「しかし、そのほかになお一連の哲学者たちがいて、彼らは、世界が認識できるということに、あるいは少なくともあますところなく認識できるということに、異論をとなえている。そのなかにはいるのは、近代の哲学者のうちではヒュームとカントとであって、この二人は哲学の発展のうえで非常に重要な役割を演じている。このような見解を反駁するうえで決定的に重要なことは、観念論の立場から可能であったかぎりでは、すでにヘーゲルが述べた。フォイエルバッハがこれにつけくわえた唯物論的なものは、深遠というよりはむしろ才気に富んだものである。右のような哲学的妄想 ―― これにかぎらず他のすべての哲学的妄想についても同様である ―― にたいする最も適切な反駁は、実践、すなわち、実験と産業とである。もしわれわれがある自然現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させ、そのうえそれをわれわれの目的に役だたせることによって、この自然現象についてのわれわれの認識が正しいことを証明することができれば、カントの認識できない「物自体」はそれで終りである。・・・・・・・・・。それにもかかわらず、ドイツでカントの見解を新カント学派が復活させてみようとし、また、イギリスでヒュームの見解(この国ではこれは死にたえたためしがない)を不可知論者たちが復活させてみようとしているのは、両人の見解がとっくに理論的にも実践的にも反駁されているのを考えると、科学的には退歩であり、実践的には、唯物論をかげではうけいれて世間のまえでは否認する、はにかみやのやり方にすぎない。
エンゲルス「ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結」
マルクス・エンゲルス全集、第21巻、p280-281
<雑感>
カントは、人間の認識の果てにある「認識できないもの」を「物自体」と名づけたのである。エンゲルスは、カントやヒュームなどの不可知論者を「はにかみやの」唯物論と呼んでいる。不破さんの本では、「はずかしがりの」唯物論と訳されていたと記憶しているが、意味は十分に理解できるであろう。
エンゲルス「ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結」
マルクス・エンゲルス全集、第21巻、p280-281
<雑感>
カントは、人間の認識の果てにある「認識できないもの」を「物自体」と名づけたのである。エンゲルスは、カントやヒュームなどの不可知論者を「はにかみやの」唯物論と呼んでいる。不破さんの本では、「はずかしがりの」唯物論と訳されていたと記憶しているが、意味は十分に理解できるであろう。