侍・CHOP SHOP ブログ

夫 タメの話を綴ったブログです。

イージーライダー

2009年02月01日 | 日本のチョッパーの夜明け
 ハーレーと言えばチョッパー、チョッパーと言えば映画「イージーライダー」を抜きに語れません。'70年モーターサイクリスト1月号に掲載された映画案内を見て、夫は初日の一番始めに「イージーライダー」を観に行きましたが、見終わった当時22才の夫はあまりの興奮に帰りは有楽町のスバル座から文京区の自宅まで歩いて帰ったしまった程だったそうです。
 

(1970年モーターサイクリスト1月号より)

 映画館から家まで歩いてしまったのは単車のカッコ良さにシビれただけでは無く、時代の"時刻表"通りにその映画がやって来たという感情にゆさぶられたからだそうです。夫はいわゆる団塊の世代の1947年生まれですが、この映画公開当時青春時代を過ごした者でなければ「イージーライダー」の本質的な意味をつかみにくいであろうと夫は言います。

 "自由"を彷彿させる乗り物・オートバイの中でも最も反抗的な乗り物(権力者は昔から自由を嫌がるものです)であるチョッパーに跨り旅する二人は、あまりの自由さにヒッピーにさえ嫌がられ、パレードに付いていっただけでおマワりにとっつかまり留置場にブチ込まれてしまう。自由にあこがれながらもそうする人を不愉快に思う奴はどこにでもいて、弁護士のジャック・ニコルソンはキャンプ中殺されてしまいます。イージーライダーは何も悪い事はしていないのに、最後にビリーとワイアットは南部の保守的なレッドネック(田舎者)に射殺されてしまいます。

 1962年キューバ危機を回避したケネディ大統領は翌年暗殺されますが、オズワルドの単独犯ではなく、南部の武器業者がたくらんだと言う陰謀説も有るそうです。戦争は莫大なお金が動きますから、それで儲かる者は「平和主義者は都合が悪い」という事なのでしょうか。以前お客の米兵が何かに怒った話をした際、「オレをこんなに怒らせたのは(宣戦布告無しに真珠湾攻撃をした)日本海軍とオズワルドだけだ」と言っていたのも大統領の暗殺や、長期化・泥沼化したベトナム戦争などがアメリカに大きな陰を落とし、'60年代~'70年代のアメリカは最も暗い時代と言われているようです。

 ヒッピーはそうした暴力の代わりに花を、「銃口に花を」というフラワームーブメントを起こします。スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』では ♪サンフランシスコに来るなら髪に花を差してくるのをわすれるなと歌っています。
 
 ベトナム戦争反対運動は世界的に盛り上がり、日本のテレビでもベトコンの生首をつかむ米兵の姿や、南ベトナムの司令官がベトコンを射殺する衝撃的な映像が流されていたそうです。沖縄からは北爆の主役である爆撃機・B52が飛び立ち、損傷が激しい米兵の遺体を、相模原の病院で本国に送る前に高報酬のバイトが直しているという話も聞こえたそうです。

 東大のすぐそばで生まれ育った夫は、子供の頃からデモ隊やそれを阻止する機動隊を見てきたそうで、'60年代中頃は御茶ノ水の辺りでも道路に石が散乱し、おマワりの催涙弾で目も開けられない状態だったり、青山通りもバリケードを組んで通れなかったそうです。1968年の東大闘争の年はオートバイの事故で11ヶ月入院していたのでよく分からないそうですが(ちなみに3億円事件の年です。夫は刑事に疑われたそうで「オレはシロバイには使っていないハズのヤマハRⅡで白バイ作る様なマヌケなマネはしません」と言い返したそうです。)

 翌年1月18日の安田講堂たてこもりの際は、家の横に機動隊が盾を持ってしゃがんで待機していたそうです。夫は「おマワりさん、安田講堂に突入するんですか」と聞くと「危ないから絶対来ないでくださいよ」と言われたそうです。戦後の歩みや、学生運動が最も盛んだった1968年に関する本などを読んでみましたが、学生運動や世界的なベトナム戦争反対運動、核兵器問題、アメリカでは黒人の人種差別問題など盛んに行われていたものが、'70年代に入るとしゅ~んと落ち込んでいったように思えます。



