徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

9days Queen 九日間の女王(3月1日公演)

2014年03月02日 | 舞台


今回は本当にいろいろありました…orz
まず始めに、ACTシアターの座席と見え方について書かせてください。

初日にいろいろな感想を抱きつつ、「次もう少し視点を変えて観てみないと分からない」という結論になった9dQ。この日は開幕後初めての週末、初見の友人と2階席(席は別々)でマチネ観劇です。

・・・が。今回はトラブルといいますか不可抗力と言いますか「なんとままならぬ…!(by崇徳院)」状態でした。(涙目)

まず舞台が始まり、唖然としたことは――「全然見えない!」
この日、私の席は2階後方A席の、それでも通路すぐ後だったので、ACTで何回か見た限り、通常ならさして気にならないはずの場所です。それなのに、1階前方A~Eの5列を潰して客席側に張り出した舞台のスペースが、ちょうど目の高さの手すりに重なってしまっているという(ちなみに私の身長は日本人女性の平均程度です)。

さすがに身を乗り出すのはマナー違反ですから(←居ましたけどね!)ずるっと腰を落としてややお行儀悪く姿勢を下げてみたら、今度はS席最後列に座っている少し背の高いお客さんの頭が、まさに舞台の真ん中1/3ほど視界を遮ってしまう始末…。

登場人物が脇にいるときはまだしも、センター位置だと文字通り「お客さんの頭しか見えない」のです。(脇だと役者の頭しか見えないw)
これはステージ設計ミスなのでしょうか…?秋のACT真田ではA席でもここまでひどくはなかったのですよ。同じような設計の『ヴォイツェク』は、1階席でしか見なかったので気づきませんでしたが、同じようなことが起きていても不思議ではないと思いました。


(舞台が!舞台が全然見えない~~~~~~!) ←心で絶叫w


どうにもこうにも、埒があきません。しかも音響が(生演奏のためか)割とエコーのかかる仕様になる時は過剰に反響するし、舞台の転換も高みから見下ろす座席だと心なしかせわしく感じられて、落ち着かない、というか、肝心の役者は声ばかり聞こえて姿が見えず、まったく物語に入って行けません。
迷惑にならない程度に姿勢を変えたり、双眼鏡を使ったりしてみましたが、疲れてだんだん頭が痛くなってくる始末。これは滅多にないことなのですが…途中で耐え切れなくなって、席を立って出て行こうかと何度も思いました。

S席の4列目中央あたりに座っていた友人には幕間に会いました。「今回Aは大失敗だね。そっちの見え方はどう?」と聞くと「まさかここまでひどい席とは思わなかった」・・・「S席なのに?」まあ、両隣がちょっとマナーの悪いお客さんにあたってしまったようで大変にご機嫌斜めなのをなだめてすかして、様子を聞きますと、やはり「音響」と「視界」が問題のようでした。真田を同じような席で観た仲なので、比べてどうかと問いましたら、「全然違う!真田の舞台は高さがあったから、上からでもすごく見晴らしが良かったけど、今回は上下の移動が基本的にないから、ずーーーっと役者の頭頂部見てる感じ」「…Sでそれは嫌だw」実際に彼女の席に座らせてもらうと、「Aでもさして変わらぬではないか!(苦笑)」状態。

興行的に多くの席を良いお値段で売らねばならないという事情は分かります。ただ、この席はあの値段(=S席)で売ってはいけない…というのが偽らざる感想です。照明、演出、役者の動き。たとえ最後方でもこの舞台は1階で観るように「設計」されているのは明白です。であれば、あのクオリティでしか見られない2階席を全Aにする判断もできたのではないでしょうか?

※以前「トンデモ舞台」と評したマクベス@コクーンも、2階席は「見えにくい」のを前提に最前列をすべてコクーンシート扱いにしていて、2列目以降の後ろ側は一切空席のまま売らないという英断をしていました。前説でその旨ちゃんと告知があり、公演中多少?見えにくくても身を乗り出すのは自由だったので、私はそれで大満足でした。(結構よく見えましたしね)

というわけで。
今後この公演を「2階席で」観に行かれる方は、少しだけ?心の準備をなされたほうがいいかもしれません。


☆   ☆   ☆


この日のマチネは結局最後までこちらの状態が散々だったので(即位後すぐジェーンさまの王冠が「落っこちた」ことしか!覚えてない!ギルフォード、ナイスフォローだったよ~!w)「もう、この回はなかったことにしよう…」と話し合い、ソワレの当日券を買い求め、リベンジです。多少見切れはあるものの、1階2列目上手という役者の表情を見るには初日同様の距離感で、なおかつ逆サイドだったのが幸いしました。ちなみに、付き合った友人はかなり…いや相当怒ってました(苦笑)←気持ちは分かる。すまない…だが私には何もできない…orz

