続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介

醍醐寺の意教上人頼賢が相承した立川流に付いてその弟子公然が記した文書を使って解説します。柴田賢龍

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2023-09-13 19:21:05 | Weblog
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現代語訳『阿闍梨位印口伝〔私〕』

2009-12-04 23:34:36 | Weblog
ホームページを開設してから一年以上が経過し、お陰さまで閲覧数も大分と増えてきています。しかし当初は研究者を読者に想定したブログから出発した為に、「内容には興味があるけれど難しすぎて読めない」という意見を多く頂きました。私自身も出来るだけ多くの一般の方々が密教の世界に関心を持つようになってほしいと願っており、今まで発表した記事の中で史料紹介が国訳(読み下し文)のままに成っている分を現代語訳にする必要を感じています。特に此の『阿闍利位印口伝〔私〕』は密教事相の単一の口伝としてはかなり長大なもので、常日頃から口決類に慣れ親しんでいるのでなければ読解が困難であろうと思われます。そうした事を考慮して出来るだけ平易な言葉を使って、一部に()で解説を挿入しながら現代語訳を試みました。一読をお願いします。(平成21年12月吉日)

現代語訳『阿闍利位印口伝〔私〕』

本文
文永九年〔壬申〕(1272)七月十六日、高野山禅定院の中にある安養院に於いて意教上人から伝授を受け奉った。上人が次のように云われた。
(「禅定院」は金剛三昧院の異称、或いはその一部)
「此の口決は閉眼の大事と名付けられている。最極(さいごく)大事、すなわち数ある口伝の中でも最も大事にすべきものであるから無闇と授けるような事はしない。病床に於いていよいよ死が差し迫った時、最後に是を授けるものなのである。
相承次第
源仁―聖宝―観賢―淳祐―元杲 仁海 成尊(この次に義範・範俊)
―義範―勝覚―定海―元海―実運―勝賢―成賢(この次に道教・頼賢)
       仁寛〔左大臣アジャリ〕
―範俊―良雅―定海―
―道教(は以下記載なし)。
―頼賢(の次に)憲静・真敒・公然〔大納言、権少僧都〕
(「仁寛」は醍醐流仁寛方すなわち真言立川流の祖。勝覚の潅頂弟子ですが、実の弟でもあります。後文で仁寛とその法流について言及があります。)
此の口決の本説は瑜祇経の阿闍利位品と仏眼品(金剛吉祥品)にある。阿闍利位品の印に付いて説明すると、先ず左右の肘(ひじ)を曲げて手を上向きにし、合掌して肩の高さと等しくする。〔そうして真言一遍を誦す。〕(オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウンウン)次に左右の薬指と中指を曲げて掌(たなごころ)の中に入れる。〔又一遍真言を誦す。〕そうすると体全体が三股杵(さんこしょ)の形に成る。すなわち首(こうべ)と人差し指と小指が三股の各股に相当するのである。此の印を三部総摂(そうしょう)阿闍利位印と名付ける。
次に両手を開く。〔又一遍真言を誦し、続けてウンウン・タラクタラク・キリクキリク・アクアク・バンバン(原梵字)と唱え継ぐ。〕今度は体全体が五股杵と成る。(即ち左右の小指と左右の人差し指、それに首を合わせて五股と成る。)〔右の小指にウンウン、右の人差し指にタラクタラク、左の小指にキリクキリク、左の人差し指にアクアク、首の頂きにバンバンである。〕此の印は五部都法(とほう)阿闍利位印である。
(余計な事かも知れませんが少し説明を加えます。前の「三部総摂」とは胎蔵曼荼羅、後の「五部都法」とは金剛界曼荼羅を意味します。三部とは仏部・蓮華部・金剛部、五部とは仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部の事です。従って今の印には胎蔵と金剛の両部不二(ふに)の大阿闍利という意が内包されていると云う事ができます。)
此の五股の印の上に、秘教(瑜祇経)序品の三十七尊の種子(しゅじ)・三昧耶形・羯磨形等を観想すべきである。その時、諸尊の上下・優劣等を無視して横断的に観想すれば自身はまさしく独一なる法身(ほっしん)全体であり、又修行して覚りを開くという竪(たて)の見方をすれば本来自身に具わっている仏性(ぶっしょう)としての三十七尊である。心を尽くしてよくよく此の事を観念すべきである。その後しばらくして無分別観に入る。今述べた三十七尊観とは心数(しんじゅ)の諸尊、すなわち諸仏・諸菩薩の三摩地であり、無分別観に住するのは心王大日如来の三摩地である。
