慶応義塾大学の日吉キャンパス公開講座(10月8日)で聞いた話です。
講師は、慶応義塾大学医学部精神・神経科教室の加藤隆助教。
東京都の依頼で、精神科医療支援チームの一員として福島県相馬市に派遣されたとのこと。
現地では、被災地住民の精神科医療支援に加えて、ボランティアスタッフへの精神的ケアも行ったそうです。
講義では冒頭で、精神・神経科学とはどのようなものか、精神科の治療はどのように行うのかについて、専門用語(「了解」と「説明」)の解説や具体例を交えて話されました。
続いて、なぜ相馬市に派遣されたのかについて話題が移り、ここに明治時代から続く福島県相馬市の医療事情が影響していることが明らかにされます。
というのは、福島県相馬市には震災以前から精神科クリニック・精神科病院が存在していなかったのだそうです。
相馬市の患者は隣町の双葉町にわずかに2つある病院に通院していたものが、原発事故の影響で閉院となり、相双地区から精神科医療が消滅してしまったのです。
ということで、東京都の判断で精神科医療スタッフを相馬市に派遣することになったとのことです。
それでは何故、相馬市に精神科のお医者さんがいないのかということですが、これには明治時代の相馬事件が影響しているのだそうです。
【参考】相馬事件(ウィキペディアより)
相馬事件を簡単に要約すると以下の通り。
相馬中村藩の最後の藩主である相馬誠胤(そうまともたね、1852年9月18日 - 1892年2月22日)が精神病(統合失調症?)を発症し、異常な言動をするようになり困った家族・家令が宮内庁の許可を得て自宅に軟禁、後に東京巣鴨にある癲狂院(てんきょういん。現在の精神科病院)へ入院させた。
これを見た旧中村藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が、相馬誠胤の病状に疑いを持ち、相馬家側(家令で志賀直哉の祖父にあたる志賀直道ら関係者)を不法監禁・財産横領で告訴した。
一方、相馬家側も弁護士・星亨を雇い、錦織を誣告罪(ぶこくざい。虚偽告訴の罪)で告訴した。(このとき、錦織を資金面で応援した後藤新平も訴えられ、5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの内務省衛生局長をクビになっている。)
明治25年(1892年)2月22日、訴訟の泥沼化する中で誠胤は死去するが、錦織はなおも、誠胤の死亡は毒殺であると訴え、遺体解剖まで行われるに至った。
しかし解剖の結果、毒殺でないことがわかり、錦織は誣告罪で重禁錮4年の刑が確定するに至った。
この間、黒岩涙香(くろいわるいこう)率いる萬朝報(よろずちょうほう)を筆頭にした新聞メディアがこの事件を扇情的に大きくとりあげ、錦織剛清は世間からは「忠義者」として同情を集めた。
相馬の人々のこの事件に対する受け止め方は混乱することとなり、その影響が精神科医療の欠落となって今日に至っている。
明治時代の事件が、100年も経過した現在にまで影響していることに驚かされるとともに、興味本位にことを荒立てるマスメディアの無責任さを考えさせられます。
現在問題になっている、原発事故への対応(放射線への対応の方法や今後の原発のあり方)などについても、国民が冷静に対応できるように適切な情報提供を行ってもらいたいものです。
【追伸】
現地では今でも薩長(鹿児島県、山口県)からの人的援助はお断りしているとのことでした。
明治維新前後に起きたつらい記憶が、いまだに残っているということなのですね。
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