2004年卒業の逸見那由子さんは、現在、朝日新聞社で紙面構成の仕事をされています。
入社後5年間は地方総局で報道記者として様々な取材を担当、現在でも時には記事を執筆したりもしています。
過日、朝日新聞の2面に掲載された逸見さん執筆の記事を添付しておきます。
「交通事故で記憶障害、だけど吹く感覚は体が覚えていた」
逸見さんが本校に在学した3年間、私は現代国語の授業を担当しました。
私の記憶に残っている逸見さんとの思い出があります。
ある日、彼女に尋ねられました。
「先生、先週の○曜日の朝日新聞、捨てずにとってありますか?」
当時、朝日新聞の衛星版を購読していた私は、読者からの投稿、「声」の記事を思い出しました。
「先週の〜についての『声』の記事だろ?」
「なぜ分かるのですか?」
「那由子が興味を持ちそうな内容だと思って読んでいたからだよ。」
後日、その『声』の切り抜きを彼女に渡した、という些細なできごとですが、
しかし、彼女との思い出に朝日新聞が絡んでいるということ、
そしてその教え子が今、朝日の記事を書いているということ、
それらの事実に何か不思議な縁を感じますし、また、国語教師として大変喜ばしい思いです。
逸見さんにお話を伺いました。
本校での3年間で得たことは、
「世の中に正しいといえる答えはない」
そのことを肌で学んだことなのだそうです。
「高校1年生だった2001年9月11日、アメリカ同時多発テロを教室のテレビで見たときの衝撃は今も忘れられません。英語圏出身の先生たちが涙を流す姿に悲しみと、テロに対する怒りがこみ上げました。その一方で『報復』として始まったイラク戦争は『正しい』といえるのか悩みました。KLに1日遅れで届く朝日新聞を食い入るように読むようになったのもその頃です。『答えがない』からこそ、まずは自分とは違う人の意見に耳を傾けることが大切なのだと言い聞かせるようにしていました。」
「今はインターネットでキーワード検索すれば、なにかしら『答え』が手に入る時代です。でも、取材現場に『答え』はありません。どれだけ取材を尽くしても新聞は『事実』の記録に過ぎず、『答え=真実』ではありません。今担当している紙面制作の現場でいえば、記事の大きさや見出しを決める、これもどれが正しいということはなく、日々の暮らしや世の中の関心にどう寄り添い表現すべきなのか、日々悩みながらの作業です。何事も正しいと決めつけずに仕事をする姿勢はKL時代の延長線上にあるように思います。」
英語圏出身の教員が担当する授業(English as a Second Language = 第二言語としての英語 = 「ESL」 の授業、と呼びます)でのディスカッションやディベートで「解決策」を考える訓練がたくさんできたことも今の仕事に役立っている、と逸見さんは言います。
「例えば、地方にいたころ、人口減やマイカーの普及で路線バスの廃業が相次いでいることを取材したことがありました。バス会社も経営赤字で苦渋の決断だったのですが、運転のできないお年寄りや学生は生活の足を失ってしまいます。そこで市は乗り合いタクシーを導入したのですが、今度はタクシー会社が経営を圧迫していると市に訴えました。結局、市は予算からタクシーの割引券を配ることで収束を図りました。
こうした動きをまとめる中で、記者の私も問題点を整理し、ほかの自治体の事例や識者の意見を紹介することで、解決策を読者とともに考える紙面づくりを意識しました。限られた予算の中で市民全員が満足し、幸せになれるような政策をつくるのは難しいけれど、幸せの最大公約数を広げる努力ができることこそ政治の醍醐味だと思います。スケールの大きさこそ違いますが、永田町で日々繰り広げられる議論も同じことです。KL時代には、寮という小さなコミュニティの中で仲間と些細なことでぶつかり合うこともありましたが、同時にどうすればうまくやっていけるか自然と考える習慣が身につきました。それも今の肥やしになっていると思います。」
「新聞社の仕事は、新しい発見や歴史の瞬間に立ち会える面白さがあります。新聞を囲んで議論が深まったり、弱い立場の人に光が当たったり、立ち止まっている人の一歩を後押しできたら。そんな願いを託せることにやりがいも感じます。
ただ、きれいごとばかりではありません。記者1年生の時、火災現場で燃える民家にカメラを向けていた時、高校生くらいの女の子に背後から、
『人の不幸撮ってんじゃねぇよ』
