醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  735号  涼しさやほの三日月の羽黒山(芭蕉)  白井一道 

2018-05-19 12:58:13 | 日記


 涼しさやほの三か月の羽黒山  芭蕉



 芭蕉らが羽黒山に詣でたのは六月三日である。この三日の三と「ほの三か月」の三が掛詞になっている。後年、芭蕉は羽黒山に詣でたのはいつだったかなぁーと、記憶を尋ねたとき、「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を思い出し六月三日だったと思い当たる。
俳句は期日の入ったスナップ写真である。写真を見て過去を思い出し、当時を懐かしむ。そのような作用が俳句にはあるようだ。
 六月三日は現在の七月十九日、暑い盛りである。羽黒山の標高は四百十四mであるから高い山ではない。現在、2446段の石段になっている。元禄時代にはきっと今のような石段は無かったにちがいない。山伏が登る険阻な小道がつづいていたことだろう。この山伏が通る山道を辿って羽黒山に芭蕉らは登った。杉の大木が連なる小道は涼しかった。杉の大木の間からほのかに三か月が見える。このような景色を詠んだものと思う。「涼しいことよ。三日月が鬱蒼たる木々を通してほのかに見えるこの羽黒山中にいると、涼しさがま 
ことに快く、霊域の尊さもしみじみと感じられることだ。」このように久富哲雄は鑑賞している。同じように萩原恭男もまた「夕方の山気が身にしみて快い。ふと見上げると、ほんのりと三日月が黒々とした羽黒山の上にかかっている。」このように鑑賞している。
 以上のような鑑賞に対して長谷川櫂は次のように鑑賞する。「夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そんな景色の中にいると、心の中まで涼しくなるようだ。『ほの三か月の羽黒山』は眼前の景、この景と『涼しさや』という心の景との取り合わせである」。この「涼しさや」とは芭蕉が肌で感じたものではなく、心で感じたものだと言っている。
 私も長谷川櫂の鑑賞の方がより深いように思う。理由は以下のようなものである。芭蕉は初め「涼風やほの三か月の羽黒山」と詠んでいる。なぜ芭蕉は「涼風や」ではなく、「涼しさや」にしたのかということである。「涼風や」だと杉林の間から吹いてくる風を肌で感じたことになる。この風は夕暮れの疲れを癒す快い風。芭蕉が表現したかったことは羽黒山の厳粛な静かさなのだ。肌で感じる風の快さでは神聖な尊さが表現できない。夕暮れの風の快さでは田の道を歩き疲れた体を癒すものと変わらない。芭蕉が表現したいと思ったことは羽黒山の夕暮れの神聖さ、尊さだった。だから「涼風や」ではだめなのだ。「涼しさや」と言えば心の世界を表現できると気がついたのだ。「涼しさやほの三の月の羽黒山」と詠むことで羽黒山の夕暮れの厳粛さ、静かさが表現できたと、芭蕉は満足した。
「古池やかわず飛び込む
水の音」と同じように「かわず飛び込む水の音」は現実に芭蕉が聞いたかわずが飛び込む水の音である。この音と心の中の「古池や」とを取り合わせることによって深みのある世界が表現できた。同じように「涼風や」を「涼しさや」と詠むことによって芭蕉は山道を歩き疲れた夕暮れの涼しい風に癒されたことではなく、羽黒山の夕暮れの神聖な厳粛さと静かさに旅の疲れの癒しとともに表現できたと芭蕉は思ったのではないかと思うのです。