晴天下 秋桜

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ああ、熱原の三烈士(二)

2020-07-01 19:37:35 | 小説

【十一】

今迄、我慢に我慢を重ねてきた、神四郎、弥五郎、弥六郎三兄弟をはじめ熱原の信徒たちは、ここに至って、ついに堪忍袋の緒が切れた。持ち合わせの鍬や鎌を持って彼らに挑戦した。百姓といっても戦乱時代の農夫、一旦緩急あるときは合戦場に借り出され、死闘を繰り広げてきただけの腕力はあり、ましてや神四郎はなかなかのつわもので武術も心得があり、小勢ながら獅子奮迅の働きでした。 「おのれ、憎きは行智め、いまこそ年来の恨みを果たしてくれん。お前たちの手で殺された弥四郎の仇打ち、四郎房の敵討ち。法華折伏の利剣の切れ味を見せてくれん」 群がる敵を向こうにまわし、神四郎の鍬は縦横無尽に暴れ飛び、大活躍であった。 馬から転げ落ちた大進房。大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱(ひょうえのじょうときつな)共々落馬した。これが原因で後日、苦しみながら三人とも憤死する。
「大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか」(聖人御難事)
「大進房阿闍梨(だいしんぼうあじゃり)の事なげかしく候へども、此れ又法華経の流布の出来すべきいんえん(因縁)にて候」(曽谷との御返事)と大進房は日蓮大聖人の門下の長老であったが反逆し、熱原の法難の落馬が原因で亡くなったがその死を傷み嘆いている。

 

【十二】

大奮闘を期してのこの戦いも多勢に無勢、二十名の信徒たちは力尽き残らず召し捕らえ、鎌倉の政所に拘束されることになりました。
その夜、滝泉寺の境内は各所から集まった暴徒たちの勝ち誇った宴(うたげ)が盛大に始まり、行智の居間では主だった面々が顔を寄せ、今日の後始末をどうしたものかと策謀を計っていた。政所の役人の入れ知恵と兼ねて行智らが示し合わせていた筋書きを重ねて、鎌倉の問註所に訴状を書いた。その訴えは、次のように認めていた。「今月二十一日、下野坊日秀は武具を付けて馬に乗り、弓や矢を身につけて、数多くの者たちを誘い出し、院主の分である滝泉寺の中に打ち入り、熱原の農民の紀次郎は立て札を立て、領分の稲を刈り取り、日秀の住居に運び込むように指示をした。」 これらの乱暴を防ぐのについに喧嘩となり、多数の負傷者と死者を出しました。早く乱暴者を捕らえ、法に照らして御成敗下さるよう、お願いしまう」と、まったく逆なことを幕府へ、弥藤次が訴訟人となって告訴したのです。
 行智らの訴状は全くのでたらめである。日秀は行智から不当に住坊を追われ、身を寄せる住居もない身であるから、いったいだれが日秀らの立て札を用いるだろうか。また立場の弱い土地の農民たちが、わざわざ日秀らに雇われることがあろうか。従って日秀らが弓や矢を身に付けて悪の所行を企てたのであれば、行智といい、近隣の人々といい、どうして弓矢を奪い取り日秀らの身を召し取って、事の次第を言わないということがあろうか。これらの申し立ては偽りの至りであり、よろしく御賢察いただきたい。と、反論して訴えました。

 


