高校の教師だった父。
校長として定年を迎えてからは、大学で教鞭をとっていました。
生徒と接することを希望し、教壇に立ち続けました。
スポーツが好きでした。
子供の頃、冬になると雪山に連れて行かれました。
サッサと滑り下りる父。
姉も弟も比較的上手に下りてゆき、
私は一人上の方で転んだまま、下りるのに苦労をしました。
代々木のスケートリンクにもよく出かけました。
スイスイ滑る父を横目に、尻もちばかりの私。
手をとってじっくり教えるようなことはありません。
ドライルームでお尻を乾かす時間が長かったように思います。
武道が好きで剣道、柔道に励んでいました。
家の畳の上で、よく受け身の練習をさせられました。
夜道で腕を掴まれた時のためにと、その交わし方を習いました。
高校受験の時、父の知らない高校を見つけてきて、
ここに入りたいと言い、父を困らせました。
教育者の家に於いて、学校選びは大きな問題。
でも、最終的には、私が選んだ学校への進学を認めてくれました。
その後、人生の節目の時など、
思い切って父に打ち明けてみると、
言われることはいつも同じ。
「もう決めているんだろう」
小さなことで反対されることはありましたが、
大きなことは、よほど間違っていない限り尊重してくれました。
葬儀の後、叔父に若い頃の父の話を聞きました。
戦後、武道が禁じられていた時期があり、
その頃、唯一許されていたフェンシングをやっていたそう。
そんなハイカラな一面があったとは。
箱根駅伝ではトラックの荷台に乗って母校の応援をしていたそう。
旗を持って応援に駆けつける、のめり込むタイプだったと。
監督を勤める軟式野球部が、全国大会に行けるよう、
生徒たちと毎日遅くまで汗を流していた、そんな話も出てきました。
子供たちと接することが本当に好きだったようです。
家族の前では、優しい言葉をかけるなんてことはない父でした。
でもいつも気にかけてくれていることはわかっていました。
いくつになっても心配ばかりかけていました。
最期まで、安心させてあげることができなかった、それが心残りです。
仕事を引退してからは、あちこち旅行に行っていました。
日本国内はほとんど制覇。
富士山には3回は登ったそう。
海外旅行にもよく行っていました。
歴史を訪ねる旅を好んでいました。
そんな意欲的な父でしたが、
亡くなるひと月ほど前、気力がない、と言っていました。
生き続けたい、けれど、気力がない。
どこかドライブにでも行こうと誘っても、
もうそんな気力がない、ということのよう。
出かけることはありませんでした。
体の痛みや苦しみもさることながら、
「気力がなくなる」ということは、
もしかしたら生きる上で、一番辛いことなのかもしれません。
何もする気力がなくなっていても、私に言うことは同じです。
戸締まりをちゃんとするように。
見知らぬ誰とでも気軽に話すのはやめなさい。
子供の頃に言われていたことと一緒です。
誰にでも話しかけ、時に嫌な目に遭うこともある私のことを
よくわかっているからこその、昔からの変わらぬアドバイス。
それが、父と交わした最後の言葉でした。
このたび、父の死によって、
人が生きて、そして死を迎えるということに直面しました。
生き続けること。
死を迎えること。
どちらもとても難しいことです。
でも、それを理解することは、
おそらく自身で体験しないと無理なんだろうと思います。
私もいつか死を迎えるその時、
自分の人生悔いなし、と思えるのでしょうか。
今、生きているものができること。
それは、最期にそう思えるように、今を精一杯生きることなのでしょう。
明日もまた太陽と月に導かれ、
星になった父への感謝の気持ちを胸に、
良い一日を過ごしたいと思います。
ーー
今日は、今の私の心の中を思うままに綴りました。
最後まで読んでくださった方、ちょっと重い話でごめんなさい。
これまでブログでは、何度か父のことを書いたことがありましたので、
みなさんにもご報告をと思い、とてもプライベートなことではありますが、
書かせていただきました。
時折、父のことを気にしてくだり、メールをお送りくださっていた方、
本当にありがとうございました。
また、お仕事仲間のみんな、そしてお友達、
みんなの暖かいお心遣いに触れ、大きな力をもらいました。
父の死によって、かけがえのない友情、愛情を再確認することができました。
どうもありがとう。
今週はもう、いつも通りのお仕事に戻っていましたが、
週末ゆっくりして、また来週から頑張ります。
自分でも父の死をしっかり受け止められていることに驚きます。
なので、どうかご心配なく。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
校長として定年を迎えてからは、大学で教鞭をとっていました。