(心の働きの個別的・具体的な側面を心数と云い、それを支える全体的・統合的な心の本体を心王と云います。仏の大悲心と云えども、それが具体的・個別的である限り、それは心数の働きです。)
摂真実経に次のように云う。若し瑜伽(ゆが)の行すなわち真言秘密の行を修している人で、本尊の加持力による顕著な修行の成果を獲得できていないのであれば、まさに三十七尊の姿形(すがたかたち)を観想しなさい。若し修行が成就したのであれば、その後は具体的な形状を観想することを止め、唯ひたすら無上大菩提心に住しなさい。
(「三十七尊」という言葉がよく出ますが、是は金剛界曼荼羅の枢要を体現している三十七尊の事で瑜祇経序品の三十七尊も是に準じます。即ち大日如来とその四方の四仏にそれぞれ四親近(ししんごん)菩薩がありますから(1+4)×(1+4)=25尊と成り、それに八供養菩薩と四摂(ししょう)菩薩の12尊を加えて25+12=37尊と成ります。但し瑜祇経序品の三十七尊の種子は、金剛頂経に説く常の三十七尊の種子とは異なります。)
これ以上の詳しい口決は実際に阿闍利に面会して伝授を受ける必要がある。これ以上具体的に言葉で述べてそれを記す事は出来ないのである。
次に手に定印を結び、月輪観(がちりんかん)を修すのである。即ち胸の前に於いて定印の上に月輪を観想する。その月輪の中に八字の真言(梵字)を廻(めぐ)らせる。初めの五字は金剛界五部の種子(バン・ウン・タラク・キリク・アク)、後の三字は胎蔵三部の種子(ア・サ・バ)である。一月輪の中に於いて此の九つの種子を観想すれば、三部と五部の全体は両部不二である。法界は唯この一月輪の中に表出されていて、唯明るく輝くのみで他に一物として存在しない。こうして不二無相の観門に入り、表現すべき言葉とて無く、心に思い描く何ものとて無くなってしまうのである。「因論生論」(此の四文字は後文中の公然法眼の注記に依れば、意教上人が此の口伝の記述を見て自分の教えが正しく書き記されている事を保証する為に、上人自ら書き入れたものです。)
此の表現すべき言葉も無く、心に思い描く何ものも無い状態を大空三昧と名付ける。空(くう)と云うからと云って全く何も存在しないと主張しているのでは無い。むしろ真実の世界がありありと現出して、世界の本質と現象が同時に統一して認識されるのである。世界の本質である一なるものと多なる現象とが何の妨げも無く融通しあい、それらは総て地水火風空識なる六大から生み出されている。ところが凡夫は自らの直接の利害にのみ執着する為に総てを別々に差別して分け隔てし、総てのものが六大法身であり無相の全体に包摂されている事を知らない。自分中心の心情のままに是非の判断をし、取捨選択する事を戒(いまし)め嫌うのである。
表現すべき言葉なく、思い描く何ものも無い心は覚りの世界の境地である。此の境地に入れば、その後は無印無明(明ミョウとは真言のこと)と教え伝えられている。是もまた印真言が全く無いと云う訳ではない。経典・儀軌に説かれている印を結び、真言を誦せと強いて云わない事を無印無明と云ったのである。無相無念の観想法門に住するようになれば、その後は手を挙げたり足を動かしたりする身体の動作は皆秘密印であり、正しいけれどもきつい言葉も穏やかで柔和(にゅうわ)な言葉も皆真言と成って、一切の世界が仏の大菩提に通じる道と成るのである。此の事をよくよく考え思いを凝らすべきである。これらは胸中に念じて詳しく理解すべき事柄であり、文章にして書き記す事は出来ない。
初めの印すなわち三部総摂阿闍利位印には今一つの深秘(じんぴ)の教えが伝えられている。是は最極(さいごく)秘密の口伝である。小野大乗院の良雅(―1089―1122)が醍醐三宝院の定海(1074―1149)に授けた作法である。それは三部総摂印の両方の中指と薬指をそれぞれ絞り交えるのである。これら四本の指は即ち五秘密菩薩の中の欲・触(そく)・愛・慢四菩薩である。此の印は則ち金剛薩埵の三摩地そのものである。
五秘密儀軌に次のように云う。金剛薩埵の三摩地を名付けて一切諸仏法と為す。此の法によって諸仏の教説を正しく成就する事が出来る。此の法を無視して別に仏の覚りがある訳ではない、と。此の経文の深い意味も亦文章にして述べる事が非常に困難である。」

