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信友国際特許事務所 所長 角田芳末のブログ

このブログは私が何かにつけて感動したり、
気になったりしたことを人に伝えるコーナーです。

付与前特許異議申立制度の思い出

2012-08-05 09:55:45 | インポート

 付与前の特許異議申立制度が付与後の異議申立制度に変わったのは、確か平成7年であったと思う。私は平成6年4月に2年間研究開発官として出向していた工業技術院から特許庁に戻った。

 すでに、付与後異議にすることは、日米合意でもあり、残念ながら戻す術はなかった。付与前異議制度がなくなることに一抹の寂しさがあったが、これも時の流れかと思った。私だけでなく、付与前異議制度を是としていた多くの審査官も諦めムードになっていたと思う。

 その頃、日本の特許出願件数は急増しており、特許庁もたくさんのバックログ(滞貨)を抱えていた。だから、異議の審査自体が、通常出願の処理の遅れにつながっていたことは事実であったと思う。アメリカは異議制度を審査を遅らせる制度として攻撃してきたのである。

 私は平成9年から、審査第五部(現在の特許審査第四部)の映像機器の審査長に就任した。ここでは、私が審査官時代と審査長時代に行った異議の審査についていくつか紹介したい。私が映像機器の審査長になったとき、部屋(審査室)のロッカーには、異議審査待ち案件が大量にあった。異議決定は、公告決定した審査官が行うのが最も効率的かつ効果的であるという私の考えには変わりがない。しかし、その頃の審査官には、新願のバックログの処理におわれていた。

 当時の審査室映像機器の担当技術は、テレビ技術とファクシミリ技術であった。画像通信、画像処理技術がメインであり、私が長年、審査官としてやってきた分野のものだから、私にも異議決定はできると思った。

 審査長としての日常の仕事の合間に、私は異議事件の書類を読んだ。家に持ち帰って読んだことも多い。私は映像機器の審査長をやっている期間中に100件程の異議決定をした。すべて、テレビとファクシミリに限られるのであるが面白い事例もあった。ひとつだけ、異議決定ではない変わった解決手段をとったことがある。

 A社のファクシミリの実用新案登録出願の公告決定に対して、B社から異議申し立てがあった事件である。証拠は、B社製品の設計図とその公知性を証明するための証人尋問の申請である。異議決定をするためには、証人尋問が不可欠であった。仮に、証人尋問に設計図の公知性が証明されたとしても、本件のクレームに記載されているものが設計図とが同じものであるかどうか、あるいは設計図に記載された事項から当業者が容易にクレームされた発明に到達できるのか否かの判断も微妙な事件であった。

 担当課の異議係りに聞いたところ、証人尋問ができるのが約1年後になるという。審査長という立場で1年間も待っていられない。そこで、「和解?」という方法を考えた。裁判所でも和解による解決が多いと聞く。だから、異議決定においても和解による解決があっても良いのではないかと考えたのである。まず、B社(異議申立人)の代理人を呼んでこのように聞いた。「A社が御社(B社)に権利行使をしないことを保証したら、御社は異議申し立てを取り下げることは可能ですか?」と。B社の代理人は、「A社がB社に権利行使をしないことを約束してくれれば、異議を取り下げてもよい。」と言った。それから、私は日を改めてA社(出願人)の代理人を呼んで次のような話をした。「B社(異議申立人)は、A社が権利行使しないならば、異議を取り下げてもよいと言っていますが、御社(A社)は異議申立人B社に対して権利行使するつもりですか。」と。

 出願人A社は、異議申立人B社に対して権利行使するつもりはないと言った。ただ、アジアへの輸出をしているので、日本で登録にならないと困るというのである。私は、和解文案をA社とB社に示し、双方の社長印を付した覚書を作った。これで一見落着した。

 審査長時代に私が行った約100件の異議決定は、私が特許の実務家として立つ上で極めて意義のあるものであった。今、裁判所で特許の無効が判断されるようになり(特許法104条の3)、出願人は特許をとっても権利行使するのを不安に思う状況になっている。そうであれば、付与前異議のような制度を復活させ、特許庁レベルで有効性の高い権利、つまり、簡単には潰すことができない権利を設定することが必要ではないか。(平成24年8月5日)


