1年ちょっとくらい前から記事(詩吟芸人、続・詩吟芸人、天津効果は+30%)にしていたけれど、その後もなかなか勢いの衰えることのないお笑い芸人(というカテゴリーでいいのだろうか。よくわからないので)・天津の木村卓寛。
http://news.livedoor.com/article/detail/4042595/
http://journal.kizasi.jp/2009/03/post-b105.html
彼の活躍のおかげで、「詩吟」という言葉も、「詩吟」とはどのようなものであるかということも、随分と広まったはず。
「詩吟」をキーワードにブログ検索なんかしてみても、ほとんど彼のこと。あるいは、彼の『詩吟』。たまぁに普通の詩吟の記事なんかが混ざっている感じで、もう+30%どころではないように思う(面倒なので、今回は調査してないけど)。
私の実生活でも、私が詩吟をやっていることを知っている友人から、「天津木村のアレ、本当に詩吟なのか?」と何度か確認を求められた。
(個人的見解になるけど)確かに、「吟詠」という詩吟の方法論は用いている。だから、形式的には「詩吟」だ。だけど、いわゆる「詩吟」とは違う。外形じゃなくって、中身で判断して、そのように考えてしまうのだろうか。(そうなると、むかし我々が「笑っていいとも」で吟じたものも、「詩吟」かどうかあやしくなるよなあ……)。
いわゆる「詩吟」というのは、「詩歌等を吟詠すること」であって、詩吟師範代という天津木村の吟が「詩吟」の吟であることに間違いがないとすれば、この「詩歌等」の部分の解釈次第で、天津木村の『詩吟』がいわゆる「詩吟」なのかどうか、判断が分かれることになるのだろうと思う。
さて、今回、問題にしたいのは天津木村の『詩吟』が、いわゆる「詩吟」と同じかどうかということではない。
天津木村の『詩吟』は、
(1)「吟じます」という宣言
(2)3句からなる「あるあるネタ」の吟詠
(3)「あると思います」といった締括り
――という構成からなっていて、通常、絶句で2分近くかかる「詩吟」をネタの披露にうまく活用した彼の着眼・手法に関しては、大いに評価できると思うのだけれど、一方で、この『詩吟』のおかげで、いわゆる「詩吟」に対する誤解が広まっているのではないかという懸念もある。
つまり、このような構成からなる芸=「詩吟」、あるいは、3句からなる「あるあるネタ」=詩吟、という誤解が広まっているのではないか、という懸念だ。
実際に、後者については、すでに、「詩吟」と称して自作の3句からなる「あるあるネタ」を紹介するブログ記事も多い(数えてみる?)。たいてい、各句末に「~~~~~~」なんて付してあるから、吟詠されるべきものであることは意識されているのであろうが、どうも、短歌や俳句といった詩歌の形式と同種のものとして、「詩吟」が理解されているような気がしてならない。
「詩吟」の本質は、詩歌の形式にあるのではなく、「吟詠」という方法論にあると考えているので、『詩吟』の内容については特段の見解はないのだけれど、こういう誤解はどうにも気持ちが悪く、落ち着かないのだ。
《雛
》
#なんかまとまらないなあ。
http://news.livedoor.com/article/detail/4042595/
http://journal.kizasi.jp/2009/03/post-b105.html
彼の活躍のおかげで、「詩吟」という言葉も、「詩吟」とはどのようなものであるかということも、随分と広まったはず。
「詩吟」をキーワードにブログ検索なんかしてみても、ほとんど彼のこと。あるいは、彼の『詩吟』。たまぁに普通の詩吟の記事なんかが混ざっている感じで、もう+30%どころではないように思う(面倒なので、今回は調査してないけど)。
私の実生活でも、私が詩吟をやっていることを知っている友人から、「天津木村のアレ、本当に詩吟なのか?」と何度か確認を求められた。
(個人的見解になるけど)確かに、「吟詠」という詩吟の方法論は用いている。だから、形式的には「詩吟」だ。だけど、いわゆる「詩吟」とは違う。外形じゃなくって、中身で判断して、そのように考えてしまうのだろうか。(そうなると、むかし我々が「笑っていいとも」で吟じたものも、「詩吟」かどうかあやしくなるよなあ……)。
いわゆる「詩吟」というのは、「詩歌等を吟詠すること」であって、詩吟師範代という天津木村の吟が「詩吟」の吟であることに間違いがないとすれば、この「詩歌等」の部分の解釈次第で、天津木村の『詩吟』がいわゆる「詩吟」なのかどうか、判断が分かれることになるのだろうと思う。
さて、今回、問題にしたいのは天津木村の『詩吟』が、いわゆる「詩吟」と同じかどうかということではない。
天津木村の『詩吟』は、
(1)「吟じます」という宣言
(2)3句からなる「あるあるネタ」の吟詠
(3)「あると思います」といった締括り
――という構成からなっていて、通常、絶句で2分近くかかる「詩吟」をネタの披露にうまく活用した彼の着眼・手法に関しては、大いに評価できると思うのだけれど、一方で、この『詩吟』のおかげで、いわゆる「詩吟」に対する誤解が広まっているのではないかという懸念もある。
つまり、このような構成からなる芸=「詩吟」、あるいは、3句からなる「あるあるネタ」=詩吟、という誤解が広まっているのではないか、という懸念だ。
実際に、後者については、すでに、「詩吟」と称して自作の3句からなる「あるあるネタ」を紹介するブログ記事も多い(数えてみる?)。たいてい、各句末に「~~~~~~」なんて付してあるから、吟詠されるべきものであることは意識されているのであろうが、どうも、短歌や俳句といった詩歌の形式と同種のものとして、「詩吟」が理解されているような気がしてならない。
「詩吟」の本質は、詩歌の形式にあるのではなく、「吟詠」という方法論にあると考えているので、『詩吟』の内容については特段の見解はないのだけれど、こういう誤解はどうにも気持ちが悪く、落ち着かないのだ。
《雛

#なんかまとまらないなあ。

今度の4月に何人くらい新人さんが来てくれるかで、
エロ詩吟の(詩吟研に対する)「功」の部分を測ることができるかもしれません。
去年より来てくれる人が有意に増加しているとすれば、
(というか、そうあってほしいのですが)
自分自身は、
「さすが天津木村様々だ」
となっちゃってもよいと考えています。
論点がズレていることは承知の上でのコメントでした。すみません。