以上、上人が説き明かされた教えの趣旨は大体このようなものであった。このような最も秘密にすべき大事の口決を顕露に書き記す事は、仏菩薩や大師・先徳がどのようにお考えに成るか、或いは世間の人達からどのような批判を受けるか大変恐れ多い事ではあるが、若しや忘れてしまった時の為に何とか要点を書き留めた次第である。
同年(文永九年1272)八月三日、此の私記を意教上人の御覧に入れた。上人からは自らの考えと相違する所が無いとして再三お褒めの言葉に与(あずか)った。その時上人は此の私記の中に「因論生論」の四字をお書き入れになり証明とされたのである。又上人が言われるのに、「此の私記は自分の教えを間違いなく記したものとして模範にすべきであろう。此の私記はどんな事があっても紛失するような事があってはいけない。人が自分の眼(まなこ)の瞳(ひとみ)を大事にする如くにすべきである云々」。上人の貴い御命令は心の奥底にまでしみ入った。そこで潅頂印信を添えて誰にも云わず、密かに箱の底に納め入れたのである。
 法眼公然が之を記した。
  文章を校正した。

(以下の文章は紙背に書き記されています)
後日に上人が以下の如く語られた。此の阿闍利位印の口伝を先師成賢僧正から伝受した時に僧正が語って次のように言われた。「此の口伝は伊豆阿闍利仁寛(蓮念 ―1083―1114)も三宝院権僧正勝覚(1057―1129)から伝受した事が明らかである。それで仁寛の流を相承している人達に此の阿闍利位印の事を質問したところ、実際此の印信を伝えていたのであった。印信の文章は少し文字が前後したり相違したりする点があった。此の事に付いて考えたのであるが、仁寛阿闍利が罪に処されて伊豆に下向した時、書籍は一巻も携行していなかった。従って彼の地では諸尊法も印信の類も総て胸臆に任せて、即ち記憶に頼って書き記したであろう。そう考えると疑念も氷解した。印信の文字が少し違うのも無理は無い。仁寛阿闍利は人並み外れて頭のいい人であった。従って受法内容なども大概は空で憶えていた云々。」
自分(意教上人)は此の物語が気になって忘れる事が出来なかったので、先師僧正が御入滅なされた後で仁寛の法流を尋ねて随分と受法に努めたのである。その結果、遂に仁寛方の阿闍利位印信を得て(自分が成賢僧正からから伝受した印信と)校合したところ、印信の「故和尚(わじょう)云く」以下の文字が少々前後して乱れていた云々。
   後日に追って之を記した。  公然

後日に上人が以下の如くお話になった。
弘法大師が大唐に於いて貞元二十一年(805)八月上旬にお受けになった(第三度の)潅頂とは此の阿闍利位の事である。
大師の『御請来目録』に「阿闍利位を受けること一度」と云うのは即ち此の事である。よくよく是について思念すべきである。
又次のようにお話しになった。(此の阿闍利位の作法は)初めには印を以って三部・五部・不二の教えをアラワシ、後に真言を以って五部・三部・不二の教えを示すのである。此の前後の作法が互いに示し合って不二の教えを明らかにするのである。
   重ねて又之を記した。   公然

是より以下は、
意教上人が越州(福井・富山・新潟県)に下向なされる時、途中で上醍醐に参籠なされたが、その時に私が質問した事柄を記した。
後日に上人に対して以下の質問をした。
(阿闍利位の作法について)初めに印を以って三部・五部を示すという教えは明白ですが、最初に合掌するのはどういう意味があるのでしょう。
上人が次のように言われた。是は本三摩耶の印である。此の事に関しては先師成賢僧正から明白な口伝を相承した訳では無いけれども、是を案ズルニ、不二の極位を表すのであろうか。先ず不二無相を示し、その上に三部(胎蔵)・五部(金剛界)の位を顕示するのである。
弘法大師の『般若心経秘鍵』に「金剛・胎蔵両部の教えは本来一つであるが(人々の資質等に相違があるから、それに応じて)手を分けて金剛界と大悲胎蔵の二つの法門を指し示す」と云うが、此の文を思い合わせるべきである云々。
又上人に対して質問をした。
(伝法潅頂に際して)阿闍利位の印を前もって受者加持の時に授けるのは如何(いかが)なものでしょう。カカル深極秘密の印を入壇以前の受者に授ける事は、とても納得することが出来ません。
上人が言われた。受者は此の秘印の重要性について知ってはいないのであるが、大阿闍利は受者のことを考えて慈悲心から功徳を被(こうむ)らせて罪障を消滅させ、無事に入壇潅頂を果たして仏法の継承者と成れるようする。その為にあらかじめ阿闍利位印を授けるのである。
   重ねて又之を記した。  公然

〈解説〉
此の『阿闍利位印口伝〔私〕』に関しては既に前の記事でも解説を載せましたが、少し視点を変えて再度簡単に説明を加えます。
此の「阿闍利位印」の印信は、「天長の印信」と称して弘法大師が実恵僧都と真雅僧正に授けたとされる数種の印信の中にあります。それは天長二年(825)三月五日に東寺に於いて大師が真雅に授けたと記すもので、両部印明の中金剛界は瑜祇経の「摂(しょう)一切如来大阿闍利位品」に説く印と真言(オン・バザラソキシマ・マカサトバ・ウンウン)、胎蔵界は同経の「金剛吉祥大成就品(仏眼品)」に説く「成就大悲胎蔵八字真言」(アクビラウンケン・ウン・キリク・アク)とその印であり、大日経や金剛頂経ではなく全く瑜祇経に基づいた潅頂印信です。
上の私記本文の口決からも窺われるように、東密小野流では鎌倉時代の中期以降此の「阿闍利位の印信」の伝授が盛行し、遂には是を一宗の眼目と考える傾向まで生じました。ただ是に付随する口伝の内容に関しては流派により一定せず、場合に依っては伝授阿闍利の個人的な意向や考え方が強く反映される事もあって、必ずしも厳密な師資相承に依ると言えないのは当然でしょう。その中でも五股印に瑜祇経序品に説く三十七尊を観想する口伝について少し説明します。
先ず五股印は、此の私記に明かす「三部総摂印」を開いて五股とする印よりは外五股印を用いる方が一般的だと思います。三十七尊の観想については「大師御筆の法性不二(ほっしょうふに)塔」、いわゆる「瑜祇塔」の絵図の相伝があり、是に基づいて観想するのが正統とされて来たようです。此の塔は常の多宝塔の屋根の上部に、中央の相輪(九輪)に加えて四隅に独股杵(とっこしょ)を立て、それら五峯の周辺に三十七尊の種子を配した図様と成っています。塔の内部に胎蔵曼荼羅の中台八葉の諸尊を安置して、塔の全体で両部不二の塔婆と成ります。此の瑜祇塔の図は普通金剛王院流の相伝とされていますが、血脈類をよく検べてみますと、実には金剛王院流の開祖とされる三密房聖賢(1083―1147)が子島流の房覚から相伝したもののようです。
猶高野山の伽藍地区にある龍光院(中院)は古来此の瑜祇塔がある事で有名でした。伝承によれば弘法大師の弟子の真然大徳(804―91)が大師の遺志を継いで貞観十二年(870)に建立したものですが、残念ながら永正十八年(1521)二月の高野一山の大火災で焼失しました。その後も再建を繰り返して現在に至っています。

