Yururi

ゆるりゆるりと。

ルーベンス展 バロックの誕生

2018-12-09 20:31:40 | 日記
ルーベンス先生

かくありたい。

仕事もできてその作品も評価され、ハンサムで、知識も教養も深く、外交官として活躍、人柄も素晴らしく、やんごとなき方々からも弟子たちからも慕われ、家族からも愛された家庭人。

ルーベンス先生は嫌味なくらい、人生が充実している。
ルーベンスの作品を見て、その生涯を思うとき、こんなふうに自分自身の人生の舵取りができる人物になれたらどんなにいいだろうと、羨望と嫉妬と、単純に憧れの気持ちでいっぱいになる。

ドイツで生まれ、10歳で父を亡くしたルーベンスは、母の故郷アウトウェルペンに帰国し、ラテン語学校でラテン語やギリシャ語を学んだ。その後、ファン・フェーンを含む3人の画家の下で修業したルーベンスは、21歳で独立し、22歳の時には、イタリア留学をし、古典ローマ美術やルネサンス芸術を学んで、模写や素描を繰り返し、自分のものとして消化吸収する。
31歳の時に、母の死をきっかけにアントウェルペンに戻ると、32歳の時に、ネーデルランド総督アルブレヒト大公、公妃イザベラの宮廷画家となり、同年イザベラ・ブラントと結婚する。

愛する妻も得て、前途洋々のルーベンス先生(32歳)

『スイカズラ木陰のルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』ルーベンス、アルテ・ビナコテーク蔵

5カ国語を話せて、教養もあり社交的なルーベンスは、外交官としても大活躍。
外交官の仕事でスペイン・マドリードを訪れた際には、ベラスケスとも親交を深め、スペイン王フェリペ4世の外交使節として、イギリス王室も何度も訪れ、スペインとイギリスの和平交渉に貢献した。

『フェリペ4世』ルーベンス、マドリード王宮美術館蔵

ルーベンスはイギリスからもスペインからもナイト(騎士)の称号を与えられており、両王家からの信頼が高かったことが分かる。

ルーベンス先生の工房では、親方画家として100人の弟子を抱え、分業制度で効率よく作品を世に出し続けた。本展覧会でも、ルーベンス?という作品や、ルーベンスに基づく、工房としての、という作品が多く出展されていた。

工房で手掛けた多くの作品は、どこまでが弟子の筆致かルーベンス自身のものか判別するのは素人目には難しいが、ルーベンス個人が自身で描いたことがすぐに分かるのが愛する家族の肖像である。

長女クララの5歳の姿を描いた肖像は、愛くるしい表情に重きを置いていて、細部の描写までこだわるルーベンス先生の描き方としては珍しく、洋服や背景があいまいに描かれてる。
スマホで可愛い我が子の笑顔をフォーカスしようとする現代の父親と同じように、可愛くてしょうがない娘の幸せなその瞬間を収めようとしたルーベンスの愛情が強く伝わってくる。

クララの輝く美しい瞳がとても印象的だった。


『クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像』ルーベンス、ウィーン・リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示

順風満帆で、家族大好きルーベンス先生にも、不幸は訪れる。
愛娘クララが12歳で早世し、その3年後には愛妻イザベラにも先立たれる。

深い悲しみを抱えたルーベンス先生は、外交や、作品制作に精力的に取り組み、画家としてまた外交官として不動の地位を確立させる。王家からの信頼も厚く、多くの弟子を抱え名声を得て大活躍。
53歳の時には、16歳の若き可愛い妻(エレーヌ)も娶り、子どもにも恵まれ、幸せな晩年を過ごす。

『エレーヌ・フールマン』ルーベンス、ウィーン、美術史美術館蔵、本展覧会展示

占い本や、自己啓発等の本にはよく、感情的に波のある人は波乱万丈な人生を、精神が安定して穏やかな人は、人生も安定するというようなことが書かれている。

人生、結果的にどちらが幸せかなんてことは分からないが、
肝っ玉が小さく、小さなことにすぐに動揺して、感動して、あれやこれやと思考が止まらず、精神的に忙しい毎日を送る私としては、美術界の王者ルーベンス先生のように、堂々と、安定した人生に憧れ、嫉妬し、羨望する。

かくありたい。

ルーベンス先生は朝から4時に起床し、規則正しい生活を送り、効率よく工房を動かし、夕方には仕事を終わらせ、食事時は教養豊かな会話で客を楽しませ、家族を愛する、精神の安定した人物だったという。

