愛染明王信仰の興隆と白河法皇

愛染明王の信仰が平安時代の白河院政期に興隆した歴史的背景と愛染法について新出史料も交えて解説。

続き

2008-07-10 06:19:03 | Weblog
愛染明王信仰の興隆と白河法皇(続き)

(6)愛染明王とその修法 その2
愛染王を本尊として修する愛染法は息災・増益(ぞうやく)・敬愛(きょうあい)・降伏・鉤召(こうちょう)の五種法に通じて効験があるとされ、その事は上に述べた明王の像容と深く関わっています。又それに付いては白河院政期より以降愛染法が隆盛するにつれて驚くほど多くの口伝が生み出されました。ここではその一端を紹介しますが、それとても他に異説のあることは言うまでもありません。
先ず頭上の獅子冠は、修行者自身にとっては菩提(さとり)を求める心の勇敢さを表し、他に対しては自在に調伏する事の標示です。その上の五股鉤は、衆生(しゅじょう)を鉤召/誘引して本尊の大欲・大貪染(とんぜん)の世界に引き入れるのです。大欲・大貪染とは個人的欲求を超えた大いなる欲望に憑かれていることを言い、愛染明王の三昧/本質そのものです。
次に六臂の中の初めの鈴杵の手は息災の義(意味)とされます。心の闇を金剛杵の智慧の光で照らし、金剛鈴の響きを以て安楽を与えます。因みに息災の「息」とは「止」の意味で、文字通り災いを未然に止めること、乃至は大難を小難に転じることを言います。
弓箭の手は敬愛の義と説かれる事が多いようです。左右の手をそれぞれ定・恵に配当しますから、左の弓(定)に右の箭(恵)をつがえる事は定恵冥合(みょうごう)、乃至は一般に冥合/敬愛成就の標示であり、又た放たれた箭が何かしら対象物に的中する事も同じく冥合/敬愛の成就です。現今は敬愛法と云えば恋愛成就の秘法とのみ解釈されがちですが、会社の上司から目をかけられること、取引相手に気に入られる事なども敬愛法であり、更に仏道修行の立場からは本尊の仏菩薩から見放されること無く速やかに悉地(しっじ)成就する事も敬愛法に属します。
さて次が問題の左の第三手「彼の手」ですが、これは現存の彫刻遺品を見る限り空拳に作られていて口伝の云う所に合致します。つまり願う所、求めるものに随って、それを標示する物(三昧耶形)をこの空拳に持たせるのです。或いは第四章に紹介した後冷泉天皇降伏の作法の如く願意を書き記して持たせます。絵画・図像遺品の場合も空拳に描いたものが圧倒的に多いけれども、時として「彼の手」の上に日輪や如意宝珠などが描かれています。
「彼の手」と対の蓮の手に付いては敬愛法と関連させて説くこともあるが、蓮を以て「彼の手」の辺を打つことにより障難を成す悪心を消滅させる意であり、降伏(ごうぶく)乃至は広く一般に祈願成就の力を表していると考えられます。

