続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介

醍醐寺の意教上人頼賢が相承した立川流に付いてその弟子公然が記した文書を使って解説します。柴田賢龍

現代語訳『阿闍梨位印口伝〔私〕』

2009-12-04 23:34:36 | Weblog
ホームページを開設してから一年以上が経過し、お陰さまで閲覧数も大分と増えてきています。しかし当初は研究者を読者に想定したブログから出発した為に、「内容には興味があるけれど難しすぎて読めない」という意見を多く頂きました。私自身も出来るだけ多くの一般の方々が密教の世界に関心を持つようになってほしいと願っており、今まで発表した記事の中で史料紹介が国訳(読み下し文)のままに成っている分を現代語訳にする必要を感じています。特に此の『阿闍利位印口伝〔私〕』は密教事相の単一の口伝としてはかなり長大なもので、常日頃から口決類に慣れ親しんでいるのでなければ読解が困難であろうと思われます。そうした事を考慮して出来るだけ平易な言葉を使って、一部に()で解説を挿入しながら現代語訳を試みました。一読をお願いします。(平成21年12月吉日)

現代語訳『阿闍利位印口伝〔私〕』

本文
文永九年〔壬申〕(1272)七月十六日、高野山禅定院の中にある安養院に於いて意教上人から伝授を受け奉った。上人が次のように云われた。
(「禅定院」は金剛三昧院の異称、或いはその一部)
「此の口決は閉眼の大事と名付けられている。最極(さいごく)大事、すなわち数ある口伝の中でも最も大事にすべきものであるから無闇と授けるような事はしない。病床に於いていよいよ死が差し迫った時、最後に是を授けるものなのである。
相承次第
源仁―聖宝―観賢―淳祐―元杲 仁海 成尊(この次に義範・範俊)
―義範―勝覚―定海―元海―実運―勝賢―成賢(この次に道教・頼賢)
       仁寛〔左大臣アジャリ〕
―範俊―良雅―定海―
―道教(は以下記載なし)。
―頼賢(の次に)憲静・真敒・公然〔大納言、権少僧都〕
(「仁寛」は醍醐流仁寛方すなわち真言立川流の祖。勝覚の潅頂弟子ですが、実の弟でもあります。後文で仁寛とその法流について言及があります。)
此の口決の本説は瑜祇経の阿闍利位品と仏眼品(金剛吉祥品)にある。阿闍利位品の印に付いて説明すると、先ず左右の肘(ひじ)を曲げて手を上向きにし、合掌して肩の高さと等しくする。〔そうして真言一遍を誦す。〕(オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウンウン)次に左右の薬指と中指を曲げて掌(たなごころ)の中に入れる。〔又一遍真言を誦す。〕そうすると体全体が三股杵(さんこしょ)の形に成る。すなわち首(こうべ)と人差し指と小指が三股の各股に相当するのである。此の印を三部総摂(そうしょう)阿闍利位印と名付ける。
次に両手を開く。〔又一遍真言を誦し、続けてウンウン・タラクタラク・キリクキリク・アクアク・バンバン(原梵字)と唱え継ぐ。〕今度は体全体が五股杵と成る。(即ち左右の小指と左右の人差し指、それに首を合わせて五股と成る。)〔右の小指にウンウン、右の人差し指にタラクタラク、左の小指にキリクキリク、左の人差し指にアクアク、首の頂きにバンバンである。〕此の印は五部都法(とほう)阿闍利位印である。
(余計な事かも知れませんが少し説明を加えます。前の「三部総摂」とは胎蔵曼荼羅、後の「五部都法」とは金剛界曼荼羅を意味します。三部とは仏部・蓮華部・金剛部、五部とは仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部の事です。従って今の印には胎蔵と金剛の両部不二(ふに)の大阿闍利という意が内包されていると云う事ができます。)
此の五股の印の上に、秘教(瑜祇経)序品の三十七尊の種子(しゅじ)・三昧耶形・羯磨形等を観想すべきである。その時、諸尊の上下・優劣等を無視して横断的に観想すれば自身はまさしく独一なる法身(ほっしん)全体であり、又修行して覚りを開くという竪(たて)の見方をすれば本来自身に具わっている仏性(ぶっしょう)としての三十七尊である。心を尽くしてよくよく此の事を観念すべきである。その後しばらくして無分別観に入る。今述べた三十七尊観とは心数(しんじゅ)の諸尊、すなわち諸仏・諸菩薩の三摩地であり、無分別観に住するのは心王大日如来の三摩地である。