(以上)

続編

2008-04-06 07:06:55 | Weblog
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意教上人頼賢の立川流受法の師浄月上人を取り扱ったブログ「真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説」もあります。一見して下さい。

続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介

2008-03-23 03:53:42 | Weblog
続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)


金沢文庫には文永九年(1272)七月十六日の年記を有する表紙に『阿闍梨位印口伝〔私〕』と記された写本がありますが、是は醍醐寺の意教上人頼賢の弟子で大納言僧都と称された公然が高野山に於いて師の頼賢から受けた醍醐寺三宝院流の秘訣について記した文書です。此の中に立川流(醍醐仁寛方)に関する重要な言及があります。
意教房頼賢(1196-1273)は遍智院成賢僧正の潅頂弟子で将来を期待されていた人ですが、官僧として栄達を目指す途を去って遁世上人の人生を貫きました。また醍醐三宝院流意教方の祖として真言法流史の上で重要な人物です。先ずは和訳文を読んで下さい。その後で更に解説します。


『阿闍梨位印口伝〔私〕』
文永九年〔壬申〕七月十六日、高野山禅定院の安養院に於て伝受を奉わり畢んぬ。仰せ云く、是をば閉眼の大事と名く。最極大事たる間、左右無く之を授けず。病床に於て閉眼の尅、最後に之を授くべき故なり。
相承次第
源仁―聖宝―観賢―淳祐―元杲 仁海 成尊-義範―勝覚-定海―元海―
                           仁寛〔左大臣アサリ〕
                     ―範俊―良雅―
実運―勝賢―成賢―道教 ―憲静
         頼賢――真敒
            ―公然〔大納言権少僧都〕
此の事は瑜祇経阿闍梨位品・仏眼品より出だせり。阿闍梨位品の印に就きては、定恵の手を以て肘を屈して上に向け、合掌して肩と斉しくす。〔真言一反、之を誦す〕各の戒(右薬指)・方(左薬指)と忍(右中指)・願(左中指)を屈して掌に入れよ。〔又た一反、之を誦す〕挙体即ち三股杵の形なり。首と頭指(人差し指)と小指、是れ則ち三股の形なり。三部総摂阿闍梨位印と名く。二手を開け。〔又た一反、之を誦す。ウンウン・タラクタラク・キリクキリク・アクアク・バンバン(原梵字)と誦し継ぐなり。〕挙体即ち五股なり。〔右小指にウン々、右頭にタラク々、左小指にキリク々、左頭にアク々、首頭にバン々〕此れ則ち五部都法阿闍梨位印なり。五股の上に於て秘教序品の三十七尊の種(子)・三(昧耶形)・羯(磨形)等を観ずべきなり。横に之を観ずれば挙体即ち独一法身全体なり。竪に之を思えば本有自性の三十七尊なり。観念して能々心を尽して後、良(やや)久しくして無分別観に住すべし。謂う所の三十七尊観は心数(しんじゅ)の諸尊の三摩地なり。無分別観に住するは心王大日尊の三摩地なり。摂真実経に云く、若し瑜伽の行人にして未だ悉地を獲ざれば、応に三十七尊の相状を観ぜよ。若し悉地を証さば、相状を取らずに無上大菩提心に安立せよ。
委細は面受にあり。具に注すこと能わず。
次に定印を結び月輪観に住すべし。胸前の間、定印の上に月輪を観ずなり。中に於て八字明を旋布す。上五字は五部の種子、終三字は三部の種子なり。一月輪の中に於て種子を観ずれば、三部と五部の全体は不二なり。法界は唯だ一月輪にして、唯だ明朗ありて更に一物もなし。不二無相の観門に入りて言亡慮絶せよ。因論生論、言亡慮絶を以て大空三昧と名く。空と云えばトテ皆空の義にはアラズ。境々歴々として事理相い渉る。一多無碍にして皆な六大所生の法ナレドモ凡夫の有執により差別・隔歴して、境々悉く皆な六大法身、無相の全体なるコトヲ知らず。妄情の上に是非取捨する事を嫌うなり。言亡慮絶と云うは、証位の質なり。言亡慮絶の後は無印無明と習うなり。此は空無の義にアラズ。経軌に載する所の印を結び言を誦せよと取りワキ云わざるを、無印無明と云うなり。無相無念の観門に住する後は挙手動足皆な之れ密印、廉言耎言(れんごんなんごん)皆な是れ真言にして、法界悉く皆な道にアラザル事無きなり。能々思念すべし。委しき旨は面受にあり。胸中に細(くわ)しくして具に記すこと能わず。
初の印に於て今一重の習いあり。是れ則ち最極秘密の習いなり。良雅の定海に授けたる様なり。謂う所の三部総摂の印の忍願・戒方を絞り交えるなり。四指は即ち(五秘密菩薩中の)欲触愛慢なり。是れ則ち金剛薩埵の三摩地なり。
五秘密軌に云く、金剛サタの三摩地を名けて一切諸仏法と為す。此の法は能く諸仏の法を成ず。此を離れて更に別して仏あること無し。」深旨は筆端に述べ難し。

