ルーベンス先生
かくありたい。
仕事もできてその作品も評価され、ハンサムで、知識も教養も深く、外交官として活躍、人柄も素晴らしく、やんごとなき方々からも弟子たちからも慕われ、家族からも愛された家庭人。
ルーベンス先生は嫌味なくらい、人生が充実している。
ルーベンスの作品を見て、その生涯を思うとき、こんなふうに自分自身の人生の舵取りができる人物になれたらどんなにいいだろうと、羨望と嫉妬と、単純に憧れの気持ちでいっぱいになる。
ドイツで生まれ、10歳で父を亡くしたルーベンスは、母の故郷アウトウェルペンに帰国し、ラテン語学校でラテン語やギリシャ語を学んだ。その後、ファン・フェーンを含む3人の画家の下で修業したルーベンスは、21歳で独立し、22歳の時には、イタリア留学をし、古典ローマ美術やルネサンス芸術を学んで、模写や素描を繰り返し、自分のものとして消化吸収する。
31歳の時に、母の死をきっかけにアントウェルペンに戻ると、32歳の時に、ネーデルランド総督アルブレヒト大公、公妃イザベラの宮廷画家となり、同年イザベラ・ブラントと結婚する。
愛する妻も得て、前途洋々のルーベンス先生(32歳)
『スイカズラ木陰のルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』ルーベンス、アルテ・ビナコテーク蔵
5カ国語を話せて、教養もあり社交的なルーベンスは、外交官としても大活躍。
外交官の仕事でスペイン・マドリードを訪れた際には、ベラスケスとも親交を深め、スペイン王フェリペ4世の外交使節として、イギリス王室も何度も訪れ、スペインとイギリスの和平交渉に貢献した。
『フェリペ4世』ルーベンス、マドリード王宮美術館蔵
ルーベンスはイギリスからもスペインからもナイト(騎士)の称号を与えられており、両王家からの信頼が高かったことが分かる。
ルーベンス先生の工房では、親方画家として100人の弟子を抱え、分業制度で効率よく作品を世に出し続けた。本展覧会でも、ルーベンス?という作品や、ルーベンスに基づく、工房としての、という作品が多く出展されていた。
工房で手掛けた多くの作品は、どこまでが弟子の筆致かルーベンス自身のものか判別するのは素人目には難しいが、ルーベンス個人が自身で描いたことがすぐに分かるのが愛する家族の肖像である。
長女クララの5歳の姿を描いた肖像は、愛くるしい表情に重きを置いていて、細部の描写までこだわるルーベンス先生の描き方としては珍しく、洋服や背景があいまいに描かれてる。
スマホで可愛い我が子の笑顔をフォーカスしようとする現代の父親と同じように、可愛くてしょうがない娘の幸せなその瞬間を収めようとしたルーベンスの愛情が強く伝わってくる。
クララの輝く美しい瞳がとても印象的だった。
『クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像』ルーベンス、ウィーン・リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示
順風満帆で、家族大好きルーベンス先生にも、不幸は訪れる。
愛娘クララが12歳で早世し、その3年後には愛妻イザベラにも先立たれる。
深い悲しみを抱えたルーベンス先生は、外交や、作品制作に精力的に取り組み、画家としてまた外交官として不動の地位を確立させる。王家からの信頼も厚く、多くの弟子を抱え名声を得て大活躍。
53歳の時には、16歳の若き可愛い妻(エレーヌ)も娶り、子どもにも恵まれ、幸せな晩年を過ごす。
『エレーヌ・フールマン』ルーベンス、ウィーン、美術史美術館蔵、本展覧会展示
占い本や、自己啓発等の本にはよく、感情的に波のある人は波乱万丈な人生を、精神が安定して穏やかな人は、人生も安定するというようなことが書かれている。
人生、結果的にどちらが幸せかなんてことは分からないが、
肝っ玉が小さく、小さなことにすぐに動揺して、感動して、あれやこれやと思考が止まらず、精神的に忙しい毎日を送る私としては、美術界の王者ルーベンス先生のように、堂々と、安定した人生に憧れ、嫉妬し、羨望する。
かくありたい。
ルーベンス先生は朝から4時に起床し、規則正しい生活を送り、効率よく工房を動かし、夕方には仕事を終わらせ、食事時は教養豊かな会話で客を楽しませ、家族を愛する、精神の安定した人物だったという。
まずは、規則正しく早く起きることから。ルーベンス先生に1歩でも近くため、そんなところから始めてみようかと思う(続くかな、、、)。
本展覧会終盤に登場する『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』は、ルーベンス先生の精神の健全さが輝くばかりに感じられる、圧巻の作品だった。
『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』ルーベンス、リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示