と言われて立ちすくんだことがありました。
事件の遺族や福島で故郷を追われた方々の話をうかがいながら人の心に土足で上り込むような自分が嫌になったこともあります。力不足で取材が記事にできなかった反省もあります。それでも仕事を続けたいと思うのは、取材で出会った人たちから託された思いや勇気に時間がかかっても、形を変えてでも、報いたいから、そんな思いがあります」
逸見さんの高校時代の思い出は、決して楽しいことばかりではなかった、彼女はそう語ります。
「KL時代、私は決して成績が良かったわけではありません。勉強は頑張っていたつもりだけど英語のレベルも普通。MUNやエクスチェンジ、ミュージカルに応募しても選ばれたこともなく、同級生が羨ましく、悔しい気持ちもありました。さらに、ブラックジャックに憧れて(彼は無免許ですが)医者になりたかったけれど、受験に失敗する挫折も味わいました。だから、正直に言えばKLは苦い思い出も多く、行って良かったと思えたのは少し大人になってからです。だからこそ、試合に負けた悔しさに涙を流す高校球児に自分を重ねたり、逆境に負けずに頑張る子たちを心から応援したくなったりするのかもしれません。
人生は思う通りにいくことばかりではないし、ときに理不尽なこともあるのだと知りました。幸せや成功の形も人によって違うし、何でも手に入っているように見えて実は苦しんでいる人もいるんですよね。それこそ、人生には答えがないから先を描く楽しさがあり、不安になる日もたくさんあります。闘うべきはまわりの評価ではなく、自分自身。くじけそうになった自分を一番励ましてくれるのも、KL時代を含めたこれまでの自分自身です。あのときがあったから今があるんだなって。最近、やっと心から言えるようになった気がします。」
逸見さんは、本校での体験を上記のような素晴らしい日本語で語ってくれました。
スイス・レザンは、戦前、結核患者の療養地として発展した場所。
スイスの山脈の「山の端」から、毎朝降り注ぐ朝日を浴びてすがすがしい1日が始まる土地です。
そんな「朝日のあたる場所」で出会った教え子が、
「朝日」で活躍している。
こんなに素晴らしい日本語の使い手として社会で活躍している。
国語教師としてこれ以上ない喜びを感じているのであります。
入社後5年間は地方総局で報道記者として様々な取材を担当、現在でも時には記事を執筆したりもしています。
過日、朝日新聞の2面に掲載された逸見さん執筆の記事を添付しておきます。
「交通事故で記憶障害、だけど吹く感覚は体が覚えていた」
逸見さんが本校に在学した3年間、私は現代国語の授業を担当しました。
私の記憶に残っている逸見さんとの思い出があります。
ある日、彼女に尋ねられました。
「先生、先週の○曜日の朝日新聞、捨てずにとってありますか?」
当時、朝日新聞の衛星版を購読していた私は、読者からの投稿、「声」の記事を思い出しました。
「先週の〜についての『声』の記事だろ?」
「なぜ分かるのですか?」
「那由子が興味を持ちそうな内容だと思って読んでいたからだよ。」
後日、その『声』の切り抜きを彼女に渡した、という些細なできごとですが、
しかし、彼女との思い出に朝日新聞が絡んでいるということ、
そしてその教え子が今、朝日の記事を書いているということ、
それらの事実に何か不思議な縁を感じますし、また、国語教師として大変喜ばしい思いです。
逸見さんにお話を伺いました。
本校での3年間で得たことは、
「世の中に正しいといえる答えはない」
そのことを肌で学んだことなのだそうです。
「高校1年生だった2001年9月11日、アメリカ同時多発テロを教室のテレビで見たときの衝撃は今も忘れられません。英語圏出身の先生たちが涙を流す姿に悲しみと、テロに対する怒りがこみ上げました。その一方で『報復』として始まったイラク戦争は『正しい』といえるのか悩みました。KLに1日遅れで届く朝日新聞を食い入るように読むようになったのもその頃です。『答えがない』からこそ、まずは自分とは違う人の意見に耳を傾けることが大切なのだと言い聞かせるようにしていました。」
「今はインターネットでキーワード検索すれば、なにかしら『答え』が手に入る時代です。でも、取材現場に『答え』はありません。どれだけ取材を尽くしても新聞は『事実』の記録に過ぎず、『答え=真実』ではありません。今担当している紙面制作の現場でいえば、記事の大きさや見出しを決める、これもどれが正しいということはなく、日々の暮らしや世の中の関心にどう寄り添い表現すべきなのか、日々悩みながらの作業です。何事も正しいと決めつけずに仕事をする姿勢はKL時代の延長線上にあるように思います。」