右示し給える趣きは大概斯くの如し。冥に付き顕に付き恐れ憚り多しと雖も、廃忘に備えんが為に聊か短筆を呈するのみ。
同年八月三日、之を以て上人の高覧に備え了んぬ。所存更に差(ちがい)無き由、再三褒美せられ了んぬ。即ち上人染筆して因論生論の四字を書き入らしめ給えり。規模と謂うべき者か。此の記は努々々(ゆめゆめ)散失すべからず。能々眼精を守るが如くすべし〔云々〕。貴命、心俯に銘ず。仍って印信を相い具して密かに筥底に納めたり。
   法眼公然、之を記す
     一交了んぬ

(以下は紙裏に記されている)
後日に示し仰され云く、此の事伝授の時に先師僧正御坊(成賢)の仰せ云く、此の事は伊豆阿闍梨(仁寛/蓮念)の三宝院権僧正(勝覚)より伝受せる条分明なり。仍ち彼の流を相承する輩に此の事を相い尋ねし処、実に此の印信あり。文字は少々前後相違する事あり。此の事を案スルニ、仁寛阿闍梨の伊豆に下向せる尅、書籍は一巻も随身せず。諸尊法幷に印信等の如きも一向に胸臆に任せて之を記す。知んぬ、是も定めて此の義と為すか。彼の闍梨は以ての外に聡敏の人なり。仍って受学する所も大略は暗(そら)に覚悟す〔云々〕。
予〔上人〕、此の事の耳底に留まれる間、先師御入滅の後、彼の闍梨の流を随分と伺い習わしむる所なり。果して此の印信を得て校合せる処、「故和尚云く」以後の文字は少々前後相い乱る〔云々〕。
    後日に重ねて之を記す  公然

後日に仰せ云く、
(大唐に於ける大師第三度)八月上旬の潅頂は此の事なり。
阿闍梨位(の潅頂)を受くること一度と〔云う〕は即ち此の事なり。能々思念すべきなり。
又た仰せ云く、初めは印を以て三部・五部・不二の義をアラワシ、後は言を以て五部・三部・不二の義を示すなり。前後影略して示し、不二の義を顕示するなり。
     重ねて又た之を記す  公然

此れより以下は、
上人越州に御下向の尅、上醍醐に参籠せしむる時に問い奉れるを記し了んぬ。
後日に問い奉りて云く、
初めの印に就きての三部五部の義は分明なり。(最)初の合掌は其の義如何。
仰せ云く、此は本三摩耶の印なり。此の事は先師(成賢)の口伝には分明に承らずと雖も、之を案ズルニ不二の極位を表すか。不二無相の上に三部五部の位を顕示すなり。
「(金剛・胎蔵の)二教、轍を異んじて手を金蓮の場に分ち」の義、之を思い合すべし〔云々〕。
又た問い奉る、
阿闍梨位の印を(潅頂の)受者加持の時に授くる事は如何。カカル深極秘密の印璽を入壇以前に授くる条、尤も不審なり。
仰せ云く、受者は之を覚悟せずと雖も、阿闍梨の慈悲を以て功徳を冥加して、罪障を消滅して法器と成さんが為に、入壇以前に之を授くなり。
   重ねて又た之を記す  公然


<解説>
先ず上記史料の出典に付いてですが、金沢文庫テーマ展の図録『秘儀伝授』に載せる影印(写真)88を基にして和訳しました。史料の整理番号は「古書第288函」と記してあります。 この写本と記者公然の自筆本との関係は定かでありませんが、書写年代は鎌倉時代後期と考えられ史料的価値の非常に高いものです。表側の末尾に異筆で「正慶二(1333) 五 五日 熈允」なる奥書があります。

次に内容のあらましに付いて説明すると、是は本編ブログ『金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介』の最初に記した1.No6226「両部阿闍梨位印」すなわち天長印信とも称される阿闍梨位印信に付随する醍醐小野の口決を述べたものです。
最初に此の口決は「閉眼の大事」と称される程重要なものであると述べて、源仁より公然等に至るその相承次第を示していますが、本より源仁(818―887)の時代にまでその成立が遡るとは考えられません。恐らく平安後期から醍醐寺の周辺に於いて徐々に成立したと思われます。

