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宝塚歌劇・高校野球徒然なるままに

好きな「宝塚」「高校野球」をつれづれに書いています。

「宝塚ビックリ箱その2 明石照子」

2006-05-18 15:36:08 | 宝塚歌劇
明石照子入団は昭和16年入学、20年入団。戦争のため初舞台は22年。同期に新珠三千代・筑紫まり・深山しのぶ・恵さかえがいる。寿美花代とともに一時代をつくりあげた。彼女も寿花とともに「結婚しても宝塚に残りたいと」主張したが劇団は原則を曲げず、寿美より1年前の昭和37年「メイド・イン・ニッポン」が最後の作品となった。「さよなら公演」はこの明石から始まったといわれている。千秋楽一般公演後後「さよならショー」が催され名場面集等が披露される。以後「さよならショー-」はトップスター退団の恒例行事になった。明石はこの時多くのフアンに惜しまれて宝塚を去った。

彼女のスタートは昭和27年高木史朗のパリ帰国作品「シャンソン・ド・パリ」で寿美・南風洋子3人中心に「ラ・メール」「枯葉」などのシャンソンを披露しブームを巻き起こした。同年秋、菊田一夫作・演出「ジャワの踊り子」で寿美・新珠・八千草とともにインドネシアの独立運動の悲劇大作を成功させた。新珠とのコンビ「ジャワ・・・」「ひめゆりの塔」は絶賛された。以後数々の芝居・ショーの主役を演じる。相手役も長谷川季子・浦島歌女・浜木綿子・加茂さくらなど多くおり、次々に主演作品を重ねる。昭和34年の「君ありてこそ」(作・演出内海重典)は評判になりその主題歌はいまも歌われ受け継がれている。芝居以外も達者で日舞「深川」「火の鳥・棒踊り」など秀逸である。主な作品は「フォスター物語」「四つの花物語」「ボンジュール・パリ」「河童の姫君」「マンハッタン物語」「白夜に帰る」「シャンソン・ダムール」「アルプスへの招待」「三文アムール」「「美しく花の如く」「絢爛たる休日」等数多い。1985年(昭和60年)逝去。