まずは、規則正しく早く起きることから。ルーベンス先生に1歩でも近くため、そんなところから始めてみようかと思う(続くかな、、、)。

本展覧会終盤に登場する『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』は、ルーベンス先生の精神の健全さが輝くばかりに感じられる、圧巻の作品だった。

『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘のたち』ルーベンス、リヒテンシュタイン公爵家コレクション、本展覧会展示

プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光

2018-04-28 20:19:22 | 日記
学生時代、バックパックを背負って旅したスペインで、プラド美術館を訪れたことはあったが、20歳くらいだった私が夢中になったのは、ゴヤの黒い絵シリーズで、ベラスケスやルーベンス等の絵画の王道といった綺麗な絵よりも、何か見てはいけないようなものを見てしまったかのような刺激的なゴヤの絵に、強烈な印象を覚えて見入っていたのを覚えている。

あの時、ベラスケスを始め、西洋絵画の巨匠たちの作品をきちんと堪能してこなかったのは大変もったいないことをしたとの思いもあり、今回、7点ものベラスケス作品、また、ルーベンスも見られるということで、初夏を感じる日差しの中、上野公園の国立西洋美術館に行った。

ベラスケスはセビリアの貴族の血筋をひく家庭に生まれ、12歳からスペイン画家・美術家でもあったフランシスコ・パーチェスの弟子となる。

「フランシスコ・パーチェス」ベラスケス

若くして才能を開花させていたベラスケスは、パーチェス師匠にも認められ、19歳で師匠の娘であるフアナと結婚した。


「東方三博士の礼拝」プラド美術館 本展覧会展示作品

「東方三博士の礼拝」はベラスケスが20歳の時に描いた作品で、聖母マリアは妻フアナ、幼子イエスは長女フランシスカ、三博士のうち手前にひざまずくメルキオールがベラスケス本人、その背後のカスパールがパーチェス師匠をモデルにして描かれたと言われている。
他の宗教画で見るイエスが静謐で神聖な雰囲気で描かれることが多いのに対し、愛娘フランシスカをモデルにした本作品のイエスの顔は、とても愛くるしく、今にも笑みを浮かべたり、声を出して、母にミルクをねだったりしてしまいそうなリアルな幼子の表情である。

本展覧会で目の前に見たイエスの顔は、図録等で見ていた時よりはるかに可愛らしく、ベラスケスの愛娘に対する愛おしさが伝わってきた。
20歳だった時の自分の精神年齢や環境に比べると、若干20歳にしてこれだけの表現力を持ち、そして慈愛にみちた父親としての顔を持っていたベラスケスに素直に尊敬の思いが湧き上がる。
ちなみに、ベラスケスの長女フランシスカはその後、母親と同じように、ベラスケスの弟子であったマルチネス・デル・マーソと結婚することになる。

24歳でベラスケスはフェリペ4世の宮廷画家になる。ベラスケスより6歳年下だったフェリペ4世は、ベラスケスを大変気に入り、親しみ、アトリエにもよく足を運び、ベラスケスは宮廷の行事や外交などの仕事も行うようになる。
ベラスケスは40年にわたり、フェリペ4世に仕え、国王とその家族のために絵を描き続ける。
国王のベラスケスに対する信頼の深さ、ベラスケスの国王家族に対する慈しみ、愛情の深さは、その肖像画の表情の柔らかさから十分に感じられる。
本展覧会で出展された「狩猟服姿のフェリペ4世」、目の表情が柔らかく、優しく、本人の穏やかな性格が伝わってくるようだった。


「狩猟服姿のフェリペ4世」 プラド美術館 本展会展示作品

スペインの名門ハプスブルク家は、カトリックの宗教政策や、名門としての高貴な地位維持のため、フェリペ4世の祖父、フェリペ2世の時から、伯父と姪の婚姻など3親等内での結婚が続いてしまった。
その影響もあってか、ベラスケスが、その輝くばかりの未来を願い描いた、フェリペ4世の長男カロルスも、16歳で早逝してしまう。


「王太子バルタサール・カルロス」 プラド美術館 本展覧会展示作品

その後、フェリペ4世は後継ぎを残すため、カロルスの婚約者であったマリアナ・デ・アウストリアと再婚する。そして、このマリアナもフェリペ4世自身の姪にあたる。

マリアナとの間で生まれたマルガリータは可憐な容貌の少女で、両親の愛情をいっぱいに受けて幸せそうな少女時代を過ごす。
マルガリータが生まれた時には、52歳だったベラスケスも孫娘のような歳のマルガリータの成長していく姿を慈愛に満ちた表現で、描き残している。