(心の働きの個別的・具体的な側面を心数と云い、それを支える全体的・統合的な心の本体を心王と云います。仏の大悲心と云えども、それが具体的・個別的である限り、それは心数の働きです。)
摂真実経に次のように云う。若し瑜伽(ゆが)の行すなわち真言秘密の行を修している人で、本尊の加持力による顕著な修行の成果を獲得できていないのであれば、まさに三十七尊の姿形(すがたかたち)を観想しなさい。若し修行が成就したのであれば、その後は具体的な形状を観想することを止め、唯ひたすら無上大菩提心に住しなさい。
(「三十七尊」という言葉がよく出ますが、是は金剛界曼荼羅の枢要を体現している三十七尊の事で瑜祇経序品の三十七尊も是に準じます。即ち大日如来とその四方の四仏にそれぞれ四親近(ししんごん)菩薩がありますから(1+4)×(1+4)=25尊と成り、それに八供養菩薩と四摂(ししょう)菩薩の12尊を加えて25+12=37尊と成ります。但し瑜祇経序品の三十七尊の種子は、金剛頂経に説く常の三十七尊の種子とは異なります。)
これ以上の詳しい口決は実際に阿闍利に面会して伝授を受ける必要がある。これ以上具体的に言葉で述べてそれを記す事は出来ないのである。
次に手に定印を結び、月輪観(がちりんかん)を修すのである。即ち胸の前に於いて定印の上に月輪を観想する。その月輪の中に八字の真言(梵字)を廻(めぐ)らせる。初めの五字は金剛界五部の種子(バン・ウン・タラク・キリク・アク)、後の三字は胎蔵三部の種子(ア・サ・バ)である。一月輪の中に於いて此の九つの種子を観想すれば、三部と五部の全体は両部不二である。法界は唯この一月輪の中に表出されていて、唯明るく輝くのみで他に一物として存在しない。こうして不二無相の観門に入り、表現すべき言葉とて無く、心に思い描く何ものとて無くなってしまうのである。「因論生論」(此の四文字は後文中の公然法眼の注記に依れば、意教上人が此の口伝の記述を見て自分の教えが正しく書き記されている事を保証する為に、上人自ら書き入れたものです。)
此の表現すべき言葉も無く、心に思い描く何ものも無い状態を大空三昧と名付ける。空(くう)と云うからと云って全く何も存在しないと主張しているのでは無い。むしろ真実の世界がありありと現出して、世界の本質と現象が同時に統一して認識されるのである。世界の本質である一なるものと多なる現象とが何の妨げも無く融通しあい、それらは総て地水火風空識なる六大から生み出されている。ところが凡夫は自らの直接の利害にのみ執着する為に総てを別々に差別して分け隔てし、総てのものが六大法身であり無相の全体に包摂されている事を知らない。自分中心の心情のままに是非の判断をし、取捨選択する事を戒(いまし)め嫌うのである。
表現すべき言葉なく、思い描く何ものも無い心は覚りの世界の境地である。此の境地に入れば、その後は無印無明(明ミョウとは真言のこと)と教え伝えられている。是もまた印真言が全く無いと云う訳ではない。経典・儀軌に説かれている印を結び、真言を誦せと強いて云わない事を無印無明と云ったのである。無相無念の観想法門に住するようになれば、その後は手を挙げたり足を動かしたりする身体の動作は皆秘密印であり、正しいけれどもきつい言葉も穏やかで柔和(にゅうわ)な言葉も皆真言と成って、一切の世界が仏の大菩提に通じる道と成るのである。此の事をよくよく考え思いを凝らすべきである。これらは胸中に念じて詳しく理解すべき事柄であり、文章にして書き記す事は出来ない。
初めの印すなわち三部総摂阿闍利位印には今一つの深秘(じんぴ)の教えが伝えられている。是は最極(さいごく)秘密の口伝である。小野大乗院の良雅(―1089―1122)が醍醐三宝院の定海(1074―1149)に授けた作法である。それは三部総摂印の両方の中指と薬指をそれぞれ絞り交えるのである。これら四本の指は即ち五秘密菩薩の中の欲・触(そく)・愛・慢四菩薩である。此の印は則ち金剛薩埵の三摩地そのものである。
五秘密儀軌に次のように云う。金剛薩埵の三摩地を名付けて一切諸仏法と為す。此の法によって諸仏の教説を正しく成就する事が出来る。此の法を無視して別に仏の覚りがある訳ではない、と。此の経文の深い意味も亦文章にして述べる事が非常に困難である。」

