インタヴュアー:チェリビダッケさんあなたは「音」と「音楽」という言葉を使い分けていらっしゃいますが、つまり両者は別物であって、なお活動時に依存し合っているというわけでしょうか。
チェリビダッケ:音なき音楽などは存在しない。しかし、音楽自身にとって、静止した存在状態などはあり得ない。だから「音楽とは何か」を定義することはできないし、この問いに答える事などできはしない。
音は音楽になることはできるが、だからといって「音楽とは何か」を言うことはできないのだ。ある一定の条件の下で音は音楽へと生成することができる。この「生成する」という点が決定的なのであって、音楽にとっては生成する事だけが全てなのだ。音楽は生成し、生成し、そして決して何らかの存在形式に至る事なしに、ついには消え去ってしまう。
考えてもみたまえ、いったいどこにベートーヴェンの交響曲第5番が存在しているだろうか?レコードの上に?スコアの中に?否、スコアなどというものは、漠然とした音の集合の中で、どちらに進めば音楽体験に至れるかの方向性を示してくれる単なるドキュメントに過ぎない。
とはいえ、この音楽への入り口に到達できるためには、知識や伝統といったあらゆる過去のしがらみから身を解き放ってやらなければならない。およそ創造的な行為とは、伝統だの知識だの経験だのといった言葉とは全く無縁のものなのだ。なぜなら、これら諸々のしがらみは過去に関係するものばかりだが、音が音楽へと生成する現場はまさしく今ここに生きている「現在」なのだから。
したがって、スコアーというものは基本的に演奏とは何の関係もない。なぜなら、演奏の現場で初めて何かが生成するのであって、たとえその曲をそれまでに三百回演奏していたとしても、その点に変わりはないのだから。
この「初めて」生まれるという事態が生じないとしたら、その創造行為は本物でもなければ真実でもない。それは単に記憶をたどって音を鳴らしているだけの話になってしまう。
音楽を演奏する上で何より大切な課題は、全てを忘れてしまうことなのだ。「この先どう音楽が進むかだって?見当もつかないよ!どう進んで行くか、まあ見てみようぜ」というのが正しい。
音楽の「美」などという段階を乗り越えられない限り、音楽の事はなにも分かっていないのだ。音楽は「美」ではない。もちろん音楽は美しくもある。しかし音楽にとって美とは単なる餌にしか過ぎない。音楽は「真」なのだ。
『評伝チェリビダッケ』305ページより
(改行鹿苑の鹿)