2011年12月17日讀賣新聞・夕刊 「追悼抄」より
高橋昭博さん 11月2日、心不全で死去、80歳

高橋昭博さん 11月2日、心不全で死去、80歳
黒い爪と被爆証言3000回
被爆資料を展示する広島平和記念資料館(広島市)の一角に、「異形のツメ」=写真=と呼ばれる黒ずんだ爪がある。アーチ状で長さ約2センチ。厚くて爪切りでは切れず、右手人さし指から自然にとれるたび、高橋さんが寄贈した。「私の分身。見る人に原爆の恐ろしさが伝われば」。そんな思いのこもった遺品となった。
1945年8月6日、爆心地から1.4㌔の旧制中学の校庭で被爆した。当時14歳。全身に大やけどを負って右ひじは曲がったまま固まり、右手にはガラス片が刺さって黒い爪が伸びるようになった。
手が不自由だからと、広告会社に内定を取り消された。怒りと悔しさで涙が止まらなかった。差別されないだろうと、広島市役所に入ってからも、包帯で腕を隠した。
転機は52年の「原爆被害者の会」への参加。ケロイドを見られまいと夏でも長袖を着る被爆者の姿に、同じ痛みを持つ人の多さを知った。「こんな思いはもう誰にもさせたくない」。被爆者運動に力を入れるようになった。
同資料館の7代目館長に就いたのは79年のこと。「若い世代に体験を伝えられる」と喜んだ。4年間の在任中、修学旅行生らにあの日の出来事を語り、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世やダライ・ラマ14世ら世界の指導者に核兵器の非道さを訴えた。
80年、原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長と会った時は、「今さら恨みは言いません」と切り出した。「憎しみで憎しみは消せない。憎しみを乗り越えなければ、平和は生まれない」との思いから出た言葉だ。語り合う間、ティベッツ氏は黒い爪の右手を握り続けていた。謝罪の言葉はなかったが、文通が始まった。
「核兵器なき世界」を掲げるオバマ大統領には期待を寄せた。「じかに被爆者の声を聞いてほしい」と、広島訪問を促す書簡を4度送った。
長年、活動をともにした池田精子さん(79)は「高橋さんほど『ヒロシマの心』を発信した人はいない。世界と被爆者を結んだ」としのぶ。
市を退職した後も続けた「証言」は3000回を数えた。入退院を繰り返しながら、車いすで語った。10月27日、病室を訪ねた同資料館の前田耕一郎館長(63)が「元気になってまた証言して下さい」と励ますと、うんうんとうなずき、8個目の爪を贈った。
親交が深かった日本原水爆被害者団体協議会の坪井直(すなお)代表委員(86)は言う。「最後の被爆者になっても、核兵器廃絶に向けて闘う。それが高橋さんの遺志や情熱を継ぐことになるから」
(広島総局 杉山弥生子)

「体験を語るのは生き残った者の責務」と高橋さんは証言を続けた(2005年8月、広島市中区で)