The Diary of Ka2104-2

形而上学のひそやかな楽しみたる嗜み

 

形而上学は、物や事へ数式やデータを付与して論証を積み重ね解を得るといった体系を取らない。

形而上学は、物象や事象、森羅万象に渉るそれらに対して疑問を投げかけ思索と論理によりその真理に辿り着こうとするまさしくその過程を示し解を目指すものの、古代ギリシアより脈々と続くこの哲学の一分野は分析の俎上に上げられ論証の対象となり分岐や収斂を迎え入れながらなお反証や反論にあい、その真理への道は先細くなってき、各項目立てで理論として整理されつつも無限ループのように、社会や科学の進歩やテクノロジーの進化に伴い新陳代謝を繰り返してきたものの考え様である。

たとえば「球」なら球を一個の世界とみなしその球を使って叙述するのだけれどその真偽のほどを巡って誰かが理論構築したなら、それはそれで異論が噴き出し、いずれが正論かがたたかわされるといったありようだ。

私が今、読んでいる「現代形而上学(新曜社)」では、次のような導入部が提示されている。以下引用。「形而上学が扱う問題を具体的に提示する前に確認しておきたいのは、形而上学の問題は、私たちがこの世界を理解するときに前提せざるをえないような、基礎的な事実について生じる問題であるということであり、更に、様々な形而上学の問題が、世界のあり方を経験的に調べるだけでは解決いないことや、相互に複雑に関連し合っているという特徴をもつことをも確かめる。こうした点は、私たちが世界のあり方を理解しようとするときに、形而上学の問題を避けられないことや、形而上学の問題には独自の難しさがあることを示すものである。続いて確認すべきは、こうした問題の解決を目指す現代形而上学とはいったいどのようなものなのかということであり、そのためにまず、現代形而上学が分析哲学の内部でどのように成立し、その結果として現代形而上学がどのような一般的傾向をもつことになったのかということであり、次に、現代形而上学が、形而上学の問題を解決するために用いる標準的な手続きや方法についての解説も与える。現代形而上学の位置づけをはっきりさせるために、それを現代の科学ーすなわち、世界のあり方を解明しようとする極めて強力な試みーと比較することも検分しよう」

形而上学は英語でmetaphysicsと云うが、この言葉とこの哲学を関連付ける意味はどこにもなく、たまたまある言い表わしが時代が下るにつれて、この哲学の名称と相成ったまでである。では、形而上(学)とは何ぞやであるが、広辞苑でも定義付けられていて、それは、時間・空間の中に形をもつ感覚的現象ではなく、超経験的で理性的思惟(しい)によってのみ認識されるような概念・対象・存在などのあり方、というものである。まさしく、形而の上であり、上述の私による記述とも併せて、これは形而上(学)的である、とかいった使い方もよくされる。

私はこの書籍をまさに大人の嗜みとして現在楽しく読んでいる所存である。

 


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