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かもめ日記21

さとまさの日本語教育・子育て・読書・演劇・雑感

バフチン『小説の言葉』

2013-01-25 01:29:09 | 読書
80年代、学生の頃、文学研究または思想家としてバフチンを知った。
日本語教育の分野でバフチンに再会するとは思ってもいなかった。
それだけバフチンの受容は様々な分野領域に渡っているということだ。
新時代社からバフチン作品集が出始めてから20年余り、日本語教育はワーチを経由してバフチン理論と出あうことになる。
そんな中バフ会という怪しげな名前で日本語教師仲間でバフチンの著作を読み始めた(もちろん翻訳で)。
まず選んだのが『小説の言葉』(伊東一郎訳、平凡社ライブラリー)。学生時代にどうしても通読できなかった本でもあった。ちなみに伊東先生は学生時代のサークルの顧問であり私の演劇時代の数少ない理解者でもある。

 「小説の文体論の諸問題を論じようとすれば、必然的に言語の哲学の一連の原理的諸問題に触れないわけにはいかなくなる。それらは言語学的・文体論的思考がほとんど全く解明していない言葉の生の諸側面、すなわち矛盾をはらんだ多言語的世界における言葉の生と行動の様式に結びついているのである」

バフチンは『小説の言葉』において、小説を論じながら下線の「言葉の生の諸側面、すなわち矛盾をはらんだ多言語的世界における言葉の生と行動の様式」を論じていく。それは日本語教育のことばの教育と関係せざるを得ないのだ。文学の方面からではなく言語教育の面から読むと非常に面白い。これがテキストというものなのだろう。開かれたテキストは様々な読みを可能にする。
 特に日本語教育で援用される部分。「内的説得力のある言葉」と「権威的な言葉」、「収奪」、「内的対話性」などが一つのものとして繋がる。今後この視点で留学生のことばの学びを見ていこうと思う。

「他方、全く別の可能性を開示するのは、我々にとって内的説得力があり、我々が承認した、他者のイデオロギー的言葉である。それは、個人意識のイデオロギー的形成の過程において決定的な意義を持つ。すなわち、自立したイデオロギー的生活にとって、意識は自己をとりまく他者の言葉の世界で目覚めるものなのであり、最初のうちは、自己をそれらの他者の言葉から分け隔ててはいない。つまり、自己との言葉と他者の言葉、自己の思考と他者の思考が区別されるのは、かなり後のことなのである。自立した試行的・選択的思考が始まると、まず最初に内的説得力を持った言葉が、権威的で強制的な言葉から、また我々にとって意味を持たず、我々を挑発することのない数々の言葉から区別される」(p164)

ここには自己がことばをどのように学んでいくか、ことばと思考の関係が見事に記述されている。この出来事をどのように教育実践としてデザインしていくか、考えていきたい。だが、このような個人意識のイデオロギー的形成はそう生易しいものではない。それを表す言葉が「収奪」だ。

「生きた社会・イデオロギー的具体としての、矛盾をはらんだ見解としての言語は、本質的に個人の意識にとっては、自己と他者の境界に存在するものである。言語の中の言葉は、なかば他者の言葉である。それが<自分の>言葉となるのは、話者がその言葉の中に自分の志向とアクセントを住まわせ、言葉を支配し、言葉を自己の意味と表現の志向性に吸収した時である。この収奪の瞬間まで、言葉は中性的で非人格的な言語の中に存在しているんのではなく、他者の唇の上に他者のコンテキストの中に、他者の志向に奉仕して存在している。」(p68)

他者の唇の上にある言葉(権威的な言葉)を収奪して内的説得力のある言葉にすることが、自己のイデオロギー的成長ではないか。それは「自己の言葉と他者の言葉との緊張した相互作用と闘争」だ。

今回重要なところは原書と照らし合わせながら読んだ。伊東先生の翻訳の見事さにも気付かされた。それも収穫。

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