『付き』も実力

2011-09-14 05:01:49 | 人生

◆ゴルフをしていて思うことがある。良い時と悪い時の差が余りにも大きいことだ。私もたまには100を切る。しかし、ちょっと調子が狂うと120近くまで行くことがある。実力は違わないはずだから、20打の違いは『付き』の違いとしか言いようがない。野球の選手も同じだ。ある日すばらしいピッチングをした投手が、次の登板では「ぼろ負け」することがある。何故だろう。理由を知っている人がいたら教えてほしい。

◆9月10日、11日の2日間、私は日本女子プロゴルフトーナメントの観戦に行った。事務所のお客様から4日間の観戦チケットをいただいたからだ。トーナメントは、市原市のキングフィールズゴルフクラブで行われた。電車で内房線の五井駅に行き、そこから送迎バスで30分。バスに乗るギャラリーの行列に驚いた。

◆今まではテレビ観戦のみであったが、実際に現地で見るプロの技は感動ものだった。ただ、ラフに入るとプロといえどもミスの連発だ。たった10cmでも、ラフとフェアウェイの違いは選手にとって天国と地獄ほどの違いになる。4日間を通してアンダーパーは4人しかいなかったから、このコースの難しさが想像できる。そんな中で、最終日最終組で回った三塚優子選手が3打差を逆転して優勝した。

◆4日間のプレイだから、上位に来る選手の実力は拮抗している。だから、誰が優勝してもおかしくない。三塚選手の優勝には、女神(霊?)が「付いていた(憑いていた)」といった方が説明できる。いや、そう言わないと説明できない。17番ホール(パー5)では、第2打が曲がり、あと10cm転がっていたら、三塚選手のボールは『池ポチャ』だった。ソールができない状態から打った第3打がグリーンにオンした。3オン(パーオン)である。台湾選手の追い上げにあったが、1打差(6アンダー)で優勝。日本女子プロゴルフの歴史に名を残した。他の選手ではなく、三塚選手に「勝利の女神がほほ笑んだ」のである。

◆『付き』(幸運)はどこから来るのか。日露戦争のとき、大日本艦隊司令長官に東郷平八郎が任命された。任命の理由を聞かれた海軍大臣だった西郷従道は、『あの男は運がいいから』といったそうだ。『付き(幸運)』が集まる人は、何かが違うように思う。もちろん『運』を呼ぶための努力も欠かせない。ただ、人知では計り知れない『付き』が人を幸せにしたり、不幸にしたりするのかもしれない。(平成23年9月13日)


中国の知財事情

2011-07-10 21:06:52 | 日記・エッセイ・コラム

◆先日、中国の特許事務所の弁理士さん2名が事務所に来られて、中国の特許審査への対策についての話をしてくれた。中国特許庁からの拒絶理由通知にどう対処したらいいかということは、われわれ日本の弁理士も頭を悩ますところである。先生ご自身が取り扱ったいくつかの具体例を挙げて話してくれたのでとても参考になった。

◆また、無効審判請求のときの特許性(進歩性)の判断と特許審査のとき(拒絶理由を書くとき)の進歩性の判断(審査基準)に多少違いがあるようだと言っておられた。特許審査のときは、ある程度大雑把に拒絶の論理づけをするが、無効審判の審理では、いったん特許したものを拒絶するので幾分拒絶するハードルが高いようである。

◆中国の特許出願、実用新案出願、意匠出願については、2000年に3法で17万件であったものが、2010年には122万件に達したという。まさに、指数関数的に増加している。内訳は特許が39万件、実用新案が41万件、意匠が42万件とのこと。中国の特許庁SIPO(State Intellectual Property Organization:国家知識産権局)の長官は、2015年には3法合わせて200万件にすると言っているらしい。中国の勢いは止まらない。

◆これに対して、日本の出願は5年連続して減少しているとの発表があった(6月29日日本経済新聞)。日本の多くの企業が日本出願を減らして、米国、中国、および他の新興国に出願する傾向にある。今後のマーケットが日本よりも米国、中国、インド、ブラジル、ロシアなどの国にシフトしていることが原因になっていることに要因があるようだ。

◆日本企業は、日本の経済を牽引する最も重要な機関である。小資源国の日本は、知的財産で勝負するしかない。これらの企業が日本で開発した技術をベースとして、海外で勝負できるような知的財産環境を作っていくことが望まれていると思う(平成23年7月10日)。