(7)愛染明王と金剛界密教
前にも述べたように愛染明王を説く経典は『瑜祇経』のみであり、両部密教の根本聖典である『大日経』や『金剛頂経』には全くその言及が無い。してみれば愛染王は両部曼荼羅の諸尊と如何なる関係にあるのでしょか。
『瑜祇経』はその序章(序品)に於いて金剛界三十七尊に準ずる教説を展開しているから金剛界系の密教経典である事は疑いない。ところが学者を困惑させるのはそのサンスクリット語原本やチベット語訳が発見されないのみならず、その類本も亦た存在しないので、『瑜祇経』の成立過程に付いてほとんど学術的な検討を加えることが出来ない事です。そういう訳で例えば非常に権威のある学会の碩学が集まって編集した『仏典解題事典』は一切『瑜祇経』に言及していません。
しかし『瑜祇経』は弘法大師によって請来された密教経典中にあり、不空三蔵や恵果阿闍梨が活躍した中唐期の長安に於ける密教の精要を伝えていると考えられます。また『瑜祇経』は不空三蔵の師金剛智の訳、乃至はそれを不空が再治(さいじ)/校訂したものとされますが、その内容はユニークな密教観に溢れて到底晩唐期の凡庸な密教儀軌とは比較になりません。
とりわけ我が国の真言宗(特に小野/醍醐派)に於いては平安末以降に愛染法の盛行とは又た別に、『瑜祇経』の「阿闍梨位」の印真言を伝法潅頂の印信として授ける事を始めとして各種の「瑜祇」秘密伝授が隆盛し、更に『瑜祇経』自体の研究も本格化して鎌倉中期には詳細な注釈書が相次いで製作されるようになりました。このようにして『瑜祇経』に対しては、胎蔵・金剛両部大経の奥旨を説き明かした不二(ふに)の秘密経典とする評価が確立しました。
さて初めの愛染王と曼荼羅諸尊との関係については、先ず『瑜祇経』が金剛界系の経典である事と愛染明王が金剛薩埵の化身である点に留意する必要があります。次に古来真言宗の学僧の間に、愛染明王/『瑜祇経』が説く大染の三昧(覚りの境地)と金剛薩埵/『理趣経』の大楽の法門(教理)とは同じであるとする考え方のある事が挙げられます。此の事を典型的に示す一例として、前にも言及した白河法皇の護持僧範俊僧正が創始した如法愛染王法があります。即ち此の法を修する際には実に金剛界九会曼荼羅中の理趣会曼荼羅(十七尊曼荼羅とも云う)を本尊曼荼羅に用います。但し中尊は金剛薩埵の替わりに愛染明王を描く点が異なります。
金剛界密教の精要は普通三十七尊の曼荼羅で表現されその中尊は大日如来ですが、修行者の菩提心を中心に考えれば中尊は金剛薩埵になります。また『理趣経』の十七尊曼荼羅はこの観点をより鮮明に凝縮して表現しています。そして此の金剛薩埵が大貪染(とんぜん)の三昧に入って励起した時には愛染明王となって活動するのです。
此の事に付いては密教教理と史料の両面から改めて検討を加え紹介したいと思います。

以上

愛染明王信仰の興隆と白河法皇

2008-07-09 03:58:55 | Weblog
愛染明王信仰の興隆と白河法皇

(1)白河法勝寺の創建/両部曼荼羅世界の現出
承暦元年(1077)十二月十八日、京都白河の地に白河天皇御願の法勝寺が創建された。白河天皇とその中宮藤原賢子をはじめ関白藤原師実等の公卿が臨席する中、落慶供養の導師は天台座主覚尋が勤め、300人の僧侶が法会に奉仕した。又た雅楽の演奏と舞が終日行われて、その盛観を記した当時の記録に、「此の壮麗なる供養の儀式は人間界で行われているけれども、仏の世界の荘厳(しょうごん)を目の当たりに見る気がする」と述べられています。
七間(しちけん)四面の金堂の本尊は金色三丈二尺の大毗盧遮那如来であり、その周りに各二丈の宝幢・開敷花(かいふけ)・無量寿・天鼓雷音(てんくらいおん)如来すなわち胎蔵四仏が安置され、実に壮大な密教の仏の世界が作り上げられていた。記録によって確認する事は出来ないけれども、柱や四方の壁面に胎蔵曼荼羅十三大院を分割して画き、嘗(かつ)てない巨大な密教空間を現出していた可能性も考えられる。
このほか創建時には金色二丈の釈迦如来と丈六の普賢・文殊両菩薩を安置する七間四面の講堂、金色丈六の阿弥陀仏九体を祀る十一間四面の阿弥陀堂、二丈六尺の不動尊と丈六の四大明王を安置する五間四面の不動堂などがあって、天皇の権勢を誇示する壮大な仏教伽藍を構成していた。
此の白河の地は、比叡山の南西部に源を発して東山の西麓に沿って流れる白河の中下流域に当たり、法勝寺を始めとする白河六勝寺があった場所は現在では岡崎と呼ばれています。美術館・図書館等の文化施設、動物園、平安神宮があり、少し南に下がった粟田口には天台三門跡の一つ青蓮院があって一年中観光客の人通りが絶えない所です。因みに動物園は法勝寺境内の南半分に相当し、平安神宮の西半分は白河天皇の子である堀河天皇御願の尊勝寺の一部と重なります。
また東の方から山科盆地の北辺を通って京都に入る場合、峠道を超えると先ず此の白河/岡崎の一帯が目に見えてきます。その時、現在ではコンクリートで出来た平安神宮の巨大な朱の鳥居が人目を引きますが、平安院政期に於いては此の鳥居よりも遥かに雄大壮麗な法勝寺の八角九重の塔がそびえ立ち、見る者をして天皇・上皇の威権の大なる事を知らしめていたのです。
即ち承暦元年の落慶供養の後も法勝寺伽藍の整備造営事業が続けられ、永保三年(1083)十月一日に九重御塔・薬師堂・八角円堂が完成して供養が営まれている。その塔は、金堂前の池中の中島に建設された。創建時の塔の高さは文献に記されていないが、承元二年(1208)五月の落雷のために焼失した後に再建された塔の高さが27丈(約82m)と記されているから、初めの塔はそれと同じか更に高かったと推測される。規模の巨大なる事にも驚かされるが、その初層内部の構成は法勝寺の造営理念を知る上で決定的な史料を提供している。
即ち大江匡房作「法勝寺御塔供養呪願文」に、
金剛界会の五智如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就如来)はその堅固なる体を美しい黄金色に照り輝かせて居並んでいる。中尊は八尺の高さがあり、四仏の為に四方に座を設けている。その他の諸尊は各々四角(よすみ)に安置している。
と云い、又た、
八方の柱には(金剛界の)月輪(がちりん)仏を画く。
と述べているから、仏像と柱絵によって金剛界曼荼羅が製作されたのです。
此の事から法勝寺の造営プランは、金堂の胎蔵曼荼羅と九重塔の金剛界曼荼羅を合わせて密教の両部曼荼羅の世界を造立供養する事に眼目があったのだと考えられます。

