鈴木頌の「なんでも年表」

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マンロー医師 年譜 (増補版) その2

2020-08-20 16:31:24 | 日本 蝦夷 アイヌ

1925年(大正14) 

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。
セリーグマンは、一般化を焦らず、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう助言。(最も信頼する人間からのきわめて重要な助言だ)

29年 アデール夫人からの音信が絶える。谷宛書簡によれば、この後木村チヨと親密になるとされているが、もっと早くからだろう。

29年 日高・釧路地方のアイヌ遺跡調査のため来道。アイヌに結核が多いことに驚き、研究ばかりでなく救済活動も行うようになった。

1930年 (67歳)

5月 セリーグマン教授自身が推薦者となり、ロックフェラー財団からのアイヌ研究助成金が実現。150ポンドと言うがどのくらいのものか分からない。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月にわたり滞在。ペテゴロウが現地ガイドを務める。

12月25日 イオマンテ(熊祭り)の記録映像を撮影。貝澤正は31年としているが記憶違い。
熊送り

1931年(68歳) 

2月 セリグマンあての手紙。
アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の章立ては以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について ②アイヌの宗教の特徴 ③中心的祭礼としてのイヨマンテ ④妊娠と分娩にまつわる習慣 ⑤病気と治療、呪術、薬草など ⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

7月 二風谷永住を決意。貝沢シランペノより宅地(約5千坪)を購入し登記完了。自宅建築の準備を開始。二風谷を選んだのはバチェラーの勧めだったといわれる。
イソンノアシ
マンローと二風谷の長老イソンノアシ

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

31年 バチェラーはイヨマンテの映像を、「残酷野蛮な行事を公開するのは、民族の恥をさらす心ないやり方」と批判。
マンローは下記のように当てこすり。
ある善良な人たちは、アイヌが熊の血を飲むことに批判的です。でも、血の滴る牛肉を食べ生カキをまるごと飲み込むことは何とも思っていません。最高の文化人たちは、血と肝臓でできた腸詰めをおいしいと食しています。(ある宗教では)神の肉と血が、少くなったのでパンとブドウ酒が用いられるようになりました。
そして「バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。トクの知人のフランス人夫妻に身元を託す。リヨンに絵画と刺繍の勉強に赴く。

6月 邸宅の外側が完成。外から見ると2階建て、中は3階建て。内部の造作は遅れる。邸宅は完成しておらず、借家の方に荷を解く。

8月 ロンドンで第1回国際先史学・原史学開催。マンローは文書参加。「九州の先史時代の遺跡」の原稿を送る。この論文は34年発行の紀要に収録される。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

当時結核が猛威をふるい、35戸のコタンから年間27個の柩を出したと言う。子供を加えると死者の数はその3倍に達した。診療は一切無料で貧窮に喘ぐ患家へは米・卵類を与えた。子供達にはチヨ夫人手造りのビスケット(マンロー・クッキー)が配られた。(桑原千代子

10月 乙部の請負人が自殺。このため邸宅の建設が遅れる。

12月16日 二風谷の仮住まい(商店の倉庫)が火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う。心痛のあまり狭心症発作で倒れる。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1933年(70歳)

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 マンロー邸が完成。木村チヨ名義となる。
白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨ夫人が看護師として手助けした。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」
アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)
マンロー邸入り口
       マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
            湖側に向いた東側面
5月16日 マンロー、北海道釧路市を訪れ上別保の東釧路貝塚で発掘調査。

5月17日 マンロー、釧路考古学会顧問となる。返礼としてテームズ河畔出土の旧石器を考古学会へ寄贈する。チヨとともに講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと直行し入院となる。

6月 日本アジア協会から、二風谷住居火災に対し救援金が贈られる。同時に、多年にわたる研究に対し表彰状が送られる。ドイツ・アジア協会、外人牧師団、軽井沢避暑団からも火災救援金が贈られる。本国の大英学術協会が中心となり救援委員会が設置される。英国の有志からの寄金も到着。

7月 フランスのリヨンに留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で結核を発症。エリオ荘病院で大喀血し死亡。現地滞在は1年3ヶ月にとどまる。遺骨は翌年に戻る。移送したのはギリシャ哲学者瀬川三郎という篤学の士であった。
10_ayame
     アヤメ(アイリス)
7月 療養を終え、そのまま軽井沢で秋まで診療に当たる。その後41年まで、夏季の軽井沢サナトリウムでの仕事(資金稼ぎ)が恒例となる。谷あての手紙では、二風谷での患者は1日2~3名。無料診療費が月平均30~40円かかったとされる。