【十三】

寺を追放され住む場所もない日秀がどうして滝泉寺内の稲を刈りと持ち帰ることが出来よう。考えても分かる嘘偽(うそいつわ)りの訴状をそのまま取り上げ、鎌倉より召し取り役人が大挙して熱原に出向いて来て、神四郎など二十人を稲泥棒と騒乱罪の重罪人として捕縛していきました。
このときの熱原の法難を耳に入れた「名越の尼(名越遠江守朝時の妻)・少輔坊・能登房等は、欲ふかく、心おくびょうに・愚疑にして、而も智者となのりし、やつばら(奴原)なりしかば・事のを(起)こりし時、たよ(便)りをえて・おほ(多)くの人を、お(落)とせり」とある。これによれば所領屋敷を没収されることを恐れて、信仰を捨てたばかりか、大聖人門下の多くを誘って退転させたようである。「はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ」とも嘆かれている。
この事件を目前にした、日秀、日弁の心痛は一方ならず、腸(はらわた)は煮えくり上がり、急遽、日興上人の許に使いを遣(つか)わし、事件の詳細を報告した。大いに驚かれた日興上人は早速、加島(かしま)の高橋六郎衛入道(ひょうえにゅうどう)宅を本部として、主だった人々が寄り合って対策を協議した。 これより上野(うえの)の南条時光、西山(にしやま)の大内(おううち)、河合(かわい)の由比入道(ゆひにゅうどう)、松野(まつの)の松野六郎左衛門入道の屋敷に使いが飛んだ。富士周辺の日蓮聖人門下の人々が一魂(いちがん)となっての斗(たたか)いでした。とくに上野の大旦那といわれた南条時光の援護は日蓮大聖人が御一生のうちで一度しか用いられなかった「賢人殿(けんじんどの)」と特別な敬語に拝するがごとく、熱原の法難での大活躍ぶりはなくてはならない重大な任務をおびていた。上野殿は地方の小役人では手出しのできない地頭職であつたからです。捕らえられた二十人の家族の生活にも困らないように健全な配慮がなされ、また、捕らえられそうな農民たちを南条時光邸に匿(かくま)ったのです。身延山に居られる日蓮大聖人の御心中は如何ばかりか。一方、下野房日秀は熱原法難から身を守るために富木常忍の許に身を寄せた。

 


【十四】

 弘安二年十月十七日の酉(とり)の刻(午後六時ごろ)、日興上人のお手紙を携えた鎌倉からの急使が、身延の大聖人のもとに到着した。
日蓮大聖人は事件の詳細を認めた書状を拝読すると、遠く熱原の地で日興のもとで斗(たたか)う農民たちの姿を思い浮かべ、切れの深い大きな眼(まなこ)に限りない慈愛(じあい)と労(いた)わりを湛えられ、そして、涙をのんで全門下の人々御中(おんちゅう)へとお手紙を認められました。 「此の度こそ、どのような苦しみであろうとも大難に負けることなく信心を貫き通し、仏の境涯を価得(あたえ)させなくてはならない。もし今、大事な斗(たたか)ひに負けて退転したなら、無間地獄(むげんじごく)に墜(お)ちて苦しまなければならない」 深い大慈悲に立たれて、ご指導なされたのです。
「各々(おのおの)、獅子王(ししおう)の心を取り出(い)だして、いかに人、脅(おど)すともをずる事なかれ、獅子王は百獣にをぢず、獅子の子、またかくのごとし。彼らは野干(やかん)のほうるなり。日蓮が一門は獅子の吼(ほう)るなり」 
全国の弟子旦那等へ終始一貫(しゅうしいっかん)して団結の二字をもって御指導くだされた御書(手紙) 「聖人御難事(しょうにんごなんじ)」

 


【十五】

またこの日、日蓮大聖人は、日興上人が先に滝泉寺の訴状についてお指図を仰いでいた,捕らわれた二十人の不当な弾圧に対しての抗議文に、かれこれと修正なされて日興上人の許に、「伯耆殿御返事」として、お手紙をお返しになりました。日興上人は直(ただち)に申状案文(もうしじょうあんぶん)を滝泉寺申状と清書をなされ、日秀、日弁を従え、馬を飛ばして鎌倉に上られたのでした。鎌倉に着かれたのは十月十五日でした。すでに投獄されていた二十人の取調べに当たったのはほかならぬ平左衛門尉頼綱である。
二十人に着せられた罪状は、当時の法律(貞永式目)によれば、重罪にあたり、検断沙汰(けんだんさた・刑事事件)というのである。そのため侍所(さむらいどころ)の管轄下におかれ、ただちに二十人は鎌倉へ送られた。おそらく侍所の所司(しょし・次官)である平左衛門尉頼綱の指示であろう。
 二十人が鎌倉に着いたのは、十月の初めごろと考えられ、旧暦の十月初めは冬の気温が低く、雪は多く、寒さは厳しいものであった。土牢に閉じ込められ、食事も満足に与えられず、夜はしんしんと肌を刺す酷寒である。
 鎌倉に着いた二十人は、横暴な取り調べを受け、「法華経を捨て、念仏を唱えるという起請文(誓約書)を書けば、罪を許してやる」と威嚇されたようである。
 これに対して大聖人は、「かの大進房や弥藤次らが、行智にそそのかされて、暴行・殺傷事件を起こしたのが事件の真相である。それを、被害者側(の農民たち)が謝(あやま)って起請文を書くなどということは、『古今未曾有の沙汰』であり、いまだかつて聞いたことがない」と仰せになり、絶対に起請文を書いてはならない、と教えられている。