(2)八角円堂(愛染王堂)建立の意義
九重塔と共に供養された薬師堂は講堂の北に位置し、金色の丈六薬師如来七体すなわち七仏薬師が安置されたが、法勝寺伽藍の結構を考える上でとりわけ注目されるのが愛染明王を本尊として祀った八角円堂の造営です。前に見た大江匡房の呪願文には又、
又た(薬師)堂の艮角(東北方)に八面堂を造り、三尺白檀の愛染王像あり。
と記されている。
現在では愛染明王に対する信仰はそれほど盛んでは無く、観世音菩薩や不動明王、或いは阿弥陀如来や地蔵菩薩が今も多くの人々の信仰を集めその心の支えとなっている事を考えると、愛染明王はまったく影の薄い存在と言わざるを得ません。しかし愛染明王の彫刻や絵画の遺品は意外と多くあって、奈良西大寺に蔵される叡尊上人ゆかりの重文像を始めとして鎌倉時代を中心に多数の名品が存在しています。興味のある人は至文堂発行の『日本の美術 376 愛染明王像』を見れば数々の名作が一覧できます。
愛染明王は密教の根本経典とされる『大日経』や『金剛頂経』には記載が無く、従って胎蔵・金剛両部曼荼羅の中にその姿を見出すことは出来ません。但し金剛界三十七尊中の金剛愛菩薩は、その所持する弓矢を以て人々の心の中にある真実に背く性向を射止める事をその誓願とし、愛染明王と同じ三昧に住していると説かれる事があります。
それでは此の明王を説く経典は何かと云えば、それは『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』、略して『瑜祇経』と称される密教経典です。本経は弘法大師空海によって初めて我が国にもたらされ、その後も恵運(えうん)・宗叡(しゅうえい)といった入唐八家(にっとうはっけ)の祖師によって将来されています。『瑜祇経』については後でまた言及します。
『瑜祇経』に関する本格的研究は早く台密(天台密教)の安然(あんねん。841-915頃)により行われ、その著『瑜祇経疏』三巻は台密を代表する優れた経典研究書の一つに数えられています。又た東密(東寺密教。空海系真言宗)の真寂法親王(886-927)は『瑜祇惣(そう)行記』を製作しました。
しかしその後平安中期を通じて本経に対する関心は薄れて、愛染明王を本尊とする修法すなわち愛染法も一部の真言僧によって細々と伝承されていたに過ぎなかったようです。そもそも弘法大師が『瑜祇経』を請来して以来白河天皇の時代に至るまで、愛染明王像の制作や同明王を本尊とする御修法(みしほ)について記した史料はほとんど存在していません。
それだけに天皇による法勝寺の愛染明王を本尊とする八角円堂の建立は、同明王に対する信仰のみならず密教史の上からも特筆すべき出来事であったと考えられます。
さて法勝寺金堂の供養では仁和寺御室の性信(しょうしん)入道親王(1005-1085)が証誠師を勤め、それに先立って御仏の開眼も行いましたが、『御室相承記』によれば性信は早くも延久二年(1070)五月八日に白河天皇の父後三条天皇の要請を受けて愛染王御修法を始めています。又た承保二年(1075)には性信の住房である仁和寺喜多院(北院)に白河天皇御願の三尺愛染王像が安置された事も知られている。その他にも晩年の永保三年(1083)十二月に法勝寺円堂の(愛染)護摩を始行するなど愛染法の興隆に大きく寄与した。性信は特に「大御室」(おおおむろ)と称されていますが、『覚禅抄』には「大御室愛染口伝」なる口決書からの引用も記されています。
この様に此の頃から天皇家の周辺で愛染明王に対する信仰が急速に深まりつつあった事が伺えますが、白河天皇の同明王に対する尊信の念は生涯を通じて衰えることがありませんでした。天皇は応徳三年(1086)に譲位して上皇となり、永長元年(1096)には出家して禅定仙院すなわち法皇になりました。当時の貴族の日記によれば天治二年(1124)五月25日、白河法皇は御所に於いて百体もの愛染王像を図絵して供養し、更に晩年の大治二年(1127)三月十二日には法勝寺の北に丈六愛染王三体と等身愛染王百体を本尊として安置した新造の御堂を供養している。
一方、当時の摂政藤原忠実も熱心な愛染明王の信者であった事が伺えます。忠実の日記『殿暦』には同明王に関する記事が多く見られるが、興味深く思われるのは忠実自身の為には勿論、時には白河法皇の御為に愛染法を修しています。例えば天仁二年(1109)正月26日に当時鳥羽天皇の摂政であった忠実は法皇の御祈りの為に十体の愛染王像を造立し、又た同年七月28日には法皇の為に愛染王法を始めている。
忠実の愛染信仰を示す例として他にも醍醐寺蓮蔵院の愛染王像を挙げることが出来ます。『醍醐雑事記』巻四によれば当時蓮蔵院は富家(ふけ)入道殿と称された藤原忠実の御祈願所であり、そこに安置されていた半丈六の愛染王像は忠実が夢の中に見た明王の姿をそのまま写したものであった。猶お蓮蔵院は醍醐寺境内の北側にあって鎌倉後期には報恩院流の拠点寺院として栄えましたが、残念ながら廃絶して今はありません。

