吹く風ネット

沖縄ベイブルー(1)

 今月の15日で、沖縄は本土復帰50年を迎える。
 あれから50年、その当時ぼくは中学3年だった。その日は確か月曜日だったと思うが、学校は半ドンになり、早く帰ったのだった。
 家に帰ってからすることもないので、親戚の家に遊びに行った。親戚の家に着くと、テレビで沖縄返還の特集をやっていた。

 その頃、ぼくが沖縄について知っていたことは、沖縄戦と屋良主席と琉球飴のことだけだった。
 琉球飴は、ぼくが小学生の頃テレビでよくCMが流れていた。「琉球飴は夢の味♪」というCMソングとともに、男の子と女の子の画が出てくるのだが、その画は戦前の雑誌に載っているような、古臭い子供の画だったのを憶えている。

 沖縄返還特集で、「これからは、パスポートなしで沖縄に行けるようになりますね」と言っていた。それを聞いて、「沖縄に行きたい」と、その時ぼくは思った。それが現実になるのは、それから16年経ってからである。

 初めて沖縄に行ったのは、昭和63年だった。社員旅行で行ったのだ。この時を含めて社員旅行は、3年続けて沖縄だった。

 ぼくは、初めて那覇空港に降りた時から、沖縄に魅せられてしまった。沖縄特有の匂い(ハイビスカスの香り?)と風土が気に入ったのである。そこに、なんとなく懐かしさを感じたものだった。

 しかし、初っ端から、沖縄の嫌な面を見てしまった。ちょっとした事件があったのだ。
 その出来事というのは、沖縄旅行最初の日に那覇市内で起こった。その日、空港から観光バスに乗り、首里城跡(当時)に行った。首里城跡を見学し、その後、ひめゆりの塔、真武仁の丘、玉泉洞、ハブ博物公園などを回ってから、宿泊地の那覇東洋ホテルに着いた。

 小休止して、夕方からお決まりの宴会が始まったのだが、宴会が終わったら、ぼくは那覇一番の歓楽街である松山に行こうと思っていた。そこにある民謡酒場に行きたかったのだ。
 そこには「もしかしたら、喜納昌吉に会えるかもしれない」、という密かな期待があった。
 宴会が終わってから、昼間いっしょに行動した人(二人)に「松山に行こう」と声をかけ、外に出た。

 さて、そうは言ったものの、松山がどこにあるのかわからない。とりあえず、タクシーに乗り込み、「松山に行って下さい」と言った。
「お客さん、沖縄は初めてですか?」
「はい」
「言っとくけど、松山は高いよ」
「そうなんですか?」
「ぼくが安いところを知ってるから、よかったら案内するよ」
「でも、松山で行きたい所があるんやけど」
 すると、誘った二人が
「しんた、せっかく案内してくれるんやけ、最初にそこに行こうや。松山は後で行けばいいやん」と言った。

 結局、他の二人に押し切られて、行き先は運転手に任せることにした。
「そこは、安いよ。5000円ぽっきりよ」ぼくはふてくされていたので、それに答えなかったが、他の二人は、
「本当ですか!よろしくお願いします」などと、運転手に相槌を打っている。

 5分ほど走って車は止まった。運転手が、そこにいた呼び込みの兄ちゃんに、
「兄ちゃん、ここは5000円よねえ」と聞いた。兄ちゃんは、
「はい、5000円です! それ以上はいただきません」と答えた。
 ぼくたちはタクシーを降り、店の中に入った。そこはただのパブでだった。
 事件はそこで起きた。

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