知財作家への道(1)・・・特許人生の始まり

2011-06-06 04:23:12 | 人生

◆私の人生は、1972年4月を契機に、大きく変化しました。実験に明け暮れていた2年間の生活とは、打って変わり、規則正しいサラリーマン生活が始まったからです。仙台から東京に出てきた印象は、「空気がきたない」でした。折しも工場排水や煤煙などの公害が社会問題となっていたときで、東京の空気も例外ではなかったのです。その意味ではこの40年間の間に東京の空気は見違えるようにきれいになったと思います。

◆特許庁の配属先は、審査第五部電子応用という部屋(審査室)でした。私はそこで、「テレビジョンの同期」という技術分野の審査を担当することになります。大学院の2年間は、プラズマ物理の研究をしていたので、テレビ技術は、私にとって全く新しい技術でした。恥ずかしい話ですが、テレビがどうして映るのかも、完全には説明できなかったのですから。

◆このときから、審査官になるための私の修行が始まりました。先輩から紹介されたテレビ技術の本を徹底的に読みました。新しい技術でも本を読み進むうちに、だんだんとわかってきます。技術がわかってくると面白くなってくるのです。特許庁の審査部は4年間審査官補として、審査官の指導を受けながら仕事をします。起案した文章も徹底的に直されます。資料館(当時「万国工業所有権資料館」といいました)に入ってアメリカの特許明細書を複写し、審査のための資料としたこともあります。当時はまだ、テレビ技術では、米国企業が日本企業より先行していた時代でした。外国からの出願は、審査の処理件数でも、日本の出願の4件分にカウントされていたのです。恐らく、外国出願は、日本の出願に比べてページ数が多く、難しいと考えられていたせいかもしれませんが、今では、考えられませんね。

特許庁に入る前の私は、研究者希望でした。大学での進学(博士課程)をあきらめ、就職を決断した私は、国の研究機関への就職を望んだのです。大学4年のときに力試しで受けた公務員試験が3年間有効だったからです。結果は悲惨でした。私が希望した国立の研究機関は、全て私を受け入れてくれませんでした。唯一、滑り止めに受けた特許庁だけが拾ってくれたのです。これは、今思うと幸運でした。結果論ですが、特許庁は私にとって最もふさわしい職場であったからです。

◆今になって思うと、なくなった父が、「お前には研究職は向かないから、特許庁の審査官になりなさい」と言って、研究職への就職の道を閉ざしてくれたのかも知れません。かくして、私は特許庁にお世話になることになりました。これが私の特許人生の始まりです。

◆少し長くなりますが、これから、私が今まで経験してきたこと、そして今後どのような弁理士を目指していくかということ、更に特許にかかわる若い技術者、弁理士の皆さんにどのように伸びていってほしいかということを、このブログで書いていきたいと思います。(平成23年6月6日)


事務所移転を機に

2011-05-30 04:10:44 | 日記・エッセイ・コラム

◆今日(平成23年5月30日)から新しい事務所で仕事をすることになりました。同じ笹塚ですが、駅からの距離は少し近くなります。特許庁をやめて事務所に来てから、3回目の移転になります。今までの移転は、事務所の経費削減を主たる目的にした移転でしたが、今回の移転は、どちらかというと良い環境を求めての移転です。事務所の面積も少し増え、駅からも近くなり、経費もやや安くなります。

◆今、東日本大震災の影響で、この夏の節電が叫ばれており、企業体として積極的に節電に協力することが必要です。事務所も例外ではありません。オフィスのエアコンも午後6時には止まります。猛暑をどう乗り切るか、皆で知恵をだすことが求められています。私も、これを機に、生活パターンを変えていくことにします。早く出社して早く帰る。そして、これにより作ったアフターシックスの時間を自己研鑽に使う。今、そんなことを考えています。

◆事務所を法人化(特許業務法人)してから2年8月が経過しました。法人にしたことで、社員の中に自分たちの会社というイメージが醸成されて来たと思います。事務所の責務は、質の良い仕事をできるだけ早くお客様に提供することです。お客様が喜んでくれない限り、事務所の存続は難しいでしょう。そのためには、社員の心が一つにならなければいけません。皆が心を一つにして世の中の変化に積極的に適応していくことが事務所の発展につながっていくものと信じます。

◆ブログも今回のコラムからスタイルを変えてみました。文体を「ですます」調にしてみました。今までは特別なタイトルを付けて気がついたことを書いてきたのですが、忙しくなると更新を怠ってしまいました。何人かの人から、「ブログが更新されていませんね」と言われたことがあります。これからは、日記帳てきなスタイルにして、私が経験したことなどを含めて、皆さまに紹介していきたいと思っています。(平成23年5月30日)