内容や台詞は既に頭に入っているので、初回のように「筋を追う」大変さはなくなりました。最初の印象とこれはあまり変わらないのですが、ジェーンをめぐる歴史上のイベントが次々に、舞台変換のせいもあり割とまとまりなく出てくるので、予備知識なく追っかけるにはかなり骨が折れる部分があるのは確かです。(予習してても結構しんどかったですからねえw)

さてここから、実質二回目の(苦笑)舞台感想になります。
決して批判ではないつもりですが、ネガティブな感想を読みたくない方はここで閲覧中止をお願いしますm(_ _)m



(3/11追記)
初日からの紆余曲折があって、いろんなことを感じ取れるようになってきました。このあと5日、8日と記事がありますが、これも含め決して今の感想はネガティブなものではありません。しかしながら「この時点での記録」として、あえて弁明せずに残しておきます。




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前回かなり手厳しく書いてしまいましたが(ゴメンなさい!)…再度観て、私の感じた初日の「バラバラ感」はあまり変わっていなかったように思えてならず、さらに困惑しています。

まず整理すると、『9days Queen』は、ジェーン・グレイが主役で、ロジャー・アスカムがストーリーテラー、二人の周囲を数多い登場人物たちの思惑と欲望が交錯する群像劇、という舞台かと思います。しかし、群像劇というには何かが決定的に欠けている気がしたのです。
それは(個人的な感想ですが)「個々の登場人物たちの持つ存在の必然性、意志や行動の理由――もっと言うなら確固たる物語がない」という印象に集約されます。簡単に言うと「群像劇ならキャラが立っていないと成り立たない」ましてや2時間半ほどのお芝居ですから、中の人の個性や技量だけでない、シナリオ上の「物語」がなければ、私たちは舞台上の世界に感情移入などできないと思います。

とはいえ、この感想は決して役者さんのお芝居のせいではありません。断じてありません。むしろ安定した、あるいは際立ったお芝居をされている方が多いのです。ただ、それがお互いに噛みあっていない。同じ舞台の上に存在していながら、交じり合うことなく、一人一人がおのおのの台詞を喋り、それは誰の想いとも混じることなくラストまで進んで行ってしまう…作り込まれてはいるけれど、一人のキャラクターが他と関わる中で化学反応を起こすような「予想外の効果」は全くなく、台詞も所作も最初から全て計算され尽くしているような。作り込みがダメなわけではありませんが、変化をもとから想定できない「レール上のシナリオ」に思える時があるのです。

個性的で素晴らしい俳優陣は、いわば原色。さまざまな色が絞り出されて舞台というパレットの上で交じり合い、劇場のキャンバスに絵を描くための新たな色合いを生むのが画家の筆たる脚本と演出のなすべき仕事だとしたら、今回まだそこが弱いのかもしれない…その理由は、5公演目(/24公演中)という序盤だからなのでしょうか?――それだけでもないような気がします。

演出に関しても、細かいところを凝っているのはよく分かります。(特に至近で見ると)。ただ、その人物に「何故その動きをさせるか、何故その台詞を言わせるか」が、私にはまだよく分からない(つながらない)のです。
例えばアスカム先生を例にとりますと、第一幕第二場、キャサリンの屋敷での乾杯シーン。壁際に控える彼は最初の乾杯で少し酒にむせたように咳き込み、二杯目を待たずに盃を下げさせます。酒に弱いとか、その所作がどこかで意味を持って浮上してくるかというと、そうでもない。続く第四場?では、ジェーンに対して「私は哲学者ではありません、運動や美食も好む、俗物ですよ」と言わせながら、俗物臭が漂うような何か仕草なりエピソードなり台詞があるかと言えば、まったく無い。むしろ高潔でやや世事に疎いところもあれど理想の高い学者のイメージを踏襲する演出が続きます。
結果として、相変わらずあの第二幕クライマックスの激高に近い感情の昂ぶりが、非常に「浮いたもの」として存在してしまうことに変わりはありませんでした。

※ちなみに「学者に見えにくいねえ…」と呟いたら、友人は「学者の役をしばらくしていなかったから、どう見せたらいいのかご本人も試行錯誤なのかもね?」との評でしたが。いかがでしょう?w


ざっくり言えば、この舞台全体が「必然性に欠けるディテールに満ちている」と思うのです。
随所に細かなこだわりは感じられても、全体主題を構築する要素、話の軸、キャラの造形が淡泊すぎます。