以上、上人が説き明かされた教えの趣旨は大体このようなものであった。このような最も秘密にすべき大事の口決を顕露に書き記す事は、仏菩薩や大師・先徳がどのようにお考えに成るか、或いは世間の人達からどのような批判を受けるか大変恐れ多い事ではあるが、若しや忘れてしまった時の為に何とか要点を書き留めた次第である。
同年(文永九年1272)八月三日、此の私記を意教上人の御覧に入れた。上人からは自らの考えと相違する所が無いとして再三お褒めの言葉に与(あずか)った。その時上人は此の私記の中に「因論生論」の四字をお書き入れになり証明とされたのである。又上人が言われるのに、「此の私記は自分の教えを間違いなく記したものとして模範にすべきであろう。此の私記はどんな事があっても紛失するような事があってはいけない。人が自分の眼(まなこ)の瞳(ひとみ)を大事にする如くにすべきである云々」。上人の貴い御命令は心の奥底にまでしみ入った。そこで潅頂印信を添えて誰にも云わず、密かに箱の底に納め入れたのである。
 法眼公然が之を記した。
  文章を校正した。

(以下の文章は紙背に書き記されています)
後日に上人が以下の如く語られた。此の阿闍利位印の口伝を先師成賢僧正から伝受した時に僧正が語って次のように言われた。「此の口伝は伊豆阿闍利仁寛(蓮念 ―1083―1114)も三宝院権僧正勝覚(1057―1129)から伝受した事が明らかである。それで仁寛の流を相承している人達に此の阿闍利位印の事を質問したところ、実際此の印信を伝えていたのであった。印信の文章は少し文字が前後したり相違したりする点があった。此の事に付いて考えたのであるが、仁寛阿闍利が罪に処されて伊豆に下向した時、書籍は一巻も携行していなかった。従って彼の地では諸尊法も印信の類も総て胸臆に任せて、即ち記憶に頼って書き記したであろう。そう考えると疑念も氷解した。印信の文字が少し違うのも無理は無い。仁寛阿闍利は人並み外れて頭のいい人であった。従って受法内容なども大概は空で憶えていた云々。」
自分(意教上人)は此の物語が気になって忘れる事が出来なかったので、先師僧正が御入滅なされた後で仁寛の法流を尋ねて随分と受法に努めたのである。その結果、遂に仁寛方の阿闍利位印信を得て(自分が成賢僧正からから伝受した印信と)校合したところ、印信の「故和尚(わじょう)云く」以下の文字が少々前後して乱れていた云々。
   後日に追って之を記した。  公然

後日に上人が以下の如くお話になった。
弘法大師が大唐に於いて貞元二十一年(805)八月上旬にお受けになった(第三度の)潅頂とは此の阿闍利位の事である。
大師の『御請来目録』に「阿闍利位を受けること一度」と云うのは即ち此の事である。よくよく是について思念すべきである。
又次のようにお話しになった。(此の阿闍利位の作法は)初めには印を以って三部・五部・不二の教えをアラワシ、後に真言を以って五部・三部・不二の教えを示すのである。此の前後の作法が互いに示し合って不二の教えを明らかにするのである。
   重ねて又之を記した。   公然