(3)後三条天皇の即位と愛染法 その1
院政期にはそれまで見られなかった種々の仏菩薩あるいは明王諸天を本尊とする修法が興隆し、また真言事相の名匠が輩出して数多(あまた)の口決が生み出され、その結果小野・広沢両流ともに諸流・諸方に分化する傾向が生じました。(小野流は醍醐寺、広沢流は仁和寺を中心とする真言法流。台密に於いても同じく諸流に分化したが、その事に関する研究は非常に遅れている。)
白河天皇による法勝寺円堂すなわち愛染堂の建立はこの様な密教修法の新時代の始まりを示すものであり、愛染法の興隆はその後に続く諸尊法隆盛の先駆けを成したと云えようか。ところで白河院(法皇)は特に珍奇なるものを好む傾向があったらしく、例えば如意宝珠の収集に随分と熱心であった事が知られている。また法皇の護持僧として信任の厚かった範俊僧正の勧めを受け入れて、それまで誰も見たことが無い六字明王の丈六像七体を制作してそれを法勝寺の薬師堂に安置したりしている。しかし白河院の愛染明王に対する信仰はそのような奇抜な物を好む性癖に端を発するものでは無く、父帝後三条天皇の即位にまつわる経緯と密接に関係しているらしいのです。以下その事を少し詳しく見てみましょう。
後三条天皇(1034―73)は諱(いみな)すなわち名前を尊仁(たかひと)と云い、後朱雀天皇を父、禎子内親王を母として生まれました。後朱雀天皇は一条天皇の皇子、禎子内親王は三条天皇の皇女です。又た尊仁親王には異母兄の皇太子親仁(ちかひと1025-68)がいて、此の人は後朱雀天皇の次に後冷泉天皇に成りました。後冷泉天皇の母親は藤原嬉子で御堂関白道長の娘です。
さて寛徳二年(1045)に後朱雀天皇は死に臨んで皇太子親仁が新帝として即位する際に尊仁が皇太弟(皇太子)と成るように配慮しました。こうして兄の後冷泉天皇の下で尊仁は次期天皇の地位にありましたが、時の実力者関白藤原頼通は此の事を好ましく思っていませんでした。
元来、道長・頼通父子の家系である藤原北家が摂政・関白の地位を独占して政治の実権を握り続けることが出来たのは、娘達が入内(じゅだい)して皇子を生み、その皇子達が若くして天皇となった時に外戚として大きな影響力を行使することが出来たからです。従って平安時代中期を通じて朝廷に於いて絶大なる権力を謳歌した藤原摂関家と云えども、若し入内した娘達がうまい具合に皇子を生まなければ忽ち権勢を失う恐れがあった。
頼通の場合、寛仁元年(1017)に弱冠26歳で摂政と成って以来、後一条・後朱雀・後冷泉三代の天皇にわたって摂政・関白の座にあったが、入内した娘達は皇子を生んでいなかった。しかも皇太子尊仁には直接藤原氏の血が入っていなかったから、若し頼通の娘に皇子が誕生すれば頼通が尊仁を廃して新皇太子を立てる事は憶測に難くない。何れにしろ後冷泉天皇が譲位して皇太子尊仁が即位する見込みは殆んど無かったと云えます。