次に阿闍梨位の印が瑜祇経に説く所であり、その形は三股杵すなわち胎蔵法の仏部・蓮華部・金剛部三部を顕している事、印を開いて五股杵と為し金剛界の仏・金・宝・蓮・羯五部を顕す事を述べ、暗に此の印が胎蔵・金剛両部の不二を標示する秘印である事をほのめかしています。

瑜祇経は早く弘法大師空海によって我が国に請来され、また台密の偉大な学僧五大院安然(841―915頃)はその注釈書『瑜祇経疏』三巻を製作しましたが、その後平安中期を通じて此の経典はあまり注目される事がありませんでした。ところが白河天皇の御願寺として承暦元年(1077)に京都白河の地に法勝寺が創建され、その中に愛染明王を祀る八角円堂が建立された頃から状況が一変しました。愛染明王の修法とその本尊像の制作が盛行し、愛染法に関わる様々の秘口決が生まれ、瑜祇経の研究も再び日の目を見るように成りました。何故かと云えば、愛染明王を説く経典は瑜祇経の他には存在しないからです。鎌倉時代になると瑜祇経の評価は更に高まり、金剛・胎蔵両部不二の奥旨を説く秘経として多数の注釈書が作られました。また瑜祇経の講伝(講義と伝授を合わせ行う事)が盛んに行われ、特に「瑜祇の大事」・「瑜祇灌頂」等の瑜祇印信の伝授が珍重されました。今の意教上人が公然に授けた口決もこうした瑜祇経伝授の一部を成すものです。

次に月輪観に住して八字明(真言)を観誦すべきと述ていますが、八字の前五字は金剛界五仏(五部)の種子、後の三字は胎蔵三部の種子であり、やはり総じて金胎不二の義を表している。更に観想を深めて「言亡慮絶せよ」、即ち言葉や心念を超えた本源の世界に帰入すべき事を説いています。意教上人はここに「因論生論」の四字を書き加えて、この公然の私記が自ら授けた口決の真意を正しく伝えている事を保証したとは、後に見る公然のコメントです。

口決の最後に小野大乗院の良雅が醍醐三宝院の定海大僧正に授けたと伝える「最極秘密の習い」が記されている。是は前の三部総摂阿闍梨位の印を変容させて五秘密菩薩を標示させ、その中尊たる金剛薩埵の三摩地に住すべき事を説くものです。此の口決の背後には、金剛界三十七尊は理趣経十七尊に摂取(しょうしゅ)され、その理趣経十七尊は五秘密菩薩に、五秘密菩薩は遂に金剛薩埵すなわち愛染明王に統摂されるとする理趣経と瑜祇経に関わる一大秘訣が存在しています。

さて本稿の主たる目的は文書裏側の最初に記された意教上人頼賢の言葉を紹介する事にあります。
それに依れば、上人が先師僧正成賢から「此の事」即ち阿闍梨位印信の伝授を受けた時、成賢が語って云うには、此の事は伊豆阿闍梨仁寛(蓮念)が三宝院権僧正勝覚から伝受していたに相違ない。何故かと云えば、成賢が仁寛方(立川流)を相承している人達に阿闍梨位印信の事を問い合わせた所、実際に彼の流に相承する印信を見ることが出来た。それを詳しく見ると、言葉の順序が少し前後している事に気が付いた。それに付いて成賢が考えるに、仁寛は罪を負って伊豆に下向する時、書籍の類は全く携行する事を許されなかった。従って諸尊法や印信を書き記すにも総て記憶に頼らざるを得なかった。仁寛は以ての外に聡明なる人で受学内容もほとんど記憶していたけれども、そういう次第で印信の文章に少し正文と相違する点があるのであろう。
立川流の研究者はよくご存じのように、此の成賢の説は広く受け入れられて後世に至るまで語り伝えられたのです。一方、上人も亦た此の成賢の言葉が忘れられず、その入滅の後に自らも随分と仁寛の法流を尋ね窺うことに努めました。その結果、頼賢も仁寛方の阿闍梨位印信を手にする事が出来たので以前より伝受していたものと照らし合わせた所、先師成賢が語っていたように印信の「故和尚云く」以下の文章に少し違いがあったと又た公然に語ったのです。

現在にまで伝わっている阿闍梨位印信には細かい点で種々相違するものが幾つもあって、成賢・頼賢が指摘した相違点を間違いなく特定する事にはやや困難を覚えます。然しながら両師が手にした印信は本編ブログ(http://blog.goo.ne.jp/badra2021)で最初に紹介した仁寛方「両部阿闍梨位印」と同じものでは無いかと考えられます。その事について少し検討してみます。

