blog-鹿苑

鹿の覚書

辻褄

2010-09-22 | 覚書
理論とは、辻褄のあうもの。

しかして真とは一切の理論をもってしても辻褄の合わぬもの

その真を解するためにその辻褄の合うところの理論を用いる

常に真はそれを解する人のための論とは隔絶されたものではあるが

とはいえ、そもそも辻褄の合わぬ論ではその架け橋にもならない。

生成

2010-08-19 | 覚書
インタヴュアー:チェリビダッケさんあなたは「音」と「音楽」という言葉を使い分けていらっしゃいますが、つまり両者は別物であって、なお活動時に依存し合っているというわけでしょうか。

チェリビダッケ:音なき音楽などは存在しない。しかし、音楽自身にとって、静止した存在状態などはあり得ない。だから「音楽とは何か」を定義することはできないし、この問いに答える事などできはしない。
 音は音楽になることはできるが、だからといって「音楽とは何か」を言うことはできないのだ。ある一定の条件の下で音は音楽へと生成することができる。この「生成する」という点が決定的なのであって、音楽にとっては生成する事だけが全てなのだ。音楽は生成し、生成し、そして決して何らかの存在形式に至る事なしに、ついには消え去ってしまう。
 考えてもみたまえ、いったいどこにベートーヴェンの交響曲第5番が存在しているだろうか?レコードの上に?スコアの中に?否、スコアなどというものは、漠然とした音の集合の中で、どちらに進めば音楽体験に至れるかの方向性を示してくれる単なるドキュメントに過ぎない。
 とはいえ、この音楽への入り口に到達できるためには、知識や伝統といったあらゆる過去のしがらみから身を解き放ってやらなければならない。およそ創造的な行為とは、伝統だの知識だの経験だのといった言葉とは全く無縁のものなのだ。なぜなら、これら諸々のしがらみは過去に関係するものばかりだが、音が音楽へと生成する現場はまさしく今ここに生きている「現在」なのだから。
 したがって、スコアーというものは基本的に演奏とは何の関係もない。なぜなら、演奏の現場で初めて何かが生成するのであって、たとえその曲をそれまでに三百回演奏していたとしても、その点に変わりはないのだから。
 この「初めて」生まれるという事態が生じないとしたら、その創造行為は本物でもなければ真実でもない。それは単に記憶をたどって音を鳴らしているだけの話になってしまう。
 音楽を演奏する上で何より大切な課題は、全てを忘れてしまうことなのだ。「この先どう音楽が進むかだって?見当もつかないよ!どう進んで行くか、まあ見てみようぜ」というのが正しい。
 音楽の「美」などという段階を乗り越えられない限り、音楽の事はなにも分かっていないのだ。音楽は「美」ではない。もちろん音楽は美しくもある。しかし音楽にとって美とは単なる餌にしか過ぎない。音楽は「真」なのだ。

『評伝チェリビダッケ』305ページより
(改行鹿苑の鹿)

シンパイとココロクバリ

2010-07-29 | 覚書
今起きていない

将来起きて欲しくない、あるいは起きて欲しい出来事のような

どちらにしろ手を触れることができない領域にある物事に

翻弄されるとしたら

そんな心配(シンパイ)はきっと鬼が笑うだろうが


今現在、そんな鬼が笑う領域にある物事を洞察し

それを意向とし、今できる事を行うのならば

それは心配り(ココロクバリ)となり、鬼も黙るだろう。


鹿苑の鹿



イチブトゼンブ

2010-06-09 | 覚書
我々の耳に届く物事

眼に留まる物事

触れる事のできる物事

その全ては世界の一部である。

それらをつないで世界を再統合するような不合理で不遜な行いではなく

それらを通じて源を洞察し原点を生きるような行いでありたい。

ルール

2010-05-19 | 覚書
我々の全てのものの見え方は

暗黙領域の中の自身に属するルールに基づく

必要なのはそのルールが適正かどうか問う事

ところが人にはそのルールを用いてそのルール自体を問う事はできない

気をつけなければならない

考えてそのルールを問う事はできない

考えはそのルールに基づいているから


まるでかごの鳥のように、虚偽のゲームのようなそのルールが作った状況設定の中でそれを見るのではなく

まるで生活のような、自身のルールとは関係なく存在する真に迫った現実のなかでただ耳を澄ませる事

修養すると言うなら、そのルール自体を問うためにこそその修養行為を借りる事

学問すると言うなら、そのルール自体を問うためにこそその学問を借りる事

訓練すると言うなら、そのルール自体を問うためにこそその訓練行為を借りる事

そうでなければ、新たな知識を得たという以外何もないかも知れない。

都合の良さ

2010-05-13 | 覚書
行いに潜む自身の都合の良さ

その都合の良さが与える世界観

その世界の僅かなひずみから

自身の都合の良さに気付きその世界を脱するのだ

自己を開放せよ!

知る事

2010-03-11 | 覚書
たとえば

バランスが取られている状態を知った事と

そのバランスを維持しようと関わる事は

錯誤に満ちたあまりに飛躍した行いではないだろうか


既にバランスは取られており

それを発見しただけだとすれば

我々がそのバランスの働きを生かすためにできる関わり方は

それを押しとどめ

それに似たものを繰り返し行うのではなく

そのすでにバランスが取られていた世界へ向かうより他無いのではないだろうか


知る事は

しなくてはならない事を生み出すのではなく

知る事は

その前提としてそうなっていた世界があるはずであり、それを活かすためにこそ機能する

そもそもそれがなくては知る事はできなかったはずなのだから。


感覚界

2010-03-10 | 覚書
感覚を通じて知りえるのだが

感覚界に住するべきではない

分別して理解するのだが

分別界に住するべきではない

それを通じて感じ得た

それを通じて理解し得た

生命界

其処を充分に生きたいものだ

差別

2010-03-01 | 覚書
差別

事象に存在する差異を理解する「差別」がある

ところがその分別する端緒となる「差」というものが、自らに住する問題に起因した「差」である場合

自他ともに有害な毒ともなろう

差別する対象を見ているようでその実、己の問題をそこに重ね見ているのであれば

問題は対象ではなく自身にあることになる。

概念化

2010-02-25 | 覚書
感性に浮かび上がる

何かの姿を概念化してとらえる事は

澱みにはまるように

新たなものを見られなくなる事も起きうるが


それを用いる事で

既に存在する澱みを洗い出し

新たなものを見出して行く事もできるだろう


そこを大地として踏み切るか

道標として宙に浮かべておくのか

そんな違いがあるのだろう。