(4)後三条天皇の即位と愛染法 その2
こうして尊仁親王は二十余年の長きにわたって皇太弟の地位に留まっていましたが、治暦四年(1068)四月十九日に兄の天皇は突然に崩御(死亡)して、ここに後三条天皇の即位が実現しました。しかし当時の貴族社会に於いては呪詛・調伏が盛行していたと伝えられ、後冷泉天皇の予期せぬ死に対しても不穏な噂が語られるようになりました。それは皇太弟が護持僧の成尊(せいぞん 1012―74)に命じて天皇を降伏(ごうぶく)したと云うもので、時代が下がると此の説は当然の事として世間に受け入れられ、多くの書物が此の事を書き記してきました。またその際に成尊が行った修法は、愛染明王を本尊とした降伏法であったとされています。
小野僧都と称された成尊はその法験を謳われた小野僧正仁海の弟子で、師が開創した小野曼荼羅寺に住んでいました。小野の地は醍醐の北に隣接し、小野妹子や小野小町で有名な小野氏ゆかりの土地ですが、仁海や成尊が小野氏の出身と云う訳ではありません。また仁海・成尊は醍醐寺僧であり、曼荼羅寺が当時の醍醐寺境内の北端であったと考えられます。
成尊が後冷泉天皇を降伏した事に付いて記す早い例として、理性房賢覚(げんかく)の口説を弟子の宗命(しゅうみょう)が記した『対聞記』に、
久安五年(1149)九月一日〔物語のついでに伝授して下さった〕
今は亡き成尊僧都は後三条院が春宮(皇太子)の時の御持僧(護持僧)として後冷泉院を調伏なされたが、その時には愛染王法を修されたのである。明王の「彼を持せしめよ」の手には薄様(うすよう)紙に書状を書いてお持たせになった。其の書状には「アビシャロキャ親仁ヤ、ソワカ」(親仁を降伏すること成就せしめ給え)と書いて、「彼を持せしめよ」の手の中に籠められたのである。その時の本尊は今も小野曼荼羅寺に現存している云々。そうして後冷泉院はお亡くなりになった云々。
等とかなり具体的に述べている。「彼を持せしめよ」の手のこと等はまた次章で説明します。猶お賢覚は醍醐三流の一つ理性院流の開祖として非常に有名ですが、宗命もその写瓶(しゃびょう)の弟子として当時著名の真言僧です。
『覚禅鈔』と並んで真言修法の百科全書として有名な書に台密の承澄僧正(1205-82)作『阿娑縛(あさば)抄』がありますが、此の事に関する記述はよくまとまっていて物語としての完成度も高いので以下に紹介します。(既に速水侑著『呪術宗教の世界』p.136に訳出があるので転載させて頂きます)
この法は、もともと東密の修法である。その理由については、他聞をはばかることなので、他にもらしてはいけない。後冷泉天皇の世、当時東宮であった後三条院の御前に、東宮護持僧の小野僧都成尊が祇候すると、ちょうど髪をくしけずっていた後三条は、白髪が一すじ落ちたのを成尊に示し、「お前は私のために、いつもどのような祈祷をしているのか。これをみよ」と落涙した。成尊は恐懼して、「護持僧の任にありながら、そのようなお気持とも存ぜず過してまいりました。身の暇を賜わり一心に祈願いたしましょう」と、そのまま本寺にひきこもり、七日間、愛染王法を修した。すると後冷泉天皇は、病気となってほどなく没し、後三条が即位した。後三条は在位わずか五年であったとはいえ、ともかく本意を成就したのである。成尊は「むげに心短かくおわす君かな」ともらしたそうだが、まことに法験のきわみといわねばならぬ。このことがあってから、愛染王法は多く東寺の人が修し、延暦寺では行なわない。かのときの像は、手は拳を作り上向きにして左乳のあたりにおく三尺の木像で、今に伝わっているという。(柴田注:真言のことなど一部省略されている)この霊験により、後三条は愛染王法に帰依し、成尊に学んでこれを白河院に授けた。白河院も深く信じて、法勝寺建立のとき、愛染王像を円堂(八角堂)に安置したのである。」