『弘法大師諸弟子全集』巻十には「天長印信」と題して五本の阿闍梨位印信を採録していますが、全集の編集者は是等総てが大師の真作と見るには甚だ疑問が多い旨を注記しています。それは兎も角、今ま問題の「故和尚云く」以下の文章を『全集』の最初に載せる醍醐寺蔵の古写本によってを示すと、
故和尚(恵果阿闍梨)云く、義明供奉には両部大阿闍梨の法を授くと雖も未だ此の印を授けず。唯だ一人あり。好好、和尚(空海)は吾が恩に報ずべきなりと。写瓶の実恵あり。又た入壇授法の弟子頗る多しと雖も唯だ汝一人(真雅)に之を授く。争(いかで)か吾が恩を報じ尽すべけんや。穴賢こ、穴賢こ。入室と雖も器量に随いて之を授くべきのみ。
  右天長三年〔乙巳〕三月五日 東寺に於て真雅大法師に之を授く
伝受阿闍梨遍照金剛ギャギャノウモウガ(空海 原梵字)
と成っています。是を金沢文庫の立川流(仁寛方)伝本と比較対照すると、「天長三年」が「天長二年」に、「真雅大法師」が「貞観寺真雅阿闍梨」に、空海の梵名が「空海」に成っている等の違いはあるものの、意教上人の云う「文字は少々前後相い乱る」なる指摘には合致しない気がします。(因みに『弘法大師諸弟子全集』で三番目に載せる印信は金沢文庫本と同じです)
それで注目されるのが『全集』で四番目に載せる印信です。此の原写本は後世のものらしく相当に文章が崩れていますが、編集者の注記によれば「意教方」の伝本です。その「故和尚云く」以下に相当する部分は、
真雅に示して云く、青龍和尚(恵果)の言く、義明供奉に両部の大法を授くと雖も未だ此の師位を許さず。唯だ汝のみありて之を伝う〔云云〕。又た受法の弟子多しと雖も汝一人に之を授く。何んが吾が恩に報ぜんや。設い入室にも授与すべからず。器を撰んで唯一人に之を授くべし。
と成っていて、上人の言うように文章が前後しています。是は意教上人頼賢が手にした仁寛方印信の書き様を伝えているのかも知れません。しかし此の問題は結局よく分からないと言わざるを得ないのが実情です。
ところで頼賢は一体誰から仁寛方の阿闍梨位印信を与えられたのか。又た本編ブログに見た空阿上人慈猛は頼賢の潅頂弟子ですから、自らが浄月上人から授けられた仁寛方の諸印信を師の意教上人にも披露した筈です。実には頼賢自身も浄月上人と深い関わりがあります。

頼賢は貞応二年(1223)九月二十一日に醍醐寺に於いて成賢から伝法潅頂を受け、その後しばらくして高野山に登り金剛三昧院の安養院で隠遁の生活を始めたとされています。是が辞典類に記されている普通の説ですが実際にはそうではありません。頼賢は醍醐寺を去った後、二十年間の長きにわたって三井寺の慶政上人が開創した京都西山の法華山寺に住んでいました(少なくともそこを活動の場としていました)。その間も当然ながら醍醐寺との往返を繰り返していたと思われます。どうしてそのような事が言えるのかと云えば、古文書中にそれを示す頼賢の奥書が非常に多く存在しているからです。その事に付いては高野山大学『密教文化研究紀要』12の甲田宥吽「意教上人伝攷(上)」に詳しく記されているので是非参照して下さい。
法華山寺は現在の京都市西京区御陵の山中にあった寺院で、その場所は嵐山から南に下がった松尾大社の南西に当たり一帯は古くは松尾の地名で呼ばれていましたが、後には近辺に苔寺(西芳寺)が造営されました。
此の法華山寺を開創した三井寺の証月房慶政(1189-1268)は房名を以て証月上人と呼ばれる事が多かったのですが、「証月」は「勝月」と記される事もあったようです。その例として九条道家の日記『玉蘂』の文暦二年(1235)正月十三日の条があります。
それでは意教上人が法華山寺に於いて聖教書写に精励していた事を示す資料を幾つか紹介します。先ず高野山宝寿院蔵の「梵字千鉢文殊百八名讃」の奥書に、
寛元元年(1243)六月十五日、西山法華寺に於て松橋本を以て先師僧正(成賢)十三年(忌)に相い当たり之を書き了んぬ。一交了んぬ。金剛仏子頼(賢)
と云う。金剛三昧院蔵の「大乗密厳経」にも同趣の奥書があります。猶お「松橋」とは醍醐無量寿院のことで意教上人とは特別に深い関係がありますが、今は言及しない事にします。頼賢が法華山寺で殊更に書写に励んだのが『覚禅鈔』です。上記甲田論文によれば書写年月の判明する分だけでも五十二巻あります。その中で尾州万徳寺蔵「釈迦法」の奥書に、
宝治二年(1248)四月二十六日、法花山寺興慈院に於て高野山金剛三昧院丹後阿闍梨の本を以て雨中に老眼に禁(た)えて馳筆了んぬ。 頼賢〔生年五十三〕
と云い、また高野宝亀院蔵「千手敬愛法」の奥書には、
宝治三年二月二十八日、法花山寺興慈院に於て書写了んぬ。此の書は覚禅抄なり。彼の目録には、元千手法二巻云云。一巻に於ては松橋本を以て書写すなり。今一巻は未だ感得せず。(中略) 頼賢、之を記す
と述べています。