生徒と接することを希望し、教壇に立ち続けました。
スポーツが好きでした。
子供の頃、冬になると雪山に連れて行かれました。
サッサと滑り下りる父。
姉も弟も比較的上手に下りてゆき、
私は一人上の方で転んだまま、下りるのに苦労をしました。
代々木のスケートリンクにもよく出かけました。
スイスイ滑る父を横目に、尻もちばかりの私。
手をとってじっくり教えるようなことはありません。
ドライルームでお尻を乾かす時間が長かったように思います。
武道が好きで剣道、柔道に励んでいました。
家の畳の上で、よく受け身の練習をさせられました。
夜道で腕を掴まれた時のためにと、その交わし方を習いました。
高校受験の時、父の知らない高校を見つけてきて、
ここに入りたいと言い、父を困らせました。
教育者の家に於いて、学校選びは大きな問題。
でも、最終的には、私が選んだ学校への進学を認めてくれました。
その後、人生の節目の時など、
思い切って父に打ち明けてみると、
言われることはいつも同じ。
「もう決めているんだろう」
小さなことで反対されることはありましたが、
大きなことは、よほど間違っていない限り尊重してくれました。
葬儀の後、叔父に若い頃の父の話を聞きました。
戦後、武道が禁じられていた時期があり、
その頃、唯一許されていたフェンシングをやっていたそう。
そんなハイカラな一面があったとは。
箱根駅伝ではトラックの荷台に乗って母校の応援をしていたそう。
旗を持って応援に駆けつける、のめり込むタイプだったと。
監督を勤める軟式野球部が、全国大会に行けるよう、
生徒たちと毎日遅くまで汗を流していた、そんな話も出てきました。
子供たちと接することが本当に好きだったようです。
家族の前では、優しい言葉をかけるなんてことはない父でした。
でもいつも気にかけてくれていることはわかっていました。
いくつになっても心配ばかりかけていました。
最期まで、安心させてあげることができなかった、それが心残りです。
仕事を引退してからは、あちこち旅行に行っていました。
日本国内はほとんど制覇。
富士山には3回は登ったそう。
海外旅行にもよく行っていました。
歴史を訪ねる旅を好んでいました。
そんな意欲的な父でしたが、
亡くなるひと月ほど前、気力がない、と言っていました。
生き続けたい、けれど、気力がない。
どこかドライブにでも行こうと誘っても、
もうそんな気力がない、ということのよう。
出かけることはありませんでした。
体の痛みや苦しみもさることながら、
「気力がなくなる」ということは、
もしかしたら生きる上で、一番辛いことなのかもしれません。
何もする気力がなくなっていても、私に言うことは同じです。
戸締まりをちゃんとするように。
見知らぬ誰とでも気軽に話すのはやめなさい。
子供の頃に言われていたことと一緒です。
誰にでも話しかけ、時に嫌な目に遭うこともある私のことを
よくわかっているからこその、昔からの変わらぬアドバイス。
それが、父と交わした最後の言葉でした。
このたび、父の死によって、
人が生きて、そして死を迎えるということに直面しました。
生き続けること。
死を迎えること。
どちらもとても難しいことです。
でも、それを理解することは、
おそらく自身で体験しないと無理なんだろうと思います。
私もいつか死を迎えるその時、
自分の人生悔いなし、と思えるのでしょうか。
今、生きているものができること。
それは、最期にそう思えるように、今を精一杯生きることなのでしょう。
明日もまた太陽と月に導かれ、
星になった父への感謝の気持ちを胸に、
良い一日を過ごしたいと思います。
ーー
今日は、今の私の心の中を思うままに綴りました。
最後まで読んでくださった方、ちょっと重い話でごめんなさい。
これまでブログでは、何度か父のことを書いたことがありましたので、
みなさんにもご報告をと思い、とてもプライベートなことではありますが、
書かせていただきました。
時折、父のことを気にしてくだり、メールをお送りくださっていた方、
本当にありがとうございました。
また、お仕事仲間のみんな、そしてお友達、
みんなの暖かいお心遣いに触れ、大きな力をもらいました。
父の死によって、かけがえのない友情、愛情を再確認することができました。
どうもありがとう。
今週はもう、いつも通りのお仕事に戻っていましたが、
週末ゆっくりして、また来週から頑張ります。
自分でも父の死をしっかり受け止められていることに驚きます。
なので、どうかご心配なく。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
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