10月 軽井沢から釧路に移動し、18日をかけて各地を移動。白糠、弟子屈、阿寒、美幌を現地調査。木村チヨ、貝沢善助、若宮カメラマンが同行。
それだけの金があるなら、大家に多少の金は渡すものだろう、と思う。

11月 釧路での調査を終え、二風谷に戻る。

12月 マンロー邸の前庭にアイヌ家屋(チセ)のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。さらに翌年にかけて悪霊払い・病気の平癒祈願の「ウエポタラ」と家の新築祝いの儀礼である「チセイノミ」の記録を行っている。

33年 英国王立人類学研究所の通信員となる。名刺には公式通信員と書かれた。このあと定期に通信が送られている。

1934年 

5 月 セリグマン宛ての手紙。診療のためにひっきりなしに仕事が中断させられると嘆く。原因は研究者の立場を逸脱しているため。
マライーニの述懐: 朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。
マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。
もう一つ、セリグマンあての手紙
8 ヶ月間、ひとことも英語を話していない。Kimura さんとの会話の多くは日本語になります。その結果として、あなた(Seligman)に手紙を書くときは、まるで長らく音信不通だった兄弟と話をしているみたいに、急きたてられるように言葉がほとばしり出るのです。ほっとします!
夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

8月 英字紙に「アイヌの暮らしーいまとむかし」を連載。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。
1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

8月 「人生と真実、存在の謎」(Life and Truth, Riddle of Existence)を吉川弘文館より発行。

二谷文次郎の紹介を受けた道庁職員の谷万吉が自転車でマンロー邸を訪ねる。当時谷は平取役場に出向していた。以後マンローと家族ぐるみの交際を続けた。
離婚調停や様々な噂の抑圧に努力し、困窮するマンローに食料品を贈るなど、死亡までの困難な数年間を親身に支えた。マンローは谷を何よりの力と頼りにし、心打ち明ける手紙を何通も書いた(小柳伸顕)

マンローは谷あての手紙で32年末の失火事件についてこう書いている。
その男たちは私心からでなくて、私を日本国の敵と思い込んで放火したのだと思う。
ただし、類焼したM家倉庫の弁済責任を逃れるために、放火説を主張しつづけたという説もある。
1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で4日間にわたり「熊祭り」映画を制作。セットではなく二谷国松家で撮影された。マンローもこれに協力。久保寺は「マンロー邸で二谷さんとのツーショットをマンローに撮ってもらった」と語っており、下図はその時の“ついでの1枚”であろう。
マンローと二谷
夏季 軽井沢で診療に従事。

9月 谷あて書簡。二風谷の自宅及び土地の処分を希望。結局実現はしなかった。

秋 マンローが無許可で病人の治療をおこなっているとの噂が広がる。近隣の医師が流したらしい。これは事実であった。これに対し谷と二谷は診療所開設に努力した。

11月 セリグマンあての手紙
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。
11月 谷の尽力で、診療所開設届を北海道町に提出。①略歴、②二風谷に居住し、アイヌ研究に専念するに至った動機、③二風谷の医療の状況、無料診療の実態、④平取村のアイヌの健康状況について、社会課より質問があり、谷を通して回答。道庁は診療所を認可する。

12月 谷を通して診療所の開設届を提出。静内・新冠・沙流三郡医師会に加入。

午前中は研究,午後は診療に当てていた。午前三時頃には起き研究資料をタイプしていた。これらの資料はロンドンのセリグマンの元に送られた。雪の日の往診


12月 谷宛書簡。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。
1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で住民が石炭塊を発見する。アイヌの人たちと対応を協議する。

1月 二風谷の“マンロー診療所”が正式の営業を開始。
私が見た病気は、結核のあらゆる病型、消化器疾患のほぼ全てが回虫症、トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染、膿痂疹や疥癬は貧困層では当然のことである。心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ないる。精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。(診療所開設届につけられた諮問文)
2月 2.26事件発生。

5月 この月を以ってロックフェラーの研究助成金(2回め)は終了。家計は厳しさを増す。

5月 「“波粒子”理論で人間の生理的過程を説明する」という連載記事を英字紙に発表。おそらく量子力学的説明だろうと思う。

6月23日 アデールと協議離婚成立。最後はスイス領事館への通告のみで終結。アデルは遺産となった3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算した。

ここでも桑原は徹底してマンローの酷薄ぶりをアピール。アデルからは年に数回便りがあったが、マンローは無視。どうにかして離婚出来ないか、そればかり考えていた。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。道庁の仲介にてマンロー夫妻は札幌に出向き面会。その後洞爺湖・有珠方面をめぐり二風谷に戻る。

