人間は「役割」を作る生き物なんだなと思う
何者でもないただ生きているだけの人は世捨て人と
区別でなく差別する世の中が一般的な考えが今の世界かなと思う
その生き方は物心ついた頃から知らずうちに誰もが教わってきたことだし
そうしないと生きていけない世界だからそれが悪いわけでも
良いわけでもなくそんな世の中だという事実が今私の目の前に繰り広げられている
その役割を作り出す考え自体が自我であり思考という
知的に作り出した幻想であることもわからず
今まで生きてきたし
愛(神)からの分離でこの世は二元性で成り立ち自我が唯一の正しい存在である
そういうものだと思って当然生きてきた
しかし私の病気はどうしても
自分の内面が「違う」とても大事なことに
「気づけ気づけ」と合図を送っているようにか思えなくて
ここ最近特に内面と向き合い続けている自分がいるので
自分の気づきのためにこれを書いている
自我は愛からの分離で作られるとすると
思い返すと私の「全体の愛」からの分離は小4で
音楽センスがあったためピアノを弾いていれば
人と比べられず自然体でいられると思ったから
小学校4年生でプロになると決心したのだった
何者でもない者 から 得意な音楽を鎧にして「愛」から自立し
私の役割を作って安心したつもりだった
つまり「自我」が出来上がった瞬間だったのだ
自我(思考)はなんでも自分一人で解決しないといけないと思うから
愛から分離していったことに気づかないまま必死に足掻いて生きてきて
自分という主人公として陶酔して演じてきたように感じる
自我が確立してそこから人間関係が生まれて
目の前で繰り広げられる「現実世界」が私に投影されてきて
時間という世界の中で人生と呼ばれる過去ができていった
華々しいと呼ばれるようなこともあったり
出会いも別れもあったり
今はパーキンソンでピアノが弾けなくなり
体がピアノを取り上げたということは
私自身がピアノが嫌いという意味ではないかと考えたりもしたが
やはり音楽は今も好きだ
これは断言できる
でもそんな好きな音楽を「怖れ」から鎧にしていたということを
今真の私に認めここに手放します
怖かったのだ
比べられることが
怖かったのだ
音楽がないと人から愛されないのではないかと思ったから
要するにありのままの誰でもない自分でいることが怖かったんだ
それを無意識に幼い自分が自我を守るために
傷つかないために必死で守っていたのだったことにやっと気づいた
自我=身体=心
自我はとっても怖がりで臆病 強がりだけどとっても可愛いんだな
ただ 気づいた今も病気として現れ
私の自我が今とても抵抗していることがわかる
その自我としての最後の武器が体という制限の象徴であるからこそ必死に妨害してくる
本当の安心感が心の内側に「愛」として存在する奇跡を起こす意識が誰にもあるのに
そこに行かせないように 怖れや罪悪感 痛み悲しみ苦しみとして
リアルな現実を感じさせ阻んでくる
気づきの直前は特に症状がひどくて私の場合は緊張から固縮してくる
なぜなら絶対的な安心な世界には自我は生きれないから抵抗するのだろう
でも本当は
愛はすぐそこにある
そして私が音楽家であろうともなかろうとも愛されていた
ということが意識を変えるとわかる
私自身が何者でもなく役割もなく愛そのものだったということも
それをわからせるために真の私(自我ではない全体の愛そのもの)が
鎧だったときづかせるためにピアノを弾けなくさせているのではないかとも思う
(そこまで苦しまないと気づくことができないから)
心の内側にある絶対的な安心な世界は
全体的な愛そのものしかなくて
その意識に繋がれるようにだいぶなってきたのだけど
どうしても歩けなかったり弾けなかったりすると
絶対的に安心な意識からすぐ遠のいてしまい
意識が戻っていくことを自我が阻んでしまう
今ここの自分が行ったり来たりしている
自我に気づけただけ真の私に近づいてきているのかな
今思うのは
その現実が現れていることに問題だと焦点を当てるのではなく
自我の分厚い殻の奥に絶対的な安心領域な神の愛とも呼べる観音扉とも呼べる場所が微細に光っていて
そこの意識の領域から物事を見ると時間差で現実世界が変わってくると言うのがこの世の真実であると信じきることが、私が生まれてきた曇りのない鏡である本来の私に戻る時なのかなと
だから自我がどれだけ反抗しようとも、私はその観音扉が開いた非二元性の愛の視点から、なるべく物事を見るように過ごしていこうと思う
そんな今日この頃