 十月十五日に、捕らわれた熱原の二十人が、平左衛門尉によって拷問を受けても、少しも屈しなかったため、首謀者とみられた、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人が処刑されたという報告であった。また、残りの十七人は、追放された。
この不当な処分に対して日興上人は鎌倉在家の大田乗明(じょうみょう)、富木五郎常忍、四条金吾などの強力な信者の力を集めて門駐所へ再三、再四にわたって抗議された。だがなんの効果も見えず、逆に度重なる抗訴状(こうそじょう)にますます反感をたかめる平左衛門は手負いの虎が猛りくるったように、今度は日興の命を奪おうと厳重な警戒がしかれた。
四十九院に住まいしていた日興の身辺はまさに危険が迫る。日興は日蓮大聖人の御指図を仰いで日秀、日弁を下総(しもうさ)の真間(まま)の日頂上人(にっちょうしょうにん)の許につかわす。日興・日持らもついに弘安元年、四十九院寺内を出て行くよう追放された。自らも遠江(とうとみ)の新池左衛門(にいけさえもん)の宅に身を隠さねばならなかった。
「四条金吾殿、捕らわれた熱原の信徒たちの陰ながらの外護(げご)をくれぐれもお願いします」
日興上人は後に心残りがして思い切れない気持ちで鎌倉を立たれるのでした。この弾圧は日蓮大聖人の信徒を匿う上野の南条時光にものしかかってきました。鎌倉幕府の憎しみは南条家に対して不当な課税を取り立て、乗る馬もまた妻や子においては着る着物さえないという苦境に陥し入れた。このようなより憎しみの迫害。正しいものに対しての弾圧は目まぐるしく、弘安二年は終わり、明けて弘安三年、庚辰(1280)四月八日。

 

 

【十六】


 

弘安二年、熱原法難の最中、入信間もない読み書きもできない身分の低い熱原の農民たちが、身命に及ぶ大難に遭いながら命かけて正法を信じ抜くという姿を示しました。
大聖人は、この法難に時の到来を感じられて、この年の10月12日、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされたのです。
【聖人御難事】に曰く  去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。釈尊は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつしろしめせり。
 出世の本懐とは、一切衆生を法華経によって成仏させることで、そのために仏様は世に出現されたと説かれました。釈尊は「法華経」を説かれました。天台大師は「摩訶止観」を講述されました。伝教大師は「大乗戒壇」を建立されて、人々に成仏の用途を示されて、同じように本懐を遂げられたのです。大聖人様の御本懐とは、三大秘法の意義をすべて具える本門戒壇の大御本尊様を顕わすことであり、末法万年の一切衆生を救うことです。
「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教はほヾしろしめして、いさゝかもひろめさせ給はず。当時こそひろまらせ給ふべき時にあたりて候へ」(本尊問答抄)と仰せです。

 

 