(5)愛染明王とその修法 その1
以上の事から後三条天皇の命によって大御室性信が愛染王御修法を始めた事、また白河天皇/法皇の時代に愛染明王に対する信仰が興隆した事の理由が納得して頂けたかと思う。勿論、母親を異にするとは云え皇太弟が兄の天皇を降伏(ごうぶく)した事など朝廷の記録に記されるはずも無いし、当時の貴族の日記にもそうした風聞(ふうもん)を書き記したものは残っていないが、前章で見た『対聞記』のように此の事は遅くとも鳥羽院政期には醍醐寺僧の間で公然の秘密になっていたと考えられる。
さて愛染明王の姿は、日輪すなわち太陽を背にした一面三目・六臂(ろっぴ)の赤色(しゃくしき)忿怒像で表されますが、以下に説明するように非常にユニークな特徴を具えています。
先ず月輪(がちりん)では無く日輪を背にしている事は他に類例を見ませんが、恐ろしい形相の忿怒明王像が赤色で表現される事も非常に珍しいと云えます。すなわち不動明王に代表される密教の明王像は普通青黒色(しょうこくしき)をしています。但し智証大師円珍が修行瞑想中に感得した黄不動や、同じく円珍が葛川の滝で修行中に出現したと伝える赤不動など特殊な例もありますが、是等は勿論経典の説に基づいたものではありません。
次に頭上には獅子の冠を戴き、その上に五股鉤(ごここう)を置いていますが、是については後で詳しく説明します。
六臂すなわち腕が六本あって、基本の一対は金剛薩埵と同じく左手に五股金剛鈴、右手に五股金剛杵を持ち、此の事は愛染明王が金剛薩埵の変化身であることを示唆していると考えられます。次の一対の手は弓箭を持ち、是は金剛愛菩薩との関連を想起させますが、金剛愛は弓を持たずに両手で箭/矢だけを持っています。最後の一対の手が問題で、愛染明王に関する秘密口決の多くが是と関わっています。今はとにかく右手に蓮花を持ち、左手は「彼」を持つとだけ言っておきます。此の「彼の手」についても後で説明します。
また愛染王は忿怒身の明王でありながら大赤蓮華に座し、しかも蓮華座の下に宝瓶(ほうびょう)があって種々の宝が溢れ出ています。
それでは此の様な愛染明王の姿は何なる経典に説かれているのかと云えば、それは最初にも述べたように『瑜祇経』です。詳しくは『瑜祇経』の第五章「愛染王品」に於いて、金剛手菩薩(金剛薩埵)が世尊(せそん/仏)に対して画像法を説かんことを請う一節に次のように記されています。
愛染金剛は 身体の色が太陽の暉(かがやき)のようで 燃え盛る日輪に住している 三つの眼は威厳と忿怒に満ちて 頭上には獅子の冠があり 鋭い髪の毛は怒りに逆立っている 又た五股鉤を以てその獅子の頂に置け 五色の華鬘(けまん)を垂らし 天帯が耳を覆っている 左手に金剛鈴を持ち 右手には五峯の杵(五股金剛杵)を執(と)る その姿は金剛薩埵に似て 衆生の世界に利益を施している 次の左手には金剛弓があり 右に金剛箭を執る 星々が光の矢を射る如く速やかに 大いなる染法(ぜんぽう/執着心)を成就するのである 左の下(しも)の手には彼を持せしめよ 右の蓮(はちす)を以てまさに打たんとす 一切の悪心ある者どもを 速やかに滅ぼすことは疑いようが無い 種々の花々を糸で貫いた華鬘を結び合わせ 以て身を厳(かざ)り 結跏趺坐(けっかふざ)して 赤色の蓮の上に住している その蓮の下には宝瓶があり 口元から両方に諸々の宝が溢れ出ている」


(6)愛染明王とその修法 その2
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