こだわりの部分にも濃淡があり、意外にサウンドエフェクトの使い方が雑だったりします。ひとつの顕著な例は、場面を転換するときに多用される象徴的な鳥の羽ばたき音。中央上方1ヵ所から降ってくるだけで、あれほどの奥行きや幅、高さを持つ空間を観客は目にしているのに、耳にする音に(鳥の飛んでいく様を想像させるような)動きがなく、その広がりにはそぐわないと感じてしまうのです。また一方で農民蜂起のシーンなどでは「観客席を使った」見せ方がワンパターン、しかも「何度も」出てくるので、「またか」的な印象も…ここぞというところで絞ってもいいし、緩い動きにしなくてもメリハリはつくかも。そもそも3~4度もわざわざ殺陣を使ってまで見せるものなのかというモヤっと感が残っています。←これは演出家のこだわり部分でしょうか?客席を巻き込んで使うの、お好きですからね…。

シーンの転換も割とハッキリ、ブツッと切る感じです。その場面の説明はうっすら壁面の上方に10秒ほど映し出される文字(Tower of LondonやNorfolkといった地名など)でのみ説明?され、大丈夫かなあ…と思いつつ「予習前提」で観ている自分がおりました。

ただ、ストーリーテラー(語り部)のロジャー・アスカムという存在がいるのなら、冒頭のように場面を彼の語りで説明させることもできるはずです。むしろ、歴史イベントてんこ盛り、似たような名前の人間わんさか、のシナリオであればなおのこと、そうなるはずだと思っていました。役者さんへの負担は大きいでしょうが、姿を見せず声だけでもできますよね?むしろそのための設定、そのための上川さんという配役だと理解していましたが、文字通り舞台の隅で「場面を見守る」だけ、肝心の説明が他の人物の台詞に組み込まれる分浅くなるのも致し方ないかもしれませんが、いかにももったいない…!

もったいないと言えば、いわゆる「悪役」でなかなかに凄味のあるお芝居を見せてくれる二人でしょうか。ジェーンの父、サフォーク公爵ヘンリー・グレイ役の神保さんと黒幕ノーザンバランド公爵ジョン・ダドリーこと田山さん。ヘンリー8世没後~メアリー1世登極までのドロドロの権謀術数と成り上がりのしたたかさ、狡猾さ、それゆえの腹の探り合いを展開できるはずのご両人が、ただ怒声を張り上げているだけに見えてしまう。ここに摂政サマセット公爵の春海さんが加われば、ジェーンを主役にしたとしても、舞台はまさしく「底知れぬ宮廷陰謀劇」になったはず。その中での主題たるジェーンの「純粋な輝く白い美しさ」も光ったはず。それがお互い交わらないままスルーされていくような…。
先にも書きましたが「登場人物の思惑がかみ合わない」「役がまったく馴染んでいない(キャスティングそのものが問題ではないと思うのですが)」…皆さま、ご自分の役の範囲でベストを演じておられると思います。本当にそう感じます。それゆえに、もったいない!惜しい!

もうひとつもったいない!のが「世紀のイケメン&女たらし」トマス・シーモア卿なんですけどね…まあキャット・アシュリーも出てこないからあの程度の扱い、というか描写でいいのかと思いつつ…惜しいキャラ。実は、トマスともう一人、エリザベスの存在自体の舞台上での不協和音も、感覚をささくれ立たせると言いましょうか、気になって気になって仕方ないのです。それが意図されたものだとすれば、黙って観るしかないのですけれども。

主役のお二人も、5公演目とはいえまだまだ手探り?そして、アスカム先生に対して私が感じているモヤモヤ――「想いが伝わってこない」「熱がない」――は、未だ晴れません。
角度を変えた今回の席から初めて観ることができたシーンがあるのですが、ブラッドゲイトのグレイ家の館でジェーンの婚約を耳にした時の彼の「やるせない感情を理性で押し隠そうとして失敗している」表情と、その後の「泣き崩れたジェーンが彼の右腕にしがみついた瞬間、思わず左手で彼女の細い肩を抱くものの、ハッと自分を戒めるように手を放し…その左手はジェーンに触れられない距離で空しく宙をさまよう」その瞬間が、ようやく「秘めた想い」のひとつの発露として、こちらに伝える力を持っていました。(←ああ、それでもまだその芝居は小さく繊細すぎて、あの大きな劇場の観客に届けるには足りないんですけどね…アスカム先生…あなたの秘めた熱情や葛藤はまだまだ伝わらないのです)

そして堀北さんの演じるジェーンの、凛とした冬日のような冷たい孤独、舞い散る粉雪のような儚い美しさ、それでもあたたかく白く輝く心優しさと純粋さは、やはり本物だと思います。彼女の持ち合わせたイメージ、姿かたち、声、全てが「ぴったりと合う」まさしく、あの有名な絵から抜け出てきたような、生き写しのジェーン・グレイがそこにいました。