「バラ色のドレスのマルガリータ王女」3歳 ウィーン美術史美術館


「白いドレスのマルガリータ王女」 5歳
ウィーン美術史美術館



「青いドレスのマルガリータ王女」8歳 ウィーン美術史美術館

5歳の時に描かれた「ラス・メニーナス」(白いドレスのマルガリータと同じドレス)は特に有名だが、心配そうに見守るフェリペ4世夫妻の様子が画面中央の鏡に描かれている。



「ラス メニーナス」 プラド美術館

その後、ベラスケスは、フェリペ4世と最初の妻イザベルとの間の娘、マリー・テレーズ(マルガリータの異母姉)の結婚準備を取り仕切る中で、過労で倒れ死亡する。

ベラスケスとしては、愛情深く描いていたマルガリータの花嫁姿も見たかったろうにと、残念な気持ちがするが、最後に描いた8歳の時の青いドレスの肖像画以降は、ベラスケスの娘婿マーソがその意思を引き継ぎ、マルガリータの姿を描いている(マルガリータ10歳の時に描かれた「赤いドレスを着たマルガリータ王女」はベラスケスとマーソの共同制作とも言われる。)


「赤いドレスのマルガリータ王女」 プラド美術館


「緑のドレスのマルガリータ王女」マーソ ブタペスト国立西洋美術館


「皇妃マルガリータ・デ・アウストリア」 マーソ プラド美術館

喪服を着たマルガリータの肖像は、マーソが描いた、フェリペ4世の死後に悲しみの表情を浮かべた14歳のマルガリータの姿である。

ベラスケスのフェリペ4世、マルガリータ王女への愛情が、娘婿マーソにも引き継がれたことが感じられるのが、マーソの描いた「画家の家族」で、左側4人の子供は、ベラスケスの長女フランシスカとの間の子供たち、右側がフランシスカ死後に再婚した妻とその子供たちが描かれている。


「画家の家族」マーソ ウィーン美術史美術館

↑この絵、さらに注意深く見てほしい画面中央には、ベラスケスが描いたフェリペ4世の肖像が描かれており、


「フェリペ4世の肖像」ベラスケス プラド美術館

画面右側には画家(緑のドレスを描いているからベラスケスではなくマーソ自身か?)がマルガリータ王女を描いている姿が描かれている


この「画家の家族」を見ても、マーソがいかに義父ベラスケスを敬愛し、また、ベラスケスが愛したフェリペ4世家族に愛着を持って接し、そして自分自身の家族に対する深い愛情を持っていたかが感じられる。

今回のプラド美術館展で感じたことは、ベラスケスの、フェリペ4世の、そしてマーソの家族としての、また国王家族と宮廷絵師との家族のような親しみ、愛情であり、また、絆や、逃れられない伝統の重さ、地位の重さ、責任のようなものであった。
ハプスブルク家としての地位の尊さ、それにより逃れることのできなかった血族の交わり、そこから生まれる悲劇ともいえる早逝、師匠と弟子という関係による責任の重さ、才能の違い、またそれらの根底において確かに感じられる愛情の深さ。

お互いの愛情や親しみを感じれば感じるほど、その後に見えてくる予感や、未来にどこか哀しい思いも湧き上がってしまう、そんなことが感じられる展覧会だった。


そんな気分の中でみた、ヤン・ブリューゲル(父)の描く花の色彩は、心を少し軽くする、印象的な明るさだった。


「Vase of flowers」ヤン・ブリューゲル(父) プラド美術館 本展覧会展示作品

至上の印象派展 ビュールレ•コレクション

2018-04-24 20:17:38 | 日記



美しく透きとおる肌と栗色の豊かな髪、愁いを帯びた青い目と、形のよい唇。
その美少女の前に立った時、ある者はその清楚さと可憐さについ見とれ立ち尽くし、ある者はまるで初恋の人に出会えたような気恥かしさや嬉しさを覚えながらそわそわしてしまうかもしれない。
印象派の代表的な画家ピエール ・オーギュスト・ルノワールが描いた「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」
この美少女は、パリのユダヤ人銀行家であるルイ・カーンダンヴェール伯爵の長女イレーヌで、描かれた1880年当時8歳だった。
イレーヌは3人姉妹の長女で、イレーヌの2人の妹も同じくルノワールによって1881年に描かれている。

「エリザベスとアリス・カーン・ダンヴェール」サンパウロ美術館蔵

右がエリザベス、左がアリスで、この絵は「ピンクとブルー」という別名でも知られ、色違いのお揃いのレースのドレスを着た姉妹がなんとも可愛らしく(リボン🎀や靴下の色もお洋服と合わせていてかわいい)、美少女3姉妹だったことが分かる。