一方、空阿上人慈猛(1212―1277)もまた法華山寺に住した時期があったようです。此の事を裏付ける慈猛の記が万徳寺本『覚禅鈔』の中に見出されます。即ちその「孔雀経法」奥書中に、
寛元三年(1245)二月十三日、西山法花寺に於て書写了んぬ。   仏子慈猛
と云い、又た「仁王経法」奥書には、
寛元三年二月十七日、西山法花寺に於て松橋の本を以て書写了んぬ。
と記されています。してみれば頼賢と慈猛の師弟は一時期共に法華山寺に於いて『覚禅鈔』の書写に励んでいたのです。

ここまで見てくると若しや慈猛の師「浄月上人」とは法華山寺開山の「証月上人」慶政ではないかとも推測されます。実は意教上人が直接その事を語ったと伝える史料があります。『金沢文庫古文書 識語編』の第317「水丁(かんじょう)秘口」に、
右、九帖秘決を以て意教上人の本覚法印に授け云く、是は立川流(の)大事なり。松尾(の)浄月上人より之を受く〔云々〕。
私に云く、何ぞ必ずしも立川流に之を限らん。此の両三作法は、作者と云い、口伝と云い、三宝院の手鑑(てかがみ)なり。後日の用心の為に加点し了んぬ。
と云う。此の文書は始めに「水丁(かんじょう)秘決九帖の内」と題して九種の書名を挙げ、その次に上の文を注記していて、九種の書の中には「三摩耶戒阿闍梨表白〔頼賢上人作〕」も見えます。
文中に「松尾」と云うのは勿論京都西山の松尾にある法華山寺を指していると考えられますから、「浄月上人」は証月上人慶政である事に間違い無い事になります。しかし是は浄月上人が摂津(大阪府北部)を中心に活動していて関東ではあまり知られていない僧であったのに対し、証月上人は入宋の名僧として普くその名が知れ渡っていた事による誤解であったらしいのです。

此の浄月上人の「浄月」とは僧名(諱 いみな)か通称(仮名 けみょう)かさえ分からないのですが、前記甲田論文は『箕面市史』史料編一の「勝尾寺文書」や『証談鈔』(証道上人実融1247-1339の口説を記した書)に依って浄月上人の経歴、意教上人が浄月から立川流を受伝した事などを説明しています。
それに依れば浄月上人(1179頃―1259)は摂津国勝尾寺に於いて長年修行し、最晩年には持仏堂を建立して「九品教主尊」即ち阿弥陀如来を安置し自らの所領を寄進しています。法流は立川流の他に仁和寺の成就院流も相承していました。
一方『証談鈔』の「先師上人(頼賢)の仁寛流を受くる事」には、
(実融の)仰せに云わく、浄月上人はかの流の秀人、凡そ又三昧発得とも云うべき人なり。この故に、上人(頼賢)このことを聞き、かの上人の許に於いて仁寛流を相承す。かの浄月上人は勝尾に常住す。時々河内国滝尾にも住せらる。故上人は(浄月が)滝尾止住のとき尋ねられたるなり。その道すがらの様、往年夢に見たりしに相似たる由、故上人自ら記し置かる。
と述べて頼賢受法の経緯をしるしている。
又た同書「瑜祇阿闍梨位事」に、
仰せに云わく、阿闍梨位印明を世中の人は知らず、遍智院(成賢)より故上人(頼賢)のみ相伝の故に、余方になきことなり云々。これは勝尾の浄月上人の方より相伝せらる。又、(醍醐の)第三重(潅頂)一印一明に付いて受けらる口伝、御本の三宝院の大事と同じき間、いよいよかの浄月上人の方をもって正流の潤色とし給うか。
と述べて阿闍梨位印明に関する意教上人流の相承口決が断然他流に勝っていると主張しています。ここに云う第三重一印一明とは本編ブログの慈猛が審海に授けた分では九番目のNo.6236「潅頂最秘密印」の「理智冥合」印明に当たります。また意教上人が浄月上人相伝の仁寛法流を以て三宝院正流を潤色、即ち花を添えるものだと評価したと伝えている点も注目されます。

それでは最後に金沢文庫蔵の『阿闍梨位印口伝〔私〕』を記した公然に付いて簡単に記しておきます。
此の人は従三位藤原実文の子で公家の名家閑院流藤原氏の末裔に当たります。実文の兄弟権中納言実世の子には醍醐寺松橋(無量寿院)の院主で東寺長者にもなった公紹僧正( -1319)がいます。公然は常に「大納言」と称されていましたが、是は祖父の権大納言公宣に由来するのか詳しい事は分かりません。
公然は意教上人から阿闍梨位印明の口決相承を果たしたのですが潅頂入壇には至らなかったらしく、醍醐寺座主定済僧正より伝法潅頂を受けています。『宝池院前大僧正(定済)入壇資記』に依れば、文永八年(1271)十二月に潅頂を受け、その時春秋(年齢)二十と云うから建長四年(1252)の生まれになりますが、不審の点が無いでもありません。それと云うのも『醍醐寺新要録』巻第八によれば正元二年(1260)二月に清瀧宮阿闍梨になっていますが、その時の年齢がわずか九歳となり、名家の子弟にしてもやや若すぎる気がします。又た建治四年(1278)正月には権少僧都になったとも記されています。

以上