【十七】

かの竜の口で日蓮大聖人の頸(くび)を刎(は)ねんとした平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)は侍所(さぶらひどころ)の所司(しょし)の権力を笠に着て、独断で、熱原の農民20名を鎌倉に引っ立てると自邸の庭で裁判を執り行ったのである。そうして、肝心の事件に関する取調べはろくろくせずに、「お前たち、法華経の信仰を止めて念仏を唱えよ。そうすれば罪を許し国へ帰えしてやろう。あくまで信仰を改めないなら、然もなくば重罪に処す。ここ一生の大事と思い、よく考えて返答せよ!」と迫った。しかし、信仰を始めて二年余りの神四郎たちは泰然自若(たいぜんじじゃく)顔色も変えず、「わたしどもに法華経を捨てよと仰せられましても身を殺しても法を護(まも)るのが、わたしどもの本義でございます」
きっぱりと言い放ち、しかも法華経の法義を説いて逆に改宗を求めるという不敵な態度に傲慢な頼綱は烈火のごとく猛り狂った。
「ええい、だまれ、黙れ、黙れ。土百姓(どびゃくしょう)の分際(ぶんざい)で天下の役人に対し、言葉を返すとは不敵な奴。こ奴らを打て、打て!」 
蟇目(ひきめ)の矢をもって調伏(ちょうふく)せよとの命令に、十三歳の息子、飯沼判官資宗(いぬまはんがんもとむね)は鏑矢(かぶらや)を神四郎たちにめがけて、次から次へと矢を放ちはじめた。しかし、少しもひるまず、一同は声をそろえて、「南無妙法蓮華教、南無妙法蓮華教」と唱え始めた。これには、さしもの平左衛門尉頼綱も驚いて、これ以上、責めても無駄だと再び牢舎(ごくしゃ)に閉じ込めた。歪められた真実を御正道に裁こうとはせず、法華経を蛇蝎のごとく憎しみを抱き、権力で押し通そうとする。
熱原(富士市)は北条嫡流の所領(得宗領)であったゆえ、この事件の得宗被官平頼綱が裁判を執り行った。平左衛門は突然、牢獄の二十人を再び延庭(えんてい)に引き出し、今度は有無を言わさず、神四郎,弥五郎、弥六郎の三兄弟を事件の首謀者として直ちに打ち首にする旨を厳命した。
「もとより打ち首は覚悟の上、この臭き頭(こうべ)を法華経のために刎(は)ねられるならば、その果報はいかばかりか、これこそ石を黄金(こがね)に換えるもの、ああ、嬉しきことぞ、嬉しきことぞ」
「日蓮大聖人さま!」
身も心も自若(じじゃく)して、役人の前に首をさしのべたのでした。他の十七人は追放を申し渡さるが罪の軽かったことを喜ぶ者は一人もなく、三人に先を立たれたのがいかにも残念であった。
三烈士の最後よって熱原の大法難も終わりを告げたが、日蓮大聖人はこれを深く感嘆され、切れの深い眼に大慈悲と感謝の涙をいっぱいに浮かべられ、法華経に身を捧げた神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は、釈迦・多宝・十方の諸仏に護られて、寂光(じゃっこう)の宝刹(ほうせつ)に安住(あんじゅう)するであろうが、平左衛門は先に日蓮を虐げて、困難を惹き起し、その前途、末だ危きにもかかわらず、今また大罪を重ねるとは、その末路まことにあわれむべきであると予言のごとく、この後、十四年目の同じ四月八日。所も同じく、三烈士を惨殺したこの庭で、北条執権を殺して自分の息子の飯沼判官を執権に立てようと謀反をおこし、その反逆の科で一族皆殺しになりました。 

 

 

【十九】

風薫る初夏の風情を残して不自惜身命のために命を捧げ法華経流布の華と散っていった、熱原の三烈士、「ああ、熱原の 三烈士」 今も尚、宗史を飾る三烈士の物語。
無知な農民の身でありながら、ひたすら法華経を護持、いかなる難に遭うともいささかも動揺することもなく、異体同心で信仰を貫いた。師と仰ぐ日蓮大聖人が末法万年の衆生を救わんと本門戒壇の御本尊を建立される礎となった、神四郎、弥五郎、弥六郎を中心とした熱原の信仰こそが法華経の鏡ではないかと心に止めて、この項を終了します。

    
 昭和44年  木葉 照秋 作・画 
(文の一部、令和2年6月修正)



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