イレーヌの母、ルイーズの肖像画も当時ポートレート画家として有名だったカロリュス・デュランによって描かれており、相当な美人さんである。

「ルイーズ・カーン・ダンヴェールの肖像」 カロリュス・デュラン

ちなみに、イレーヌの両親は、デュランの肖像画のような、古典的な作風を求めており、ルノワールの描いたイレーヌの作品は気に入っていなかった、出来上がった作品は召使いの部屋に粗雑に放置されていた等の話もある。
デュランの描く肖像画の数々は、確かに大人の女性を描く時、その魅力を最大限に引き出し、美しく、そして官能的ともいえる作風が特徴的である。しかし、当時4歳から8歳だったイレーヌ姉妹の可憐でかわいらしい清楚な少女たちの魅力を最大限に描き出すことができたのは、ルノワールだからこそと思う。
ルノワールに頼んでよかったんじゃないの!と後世の私はイレーヌ母に伝えてあげたい。

伯爵家の令嬢として、輝くばかりの未来を約束されたかのような、夏の日の姿を描かれたイレーヌだが、その後数奇な人生を送る。
イレーヌは、19歳で11歳年上のユダヤ人銀行家と結婚、2人の子供に恵まれるが、結婚生活は10年で破綻。翌年にイタリア人貴族と結婚するが、第1次世界大戦で長男が死亡し、その後2回目の結婚生活も破綻し、離婚。第2次世界大戦では娘と、幼い孫たちもナチスにより強制収容所に送られ亡くなっている。
青いドレスを着て無邪気な笑顔を浮かべていた妹のエリザベスも、後年ナチスによる強制収容所送りとなり亡くなっている。

第2次世界大戦中、「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はナチスドイツに没収され、ヘルマン・ゲーリングが所有していた。

ヘルマン・ゲーリング、ナチスドイツナンバー2だった男

戦争終結後、ナチスが略奪していた美術品は、返還され、パリのオランジェリー美術館に展示され、その後1946年に当時74歳のイレーヌに返還された。
ヘルマン・ゲーリングといえば、第2次世界大戦末期に、連合国側の戦闘員でもない、学芸員や歴史家、彫刻家らが、ナチスドイツに略奪された歴史的美術品を奪還するためにチームが結成されたという、実話に基づいて作られた、ジョージ・クルーニー主演の作品「ミケランジェロ・プロジェクト」にも登場する。「オーシャンズ11」好きな人には、ハラハラしながら映画に登場する美術品も楽しめるエンターテイメント作品だ(イレーヌ嬢も作品のある箇所で登場します)。


イレーヌ本人に一度は返還されたイレーヌ嬢だが、その3年後、競売にかけられ、エミール・ビュールレによって落札された。その後、イレーヌ嬢は私設のビュールレ美術館に所蔵されることになる。
エミール・ビュールレが武器商人で、ナチスに武器を売って私財を蓄えたことを考えると、イレーヌ本人の波乱万丈な生涯とともに、作品・イレーヌ嬢の行く末にも複雑な思いが湧き上がる。
しかし、その後、2008年、ビュールレ美術館において、武装した国際強盗団が同美術館に押し入り、今回の展覧会でも展示されたセザンヌの「赤いチョッキの少年」を含む、ドガ、モネ、ゴッホの4作品が盗難された。
そして、これらの4作品は幸いにも、2012年までに無事発見・回収されるに至るが、この盗難事件を機に、同美術館の警備の見直しがされたものの、個人美術館の費用負担が大きかったため、2015年に同館は閉館、同館のコレクションは2020年にチューリッヒ美術館に移管されることになった。

この移管を機に、コレクションを紹介する機会として、今回日本での展覧会が実現され、出品作のおよそ半数が日本初公開となったが、今後チューリッヒ美術館に新たに移管されることを考えると、目玉作品である名作の数々が、所蔵したばかりの美術館から他へ貸し出されることは容易にできるものとは考えられず、これだけのコレクションが日本で鑑賞できるのは、まさに最初で最後のチャンスだと思われる。

イレーヌ嬢はもちろんのこと、アントニオ・カナールの写実性、モネのシャクナゲの赤、ゴッホの日没の黄色の色彩の素晴らしさは、本物でなければ伝わらない迫力がある。
アングル、ドラクロワ、マネ、シスレー、エドガー・ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、まさにスター揃い踏み!
見応えがあり、圧巻であった。
本当は一つ一つもっと時間をかけて味わいたいところだったが、日曜日の鑑賞はやはり混雑していたため、少し消化不良気味。時間があれば閉館前になどを狙って再度名画たちに会いに行きたい。