是より以下は、
意教上人が越州(福井・富山・新潟県)に下向なされる時、途中で上醍醐に参籠なされたが、その時に私が質問した事柄を記した。
後日に上人に対して以下の質問をした。
(阿闍利位の作法について)初めに印を以って三部・五部を示すという教えは明白ですが、最初に合掌するのはどういう意味があるのでしょう。
上人が次のように言われた。是は本三摩耶の印である。此の事に関しては先師成賢僧正から明白な口伝を相承した訳では無いけれども、是を案ズルニ、不二の極位を表すのであろうか。先ず不二無相を示し、その上に三部(胎蔵)・五部(金剛界)の位を顕示するのである。
弘法大師の『般若心経秘鍵』に「金剛・胎蔵両部の教えは本来一つであるが(人々の資質等に相違があるから、それに応じて)手を分けて金剛界と大悲胎蔵の二つの法門を指し示す」と云うが、此の文を思い合わせるべきである云々。
又上人に対して質問をした。
(伝法潅頂に際して)阿闍利位の印を前もって受者加持の時に授けるのは如何(いかが)なものでしょう。カカル深極秘密の印を入壇以前の受者に授ける事は、とても納得することが出来ません。
上人が言われた。受者は此の秘印の重要性について知ってはいないのであるが、大阿闍利は受者のことを考えて慈悲心から功徳を被(こうむ)らせて罪障を消滅させ、無事に入壇潅頂を果たして仏法の継承者と成れるようする。その為にあらかじめ阿闍利位印を授けるのである。
   重ねて又之を記した。  公然

〈解説〉
此の『阿闍利位印口伝〔私〕』に関しては既に前の記事でも解説を載せましたが、少し視点を変えて再度簡単に説明を加えます。
此の「阿闍利位印」の印信は、「天長の印信」と称して弘法大師が実恵僧都と真雅僧正に授けたとされる数種の印信の中にあります。それは天長二年(825)三月五日に東寺に於いて大師が真雅に授けたと記すもので、両部印明の中金剛界は瑜祇経の「摂(しょう)一切如来大阿闍利位品」に説く印と真言(オン・バザラソキシマ・マカサトバ・ウンウン)、胎蔵界は同経の「金剛吉祥大成就品(仏眼品)」に説く「成就大悲胎蔵八字真言」(アクビラウンケン・ウン・キリク・アク)とその印であり、大日経や金剛頂経ではなく全く瑜祇経に基づいた潅頂印信です。
上の私記本文の口決からも窺われるように、東密小野流では鎌倉時代の中期以降此の「阿闍利位の印信」の伝授が盛行し、遂には是を一宗の眼目と考える傾向まで生じました。ただ是に付随する口伝の内容に関しては流派により一定せず、場合に依っては伝授阿闍利の個人的な意向や考え方が強く反映される事もあって、必ずしも厳密な師資相承に依ると言えないのは当然でしょう。その中でも五股印に瑜祇経序品に説く三十七尊を観想する口伝について少し説明します。
先ず五股印は、此の私記に明かす「三部総摂印」を開いて五股とする印よりは外五股印を用いる方が一般的だと思います。三十七尊の観想については「大師御筆の法性不二(ほっしょうふに)塔」、いわゆる「瑜祇塔」の絵図の相伝があり、是に基づいて観想するのが正統とされて来たようです。此の塔は常の多宝塔の屋根の上部に、中央の相輪(九輪)に加えて四隅に独股杵(とっこしょ)を立て、それら五峯の周辺に三十七尊の種子を配した図様と成っています。塔の内部に胎蔵曼荼羅の中台八葉の諸尊を安置して、塔の全体で両部不二の塔婆と成ります。此の瑜祇塔の図は普通金剛王院流の相伝とされていますが、血脈類をよく検べてみますと、実には金剛王院流の開祖とされる三密房聖賢(1083―1147)が子島流の房覚から相伝したもののようです。
猶高野山の伽藍地区にある龍光院(中院)は古来此の瑜祇塔がある事で有名でした。伝承によれば弘法大師の弟子の真然大徳(804―91)が大師の遺志を継いで貞観十二年(870)に建立したものですが、残念ながら永正十八年(1521)二月の高野一山の大火災で焼失しました。その後も再建を繰り返して現在に至っています。

(以上)