6月30日 木村チヨと正式に結婚(マンロー74歳、チヨ52歳)。谷は知り合いの弁護士を紹介するなど積極的にかかわる。

7月 この年二風谷にアイヌ家屋調査に入った北大工学部の鷹部屋福平がアぽなし訪問。桑原は敵意に近い反感を顕にしているが、これはチヨの気持ちを反映したものなのか。

7月 論文「アイヌ/むかしといま」が完成。

夏 この年は軽井沢にゆかず、二風谷での研究に専念。マンローは地元民に、二風谷に結核療養所やスケート場を建設する構想を語る。マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。

9月 遺言書を書く。

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     マンローと千代

1938年(75歳)
3月 「ヤイクレカラパ/老アイヌの祈りの言葉」を発表(“Man” Vol38 No3)

4月 イタリア人人類学者のフォスコ・マライニイが、日伊交換留学生として北大解剖学の児玉研究室に着任。二風谷に赴きマンローの指導を受けた。(このとき26歳)

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌの結婚式の記事が掲載される。

7月 セリグマンあての書簡 「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」と、書物への意気込みを語る。いっぽう生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

夏 この年も軽井沢に赴かず。

9月 報知新聞でマンローの経済的苦境が報道される。北海道庁は救済計画を立てたが実現せず。

10月 不仲だったバチェラーが、姪を伴い二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。マンローは切除術を施行。これを機に両者は和解。

10月 アイヌで「マンローはスパイだ」とのデマが発生。マンローは警察に調査を依頼。

1939年

1月 日東鉱山の従業員が「マンローはスパイだ」とのデマを流布。マンローは警察に調査依頼。
二谷から谷への手紙。
最近、先生が二風谷でスパイのデマを撒き散らされている。その源は大方奥のシャモの酒売り店の者と思うが、善良なるウタリ内までその口車に乗せられて、失礼なデマを振り撒いている。(「酒売り」は、火事で仲のこじれた、かつての家主だとされる)
2月 マライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

76歳となったマンロー、自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考え各方面に相談。しかし邸宅は平取村長や日高支庁などの配慮にもかかわらず買い手が見つからなかったという。釧路新聞は「コタンを去るアイヌ博士を救え!」と救援活動を呼びかける。

4月 マンローから谷あて書簡。二風谷では道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲っているようなので気が重い。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。

7月 第二次近衛内閣が成立。

8月 軽井沢で診療。京都の佐伯義男医師が来訪し、考古学・人類学に関する執筆を依頼。これは近衛文麿の援助のもとで日本語で出版する企画であったが、時局の変化により実現せず。

10月 札幌に戻る。北大北方文化研究室で「アイヌの宗教の祈祷・躯疫」講演。医学部解剖学の児玉教授が司会、工学部の鷹部屋教授がマンロー紹介を行う。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

39年 イギリスにおけるマンローの理解者であり、庇護者であったセリーグマン、アフリカで現地調査中に客死。

1940年(77歳)

岩波書店社長の岩波茂雄、マンローの、アイヌ無料診療と人類学への貢献に対し感謝金1千円を贈る。

北大工学部の鷹部屋福平、「毛民青屋集」を著す。この間にマンローの知己を得、58年の『橋のいろいろ』という本の「マンロー先生」という 1 章で回想されている。

先生は旅費を負担し各地のアイヌ古老を呼びよせた。そしてアイヌの風俗習慣は勿論、宗教から天文・数理・彫刻・刺繍・狩猟など細大もらさず聴かれた。それらの話のうち、少なくとも複数のアイヌが一致する言葉のみを著述にうつした。
中でも傑出した役割を果たしたのが二谷国松で、マンローは「私の百科事典」と賞賛していた。
老人達はアイヌ語だが中年以下の人々はほとんど日本語を使うようになり、チヨが東北訛りの強い日本語を英語に通訳してマンローに聞かせた。

1940年の二風谷
    1940年(昭和15)の二風谷集落図 鷹部屋福平の作成したもの
家屋1
家屋2
図3の方は旧土人保護法に基づく資金援助を受けた改良住宅である。手前の坂がマンロー坂と思われる。

夏 軽井沢に出張診療。この夏は特に多忙だった。「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた子の手当。78歳の男には限界です」と書き記す。
「病院関係者はほとんど日本人になったが、皆親切だ。来年もまたきてくれという」谷あて書簡

