私の身の周りの人間を秤にかけたとき、
どういうわけか家を出ていない人間の方が多いことに気付く。
実家を出ていても、徒歩五分圏内だとか。
とかく親元を離れたがらない人間の方がどういうわけか多い。
彼らの言葉は大抵こうだ。
「お金がたまる」
「理由がない、必要性を感じない」
「親がいろという、いて欲しいと願っている」
確かに正論だと思う。事実、そのとおりだ。
だが、これは価値観の違いなのだろうと思うのだが、
「それでも」と思う部分が私にはある。
生まれ育った土地には、少なからず親が築いた世界と言うものが存在することを知った。
その中にいる間には、その世界の存在を目視することが難しいことを知った。
どれほどのことを親にしてもらい、どれほどのことを自らしていなかったのかを知ったし、
親が作り出した世界は狭く、本当の世界は恐ろしく、そして希望に満ちて広いことを知った。
人間は成長を続けられる生き物だと信じている。
ではその成長はどの段階で起こるのかと考えた時、
おそらく〝そうなのだろう〟とあいまいに知識として知っている段階を超えて、
実体験として〝思い知った〟時に、それを糧にして人は成長できるのではないだろうか。
親に全てを与えてもらっていた時には気づくことができなかった世界の広さ。
目をつぶっていても気がつくと選り分けられていた、ある種偏った人間関係の中では出会えなかった種類の人間。
そういったものと接し、感じ、〝思い知る〟そのための理由で、
離れてくれない親を圧して自ら離れ、
無駄金と知りつつ賃貸金を払う生活をする。
そういうことなのではないか、と最近は感じている。
重ね重ねだが、これは価値観の違いだと思う。
こうして血肉になった経験や体験が、どこへ結びつくのかはわからないし、
それこそそんなもののために無駄な金を使い続けた、と思う日が来るかもしれない。
事実、私とは違う道を選んでいる人たちの言葉も正論だと感じる。
私自身、サイトに掲載している小説
『契約の旅人』第四章では、
願っても望んでも、〝そのようにしか生きられない〟人間たちの姿を描いているが、
そういう場合だってあるだろう。
だからこれは一人、暮らしてみて六年目を迎えた私の価値観が考え、
感じているものであることを付け加えておく。
無論、一人暮らしはいいことばかりではないし。