それから幾日が過ぎた、ある昼下がりでございました。
わたくしは縁側に立ち、庭を何気なく見ておりました。あの夜の件以来、庭に出て花を手入れしたり、楽しんだりと言う事が少なくなりました。どうしても、あの井戸に目が行ってしまうからでございました。わたくしは溜め息を一つつきますと、部屋へと戻ろうと致しました。
「おお、相変わらず美しい花々ですなぁ」
聞き覚えのある声が致しました。振り返って庭を見ますと、あのお坊様が、庭の花を見ながら立っておいででした。また裏木戸が開いていたのでございましょうか。お坊様のお姿が見えた途端、わたくしは不機嫌になりました。思い返せば、お坊様が井戸の事に触れなければ、わたくしはいつもと変わらぬ日々を送ることが出来ていたのでございます。ばあやをはじめ、家の者に当たる事も無かったのでございます。
「……何の御用です?」自分でも、これはと思うような、冷たい声でお答えしたのでございました。「花など、放っておいても咲くものです」
「……ほう……」
お坊様は呟かれるようにおっしゃいましと、わたくしの方にからだをお向けになりました。
お坊様は、相変わらず薄汚れたお姿でございました。被っている穴の開いた網代笠の前を古びた錫杖で持ち上げ、じっとわたくしを見ていらっしゃいます。その目がすっと細められました。わたくしもお坊様を見つめておりました。自分でも険しい表情になって行くのが分かりました。
「……お嬢さん、気を付けなさい」お坊様は目を細めたままでおっしゃいます。「前にあげた、護符は持っているかな?」
「護符……?」
わたくしは、あのようなものを持っていたが故に、此度のような忌まわしい事実を知らねばならなくなったと信じ、腹立たしく思ったのでございました。とは言え、破り捨てるほどの胆力も無く、目につかぬ処と言う事で、護符は部屋の手文庫にしまっておりました。
「……その様なもの、すでに忘れました」
わたくしの答えに、お坊様は錫杖を網代笠から外されました。お顔が隠れました。
「そうかい……」お坊様の声は重く暗いものでございました。「何があったのかは知らんが、くれぐれも気を付けることだ」
お坊様はそうおっしゃると踵を返して庭から出て行こうとなさいました。ふと、その足が止まりました。そして、井戸の方を見ておいでのようでございます。やはり、井戸に何かを感じ取っていらっしゃるようでございました。
「どうかなさいまして?」わたくしは、努めて平然とした声でお坊様に申しました。ではございますが、発せられた声は冷たいものでございました。「もう、お帰り下さいまし。ここは部外の者が入れる処ではございませぬ」
お坊様は、改めて、わたくしに向き直られました。網代笠をの前を上げる事はございませんでした。
「最初にお会いした時と、真逆になられましたなぁ……」お坊様は呟くようにおっしゃいました。「お嬢さんの父上のままですなぁ……」
わたくしはお答えいたしませんでした。青井の家を忌まわしく思うてはおりますれど、青井の家の秘密を、決して他人に触れさせてはならぬ、守り通さねばならぬ、そう思うたのでございます。これは、わたくしの、このからだに流れる青井の血が、そうさせるのではございますまいか……
「……まあ、それも良いか……」
お坊様は独り言のようにおっしゃいました。網代笠で見えないお坊様のお顔に、何が浮かんでいるのかは、知る由もございませぬ。
「ですがな、お嬢さん……」お坊様は続けておっしゃいました。「決してあの護符を失くすんじゃないよ。もし失くしたのならここにあるが……」
お坊様は左の袂をお振りになりました。
「いえ、結構でございます。失くしたわけではございませぬ」わたくしは申しました。「ただ、持っているのが嫌なのです」
「……そうかい」
お坊様はそうおっしゃると、聞いた事のないお念仏を短く唱え、庭から出ておいでになりました。
つづく
わたくしは縁側に立ち、庭を何気なく見ておりました。あの夜の件以来、庭に出て花を手入れしたり、楽しんだりと言う事が少なくなりました。どうしても、あの井戸に目が行ってしまうからでございました。わたくしは溜め息を一つつきますと、部屋へと戻ろうと致しました。
「おお、相変わらず美しい花々ですなぁ」
聞き覚えのある声が致しました。振り返って庭を見ますと、あのお坊様が、庭の花を見ながら立っておいででした。また裏木戸が開いていたのでございましょうか。お坊様のお姿が見えた途端、わたくしは不機嫌になりました。思い返せば、お坊様が井戸の事に触れなければ、わたくしはいつもと変わらぬ日々を送ることが出来ていたのでございます。ばあやをはじめ、家の者に当たる事も無かったのでございます。
「……何の御用です?」自分でも、これはと思うような、冷たい声でお答えしたのでございました。「花など、放っておいても咲くものです」
「……ほう……」
お坊様は呟かれるようにおっしゃいましと、わたくしの方にからだをお向けになりました。
お坊様は、相変わらず薄汚れたお姿でございました。被っている穴の開いた網代笠の前を古びた錫杖で持ち上げ、じっとわたくしを見ていらっしゃいます。その目がすっと細められました。わたくしもお坊様を見つめておりました。自分でも険しい表情になって行くのが分かりました。
「……お嬢さん、気を付けなさい」お坊様は目を細めたままでおっしゃいます。「前にあげた、護符は持っているかな?」
「護符……?」
わたくしは、あのようなものを持っていたが故に、此度のような忌まわしい事実を知らねばならなくなったと信じ、腹立たしく思ったのでございました。とは言え、破り捨てるほどの胆力も無く、目につかぬ処と言う事で、護符は部屋の手文庫にしまっておりました。
「……その様なもの、すでに忘れました」
わたくしの答えに、お坊様は錫杖を網代笠から外されました。お顔が隠れました。
「そうかい……」お坊様の声は重く暗いものでございました。「何があったのかは知らんが、くれぐれも気を付けることだ」
お坊様はそうおっしゃると踵を返して庭から出て行こうとなさいました。ふと、その足が止まりました。そして、井戸の方を見ておいでのようでございます。やはり、井戸に何かを感じ取っていらっしゃるようでございました。
「どうかなさいまして?」わたくしは、努めて平然とした声でお坊様に申しました。ではございますが、発せられた声は冷たいものでございました。「もう、お帰り下さいまし。ここは部外の者が入れる処ではございませぬ」
お坊様は、改めて、わたくしに向き直られました。網代笠をの前を上げる事はございませんでした。
「最初にお会いした時と、真逆になられましたなぁ……」お坊様は呟くようにおっしゃいました。「お嬢さんの父上のままですなぁ……」
わたくしはお答えいたしませんでした。青井の家を忌まわしく思うてはおりますれど、青井の家の秘密を、決して他人に触れさせてはならぬ、守り通さねばならぬ、そう思うたのでございます。これは、わたくしの、このからだに流れる青井の血が、そうさせるのではございますまいか……
「……まあ、それも良いか……」
お坊様は独り言のようにおっしゃいました。網代笠で見えないお坊様のお顔に、何が浮かんでいるのかは、知る由もございませぬ。
「ですがな、お嬢さん……」お坊様は続けておっしゃいました。「決してあの護符を失くすんじゃないよ。もし失くしたのならここにあるが……」
お坊様は左の袂をお振りになりました。
「いえ、結構でございます。失くしたわけではございませぬ」わたくしは申しました。「ただ、持っているのが嫌なのです」
「……そうかい」
お坊様はそうおっしゃると、聞いた事のないお念仏を短く唱え、庭から出ておいでになりました。
つづく
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