軽井沢からの帰り、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。

1941年
 
1月 血尿が認められるようになり、腰の部分のしこりにも気づく。

5月 北大医学部付属病院を受診し腎臓と前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。

10月 診療困難となり二風谷に戻る。チヨ夫人の他に高畠トク、岡田久医師、規久枝嬢が同行。

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

12月 診療を断念、臥床するようになる。福地医師が定期診察を行う。

毎夏の軽井沢出張診療の報酬だけで経済を支え、無料診療を続け、春までの食料の他一銭もない極貧の中で生涯を終った。(桑原千代子

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

1月 健康が優れず、ほぼ病床に伏す(谷の年表)

セリグマンへの手紙: 戦争が始まってから、私の仕事にたいして驚くような豹変振りが続いている。
私が日本国民であること、貧しい人びとに無償で医療を施してきたこと、そして誰にも無害な人物というのがいままでの評判だった。しかし今、そんなことは何の価値もない。

3月 衰弱が進行。岡田医師が応援に入る。

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

死亡前、マンローは後事を鷹部屋に委ねた。家屋敷その他は一括売却された形になっている。記念館として保存したいという意向もあったので、チヨ夫人はすべてを預けたのではないか。その際に預けたのか売却したのかという行き違いはあったかも知れない。
一教授の私費で屋敷を維持するのはそもそも不可能だ。しかし当時としてはそれ以外に道はなかった。さらに鷹部屋は戦後まもなく九州大学に移っており責任を取りにくい立場にあった。
鷹部屋がマンローのことを真剣に考えていたことは疑いない。彼は高畠トクとのインタビューも行っている。桑原の高畠情報は基本的には鷹部屋から得ていたようだ。

4月14日 マンローはアイヌ・プリ式の葬儀を希望していた。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。しかし実際は、聖公会平取教会で函館教会前川司祭の進行で行われた。

遺体は遺言に従い火葬された。遺骨の一部は軽井沢に、他は二風谷のトイピラの丘に埋葬された。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。


軽井沢には妻のチヨの手で墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 イヨマンテのオリジナル・フィルムは、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきた。

マンローは邸とアイヌ関係資料の管理を北大の鷹部屋福平に託した。桑原によれば、鷹部屋は生活に窮しマンロー邸を資料ごと売り払った。(桑原は鷹部屋と面識があったが、この件で裏はとっていない。鷹部屋はマンローに深く関わっており、

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、セリグマンの妻で編集者であるブレンダにより「Ainu Creed and Cult」として出版される。マンローがつけた表題「AINU Past and Present」は採用されなかった。後から加えた2章もカットされた。ブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

1946年 伊福部宗男がマンロー邸で病気療養。この間に長男達が生まれたとされる。同じ建築学関係の鷹部屋が貸していたのであろう。伊福部家は秀才揃いで、宗男の弟がゴジラの昭。

1958 転売を重ねた末、競売にかけられるが買い手はつかず。

1962 ロンドンで「アイヌ:信仰と儀礼」と題する遺稿集が出版される。 

イギリス大使館員のフィゲス、英国文化振興会長のトムリン、競売にかけられたマンロー邸を私費で買い取る。

1965年 戦後転売を重ね、廃屋となっていたマンロー邸が競売に出される。英国大使館の関係者が私費で購入した。

65年 フィゲス、トムソンの訴えに日本人有志も協賛し、「マンロー記念館」設立計画が始まる。地元にも協力会が設立され、主治医の福地医師が会長、二風谷の貝沢正・松太郎が副会長となる。

65年「イヨマンテ」の35mmポジプリントが「発見」される。東京オリンピア映画社が、熊送りの儀礼部分を中心に再編集し、『イヨマンデ 秘境と叙情の大地で』を制作。
映画冒頭
                映画の冒頭
65年 朝日新聞の北海道版にマンロー顕彰運動についての詳細な記事が掲載される。死因等不正確だが、はじめて多くの人に存在を知らせた。

65年末 話は一転。マンロー邸が北大に寄贈されることとなる。三笠宮立ち会いのもとに寄贈式が行われる。

1966年 北海道大学北方文化研究所二風谷分室および文学部二風谷研究室として整備される。
館の管理にかかわった北大事務職員の出村文理は、2006年に「ニール・ゴードン・マンロー博士書誌」を出版。

1969年 伊福部宗男(伊福部昭の兄)が「沙流アイヌの熊祭り」を発表。マンロー没後、邸宅内の資料は鷹部屋福平が管理していたことを明らかにする。貝澤正は、鷹部屋がマンロー館と資料ともども8000円で売り払ったと証言。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去(89歳)。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。チヨは、マンローの死後も軽井沢で婦長として働き、老後は神戸で送った。
マンロー夫婦の旧墓
           マンロー・チヨ夫妻の旧墓

マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…
なお墓碑銘に並ぶ桑原千代子さんはマンローの熱心な紹介者だった。

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