英語圏出身の教員が担当する授業(English as a Second Language = 第二言語としての英語 = 「ESL」 の授業、と呼びます)でのディスカッションやディベートで「解決策」を考える訓練がたくさんできたことも今の仕事に役立っている、と逸見さんは言います。
「例えば、地方にいたころ、人口減やマイカーの普及で路線バスの廃業が相次いでいることを取材したことがありました。バス会社も経営赤字で苦渋の決断だったのですが、運転のできないお年寄りや学生は生活の足を失ってしまいます。そこで市は乗り合いタクシーを導入したのですが、今度はタクシー会社が経営を圧迫していると市に訴えました。結局、市は予算からタクシーの割引券を配ることで収束を図りました。
こうした動きをまとめる中で、記者の私も問題点を整理し、ほかの自治体の事例や識者の意見を紹介することで、解決策を読者とともに考える紙面づくりを意識しました。限られた予算の中で市民全員が満足し、幸せになれるような政策をつくるのは難しいけれど、幸せの最大公約数を広げる努力ができることこそ政治の醍醐味だと思います。スケールの大きさこそ違いますが、永田町で日々繰り広げられる議論も同じことです。KL時代には、寮という小さなコミュニティの中で仲間と些細なことでぶつかり合うこともありましたが、同時にどうすればうまくやっていけるか自然と考える習慣が身につきました。それも今の肥やしになっていると思います。」
「新聞社の仕事は、新しい発見や歴史の瞬間に立ち会える面白さがあります。新聞を囲んで議論が深まったり、弱い立場の人に光が当たったり、立ち止まっている人の一歩を後押しできたら。そんな願いを託せることにやりがいも感じます。
ただ、きれいごとばかりではありません。記者1年生の時、火災現場で燃える民家にカメラを向けていた時、高校生くらいの女の子に背後から、
『人の不幸撮ってんじゃねぇよ』
と言われて立ちすくんだことがありました。
事件の遺族や福島で故郷を追われた方々の話をうかがいながら人の心に土足で上り込むような自分が嫌になったこともあります。力不足で取材が記事にできなかった反省もあります。それでも仕事を続けたいと思うのは、取材で出会った人たちから託された思いや勇気に時間がかかっても、形を変えてでも、報いたいから、そんな思いがあります」
逸見さんの高校時代の思い出は、決して楽しいことばかりではなかった、彼女はそう語ります。
「KL時代、私は決して成績が良かったわけではありません。勉強は頑張っていたつもりだけど英語のレベルも普通。MUNやエクスチェンジ、ミュージカルに応募しても選ばれたこともなく、同級生が羨ましく、悔しい気持ちもありました。さらに、ブラックジャックに憧れて(彼は無免許ですが)医者になりたかったけれど、受験に失敗する挫折も味わいました。だから、正直に言えばKLは苦い思い出も多く、行って良かったと思えたのは少し大人になってからです。だからこそ、試合に負けた悔しさに涙を流す高校球児に自分を重ねたり、逆境に負けずに頑張る子たちを心から応援したくなったりするのかもしれません。
人生は思う通りにいくことばかりではないし、ときに理不尽なこともあるのだと知りました。幸せや成功の形も人によって違うし、何でも手に入っているように見えて実は苦しんでいる人もいるんですよね。それこそ、人生には答えがないから先を描く楽しさがあり、不安になる日もたくさんあります。闘うべきはまわりの評価ではなく、自分自身。くじけそうになった自分を一番励ましてくれるのも、KL時代を含めたこれまでの自分自身です。あのときがあったから今があるんだなって。最近、やっと心から言えるようになった気がします。」
逸見さんは、本校での体験を上記のような素晴らしい日本語で語ってくれました。
スイス・レザンは、戦前、結核患者の療養地として発展した場所。
スイスの山脈の「山の端」から、毎朝降り注ぐ朝日を浴びてすがすがしい1日が始まる土地です。
そんな「朝日のあたる場所」で出会った教え子が、
「朝日」で活躍している。
こんなに素晴らしい日本語の使い手として社会で活躍している。
国語教師としてこれ以上ない喜びを感じているのであります。