かくありたい。
仕事もできてその作品も評価され、ハンサムで、知識も教養も深く、外交官として活躍、人柄も素晴らしく、やんごとなき方々からも弟子たちからも慕われ、家族からも愛された家庭人。
ルーベンス先生は嫌味なくらい、人生が充実している。
ルーベンスの作品を見て、その生涯を思うとき、こんなふうに自分自身の人生の舵取りができる人物になれたらどんなにいいだろうと、羨望と嫉妬と、単純に憧れの気持ちでいっぱいになる。
ドイツで生まれ、10歳で父を亡くしたルーベンスは、母の故郷アウトウェルペンに帰国し、ラテン語学校でラテン語やギリシャ語を学んだ。その後、ファン・フェーンを含む3人の画家の下で修業したルーベンスは、21歳で独立し、22歳の時には、イタリア留学をし、古典ローマ美術やルネサンス芸術を学んで、模写や素描を繰り返し、自分のものとして消化吸収する。
31歳の時に、母の死をきっかけにアントウェルペンに戻ると、32歳の時に、ネーデルランド総督アルブレヒト大公、公妃イザベラの宮廷画家となり、同年イザベラ・ブラントと結婚する。
愛する妻も得て、前途洋々のルーベンス先生(32歳)
『スイカズラ木陰のルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』ルーベンス、アルテ・ビナコテーク蔵
5カ国語を話せて、教養もあり社交的なルーベンスは、外交官としても大活躍。
外交官の仕事でスペイン・マドリードを訪れた際には、ベラスケスとも親交を深め、スペイン王フェリペ4世の外交使節として、イギリス王室も何度も訪れ、スペインとイギリスの和平交渉に貢献した。
『フェリペ4世』ルーベンス、マドリード王宮美術館蔵
ルーベンスはイギリスからもスペインからもナイト(騎士)の称号を与えられており、両王家からの信頼が高かったことが分かる。
ルーベンス先生の工房では、親方画家として100人の弟子を抱え、分業制度で効率よく作品を世に出し続けた。本展覧会でも、ルーベンス?という作品や、ルーベンスに基づく、工房としての、という作品が多く出展されていた。
工房で手掛けた多くの作品は、どこまでが弟子の筆致かルーベンス自身のものか判別するのは素人目には難しいが、ルーベンス個人が自身で描いたことがすぐに分かるのが愛する家族の肖像である。
長女クララの5歳の姿を描いた肖像は、愛くるしい表情に重きを置いていて、細部の描写までこだわるルーベンス先生の描き方としては珍しく、洋服や背景があいまいに描かれてる。
スマホで可愛い我が子の笑顔をフォーカスしようとする現代の父親と同じように、可愛くてしょうがない娘の幸せなその瞬間を収めようとしたルーベンスの愛情が強く伝わってくる。
クララの輝く美しい瞳がとても印象的だった。
『クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像』ルーベンス、ウィーン・リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示
順風満帆で、家族大好きルーベンス先生にも、不幸は訪れる。
愛娘クララが12歳で早世し、その3年後には愛妻イザベラにも先立たれる。
深い悲しみを抱えたルーベンス先生は、外交や、作品制作に精力的に取り組み、画家としてまた外交官として不動の地位を確立させる。王家からの信頼も厚く、多くの弟子を抱え名声を得て大活躍。
53歳の時には、16歳の若き可愛い妻(エレーヌ)も娶り、子どもにも恵まれ、幸せな晩年を過ごす。
『エレーヌ・フールマン』ルーベンス、ウィーン、美術史美術館蔵、本展覧会展示
占い本や、自己啓発等の本にはよく、感情的に波のある人は波乱万丈な人生を、精神が安定して穏やかな人は、人生も安定するというようなことが書かれている。
人生、結果的にどちらが幸せかなんてことは分からないが、
肝っ玉が小さく、小さなことにすぐに動揺して、感動して、あれやこれやと思考が止まらず、精神的に忙しい毎日を送る私としては、美術界の王者ルーベンス先生のように、堂々と、安定した人生に憧れ、嫉妬し、羨望する。
かくありたい。
ルーベンス先生は朝から4時に起床し、規則正しい生活を送り、効率よく工房を動かし、夕方には仕事を終わらせ、食事時は教養豊かな会話で客を楽しませ、家族を愛する、精神の安定した人物だったという。
まずは、規則正しく早く起きることから。ルーベンス先生に1歩でも近くため、そんなところから始めてみようかと思う(続くかな、、、)。
本展覧会終盤に登場する『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』は、ルーベンス先生の精神の健全さが輝くばかりに感じられる、圧巻の作品だった。
『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』ルーベンス、リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示