンロー、鹿児島に滞在し発掘調査。垂水市柊原(くぬぎばる)の貝塚から「中間土器」を発見。

この年発行の「現代の横浜」によれば、当時の一般病院の院長はウィラーとなっている。留守中の院長職をウィラー前院長が代行したためである。

この年、第一次世界大戦が始まる。

1915年(大正4)

4月 考古学雑誌に「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。鹿児島での調査活動の成果となる。

マンローは土器の文様を主要な根拠にし、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張。後に進出した大和民族に追われ、周辺地に居住したことからツチグモと呼ばれるようになったと判断。また大和民族(南方由来)の象徴として中間土器(弥生土器)を特徴づけ、先住民(北方由来)のアイヌ文様と対比する。その他、熊襲や隼人にも先住民族として関心を寄せる。

9月 休暇2年目は北海道東部を訪れる。アデル夫人、写真技師ミッドワールを同伴する。釧路市内・春採のアイヌコタンを訪問し熊送りを体験。記録をとり写真に収める。また近隣(釧路公園付近)の発掘調査に当たる。
①98年、②09年夏と、マンローは3度も春採のイヨマンテを見たことになる。しかし98年はそもそも行っていない、誤記と思う。09年もトクとの離婚直後で行ける可能性は低い。

12月 亜細亜協会副会長に就任。

この年 北海道で冷害→飢饉となる。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛めたという。

1916年 

4月 釧路での体験と記録に基き、亜細亜協会で「イヨマンテ」について講演。英字新聞 The Japan Advertiser に要旨が掲載される。

5月 休暇3年目はふたたび北海道に入る。アデル夫人、写真技師ミッドワールにコック夫妻が同行。今度は白老に2ヶ月ほど滞在。木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究を始める。この間に、研究の比重は考古学から生きた人間をあつかう民族学へと移っていく。

当初の人類学の範疇は大幅に広がり、大まかに言って形質人類学、民族学、考古学へと分かれていく。このうち民族学は民俗学、あるいは文化人類学とも呼ばれるようになる。マンローの当初目的は日本人のアイヌ起源論にあったが、セリグマンは強引に結論づけるよりはアイヌ文化の実証研究を積み重ねるよう勧めた。

1917年(大正6) 

3月 日本亜細亜協会で「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者(鳥居龍蔵、梅原末治)から反論。(詳細は別記事に)

桑原年譜では、「ドルメン論争で、鳥居らへの反論のため日本的特殊事情に気づき、その後アイヌ研究へと集中していく」と書かれている。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。小金井良精らが招待される。

夏 軽井沢に岳父らとともに避暑に赴く。診療も始める。このあと何年か、軽井沢の医業に集中する。

史料により著述が錯綜するが、現地の証言を元にした桑原の記述が最も一貫している。
これによれば17年が初めての軽井沢避暑体験。岳父と夫妻が現地に滞在する。そのうちに診療もするようになった。はじめは外人タッピングの別荘を借りて診療を開始した。その後、京三度屋裏から萬松軒別館を買い取り、洋風に改造した。そして二、三年後にマンロークリニックとして開業した。

10月 ロシア革命が勃発。

12月 マンローは北海道庁からアイヌの生活実態調査を諮問される。白老での調査をもとに「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年に公表される。この調査を機会に考古学からアイヌ生活・文化に関心が移行。

道庁はアイヌに関する5つの質問を発している。その中心は「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」にあった。
マンローの答えは次の通り。アイヌ=コーカシアン説にとどまらない「Dance with Wolves」範疇を打ち出している。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。
1918年(56歳)

2月 哲学書「生ける者の魂」(Soul in Being)を自費出版。

3月 道庁、マンローの「旧土人に関する調査」上・下を「北海之教育」に掲載。

答申のほぼ全てがアルコール問題。アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらし、これに外来伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。和人の差別がこれを助長しているとし、禁酒を第一の対策とする。
対策としては、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。

この年、米騒動が発生、全国に拡大。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

このあたり、「枯淡の境地」に入ったかのごとく見える。
1921年(大正10)

ドイツ大使館侍医に就任。(58歳)

7月 マンロー、外国人避暑客を対象とする「軽井沢国際病院」の兼任を受諾。この病院は以前からあったが、夏季限定の診療所だった。経営母体は外国人が組織した「軽井沢避暑団」という団体。

以下は桑原からの引用。
マンローは院長就任の条件として、優秀な婦長の就任を持ち出した。マンローは神戸クロニクル社長より神戸万国病院の婦長木村チヨを紹介された。

チヨは1885年生まれでこのとき36歳。香川県高松市のべっこう商の娘で、高松の日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受けた。神戸の万国病院で婦長として働いていたが引き抜かれたという。

21年 京大考古学の浜田、鹿児島での発掘調査から、縄文土器と弥生土器の違いは、時期差によるものであることを証明。開聞岳の噴出物をはさんで上下の関係が決め手となる。

1922年(大正11)

1月 神戸の新聞Japan Weekly Chronicle 社長の怪我を治療。これが契機となり、同紙に、「知性のなぞ」(The Riddle of Mentality)を発表。

9月 内村鑑三がマンロー家を訪問。「多方面にわたる大学者」と賞賛。マンローは内村が交通事故で負傷したとき治療にあたった。

11月 改造社の招待でアインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。このときアインシュタインの依頼でドイツ大使館勤務のユダヤ系女性を診察する。彼女は精神病の疑いをかけられ解雇の危機にあったが、マンローが謙譲であることを証明し解雇を免れたと言う。 

1923年(大正12)

1月 Japan Weekly Chronicle に、「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。相対性理論への傾倒ぶりを示す。

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

夏 金田一京助、二風谷を訪問調査。久保寺逸彦が同行。

8月7日 アデール夫人の父ファブルブラントが大動脈破裂で死去(82歳)。

8月25日 横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻る。

9月1日 関東大震災。軽井沢で働いていたマンローは無事だったが、横浜の自宅は全焼し、機材等は全滅した。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰す。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。焼失した英領事館の敷地内に建てたテントで、怪我人の手当や防疫に奔走した。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。これを機会にマンローは病院を辞し、軽井沢に居を移す。
1924年(大正13) 

1月 マンロー、軽井沢サナトリウム(旧称国際病院)院長に正式就任。7~9月に限っては、外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。夏季以外の閑忙期はマンローがテナントとなって開業していた。
軽井沢サナトリウム

3月 ファヴルブラント家は破産。妻の実家の財力をあてに運営していたサナトリウムは大幅な赤字を計上、マンローは多額の負債を抱える。(桑原によればファブルブラントは破産せず、息子が横浜で経営を再開)

貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になる。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、フロイドあて紹介状を持たせアデールをウィーンに赴かせる。