 夫が「俺が死んだら一緒に焼いてくれ」と言っている1973年発売のピンク・フロイドのアルバム「THE DARK SIDE OF THE MOON」(ビルボードのトップ100に十年間入っていたという驚異的アルバム)の中に「US AND THEM」という曲がこのウックツした時代をよく表わしていると夫は言います。 

US AND THEM 

Us,and them                       
And after all we're only ordinary men           
Me, and you
God only knows it's not what we would choose to do       
Foward he cried from the rear               
and the front rank died                   
And the General sat, and the lines on the map        
moved from side to side                                        
Black and blue                       
And who knows which is which and who is who     
Up and down
And in the end it's only round and round and round    
Haven't you heard it's a battle of words
the poster bearer cried
Listen son,said the man with the gun
There's room for you inside

Down and Out
It can't be helped but there's a lot of it about
With, without
And who'll deny it's what the fighting's all about
Out of the way, it's a busy day
I've got things on my mind
For want of the price of tea and a slice
The old man died 

 訳すのが非常に難しい曲ですが、権力に立ち向かったものの成し得なった人には、「終ってしまえばただの人だった」という挫折感があるでしょうし、最後のお茶とパン一切れの金額の為に、言ってみれば生活の為に死ぬというのは、家庭を持ち守る者が出来た為、社会と闘うキバを失ってしまった状態に思えます。

 権力者は戦争の前線に立たず遠い所から指示するだけで、真っ先に突っ込んで死ぬのは兵隊です。1971年に夫は逗子に引越し、横浜シティーチョッパーズという面々と知り合いになりますが、その内のルディーはフィリピン系ハーフで米国籍でした。

 その頃は志願制では無く徴兵制なので、同じアメリカ人でも危険な所に行かされる白人以外の人種である彼は、いつベトナムに徴兵されるかという恐怖と戦っていました。その為かチョッパーへののめり込み方もハンパではなかったそうです。(映画「フルメタルジャケット」を御覧下さい) 将軍がこっちの部隊はここへ行けと地図を指差す歌詞は、戦争好きな割りに徴兵を逃れた前ブッシュ大統領に姿が重なります。時代の喪失感がこの曲によく表れているそうです。

 このアルバム発売の'73年秋には第一次石油危機が起こり、物価高・不況を引き起こしました。そうなると当然商人も売り惜しみをし、夫は仕事の材料不足に参ったそうです。特にシンナーは「シンナー一滴、血の一滴」と言っていたほどで、知り合いの店から何とか分けてもらったそうですが「うちで買ったと他の人には言わないでくれ」と言われたそうです。

 雑誌の廃刊も相次ぎ、夫が頼まれた記事の原稿を持ってプレイライダー誌の編集部を訪れた時、編集者が大慌てに入ってきて「大変だ!うちの雑誌が来月から廃刊になる!」と叫んでいたそうです。実際翌月から廃刊になってしまいました。この映画に刺激され、チョッパー時代の到来!どころかチョッパー不毛の時代へ突入してしまいました。 

 ハーレーダビッドソンが日本に正規輸入されたのはバルコム貿易による1960年からとの事ですが、初任給1万なんぼかで、1ドル360円の時代にハーレーに乗ってる方は非常に少なく、台東区・千束の十和モータースで知り合ったカンバン屋のカクさんが発売されたばかりの'70年モデルのハーレーを買ったときも、彼のFLHはフィアムの三連エアーホーンが付いていて、ホコらしげに♪ププププープと音を鳴らしてやって来るそうですが、そのFLHを前にお客の皆で「ダイナモがなくなってスッキリしたな」とか「今度のはポイントが横で調整し易いやね」と言っていたそうです。スポーティなオートバイが求められた時代にハーレーは「どん重」なイメージが強かったそうです。

 ところでこの映画のハーレーの"チョッパー"にはシビれた夫はすぐFRPでピーナツタンクを作ってバイクが集まっていた西新宿の淀橋浄水場跡に売りに行きましたが、早過ぎたせいか1個も売れなかったそうですが、30数年たった今でも相変わらず商売が下手なのは困ったものです。


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