しかしながら。
ひとつ引っかかっているのが、舞台の告知フライヤーを含めて、このシナリオが余りにも「結末=あの絵(ブログ添付)」のシーンのイメージを忠実に再現しようとするあまり、「あの絵に映っていないもの」の描写をなおざりにしているのではないか、という疑問です。
あの絵はそもそも1833年(ジェーンが生まれて約300年後!)に描かれたもの。しかもジェーン個人の最後の瞬間しか描かれておらず、例えば彼女をかくも恐ろしい状況に追い込んだ周囲の悪意や陰謀、人物はもちろん時代背景が一切描かれていないのですから。あのイメージを見事に再現することには成功していても、それは「傀儡の女王」のアイコンに過ぎず、肝心の「時代」を描けていないのは逆に当たり前だったのかもしれません。


☆   ☆   ☆


カーテンコールで惜しみない拍手を送りつつも、「これだけのキャストをそろえて、惜しいなあ…もったいないな…」という思いを禁じ得なかった私は、罰当たりなのかも?そんな自責すら抱えつつ、次回は1階後方列センターブロック、まさしく中央付近からの観劇となります。

ようやく本来演出家が意図したはずの「舞台全体のイメージ」を掴むことができれば良いのですが。
正直…私は自信がありません。


↑ そんなに悩むくらいなら観に行くなよ、と友人には容赦なくツッコミされましたが、やっぱり好きな役者さんが出ているなら見たいじゃないですか!葛藤や紆余曲折を経て初日から楽まで進化(深化)するのがナマの舞台、あの魔力に取りつかれた人間としては、行かずにおれないのです。とはいえ、これまでも「合わない」と思えば迷いなくチケットは知り合いに譲ったりしていたので、そこまでじゃない、と。それに史劇は基本的に大好きなので…v



≪余談≫

その1。ウォンバット先生の「もそもそ(もふもふ?)感」はだいぶ消えてました!所作のキビキビ感、3割向上!(爆笑)カテコで真田ばりに走ってこられますwあと、階段降りでハケるのを見ることができる座席の方は、ぜひ彼の視線にご注目を!他のキャストとは決定的に違う「あるポイント」に気づくかも?

その2。ACT2階席の呪い?で疲労困憊して深夜に帰宅後、TBSの特番録画したつもりで忘れていて、初日映像を見逃す。がーん…orz (暫く立ち直れなかった)

その3。記者会見の映像を見たある友人が「なんか頬のぷくぷく感がハムスターみたいな可愛さ」というので「三頭身キャラ化したアスカム先生がヒマワリの種を求めてちまちまと宮廷を走り回っている!そしてお約束でローブの裾を自分で踏ん付けて転ぶ!」図を想像してしまい…ハッと我に返り、私が昨日観てきた舞台って何だっけ?と(爆)三頭身ハムスター仕様の先生は三頭身猫侍(←恐ろしいことに公式!)と同じくらい、萌えポイントが高い!(むしろ動物的な意味で)三頭身ハム化した先生が転んで、あのカボチャ帽子が脱げてコロコロ…「まぁ!大丈夫ですか?」と拾い上げたのが同じくシマリス化したジェーンさまだったら、完全に童話…これがふたりの運命的出会いw ←誰か止めて。



(3/3追記)
劇評めいたブログを書いているにも関わらず、実は公演中に他人のブログやツイートを全くテーマ検索していません。世間の評価の高低に関係なく、自分は自分の思ったように書く。シロウトにはこれしか許されない。ある種書き物を生業とする人間ゆえにそう思っているからです。結果恥をかいたとしても自己責任です。

それはワインを飲むのに似ていて、高名なシャトーの名だたるヴィンテージと、スーパーで普通に手に入るワインの、どちらが旨いかと言われれば、私は自分の舌に素直にあったものを選びます。結果、500円のワインが50000円のワインより旨いと断じたとしても「それがどうした」w

あと役者さんは当然のことながら(私は演じる側として舞台に立ったことはありますが、プロではありません。数千人の前で話す仕事もしましたが、役者ではありません)演出や脚本に関しても、自分がそれを越えられるものを作れるか?もちろんあり得ません。
完成品をしたり顔で批評するのはたやすいですが、クリエイターの端くれとして、敬意は常に忘れないでいたいと思います。見ず知らずの数千人を前にしてプレゼンしなければならない時の「足の震え」を、一度でも体感した人間であれば、舞台に関わる方々に限りない敬意を払うのは当然のことです。一方でいち観客としての感想も「分かるが故のもの」があれば良いな、と常に思っています。