日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ

近隣諸国との摩擦が表面化し、過去の侵略歴史の認識や反省が国民にないまま、国家存続の岐路に立たされています。

関東大虐殺(関東大震災における朝鮮人の虐殺事件)

2013-09-01 02:17:16 | 過去の日本の戦争犯罪、戦争責任
関東大虐殺90年:「朝鮮人の暴行は絶無」本紙は弾圧下で報道
朝鮮日報・東亜日報、弾圧下でも大虐殺を報道
朝鮮総督府が押収・発行禁止、号外発行し検閲避ける
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001315.html
「そこの新聞の号外には、品川で朝鮮同胞300人を○○ (「殺害」と推定されるが、朝鮮総督府が削除)したという記事があったが、わが同胞の消息が一体どうなっているのか分からない」

 1923年9月8日付の朝鮮日報に掲載された「中途に帰還した留学生」という見出しの記事だ。日本による情報統制のさなか、関東大震災後に発生した虐殺事件を何としてでも読者に知らせようとした記事だが、朝鮮総督府警務局に押収された。

 最初の関連記事が掲載された9月3日から、朝鮮日報は地震と虐殺の惨状を詳細に報道してきた。さらに、横浜で起こった虐殺事件を取り上げた「横浜でも○○事件発生」、国内の抗日暴動を恐れる日本政府の秘密指令を暴露した「朝鮮総督に警戒」などの記事を書いた。厳しい統制があったが、9月5日付紙面でも「3カ所で不穏事件」という記事で虐殺に関する速報を出している。朝鮮総督府は記事の押収と発売禁止処分を下したが、そのたびに号外を発行して検閲を逃れた。

 9月24日付記事「朝鮮人の暴行は絶無」では、日本の警視庁の秘密報告書を入手し「朝鮮人の暴行や放火事件はなかった」という事実を伝え、同胞が無念のまま死んでいったことを強調した。10月4日付記事「臨時政府から抗議提出」には中国・上海にあった大韓民国臨時政府が日本の首相に朝鮮人虐殺に対する抗議文を送ったという内容があるほか、同じ日に掲載された論説「僑日(きょうにち)同胞へ」では在日韓国人に「いっそのこと帰国した方がいい」と勧めることで日本の蛮行を糾弾した。

 朝鮮総督府警務局が1923年9月1日から11月1日まで掲載禁止措置を下した朝鮮日報・東亜日報の朝鮮人虐殺関連の記事は合計602件で、押収措置は18回だった。日本の言論弾圧に対抗し、事件の真相を伝えようとする粘り強い努力によるものだった。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者

関東大虐殺90年:朝鮮人犠牲者、定説より多い可能性も
三・一独立運動や青山里の戦いなど「植民地朝鮮」に危機意識を抱いていた日本
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001321.html
■何人虐殺されたのか?

 関東大震災の際に虐殺された朝鮮人の数は「6661人」というのがこれまでの定説だった。これは、上海の大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』が1923年12月、朝鮮人の報告書などに基づいて算出した数字だ。しかし最近、カン・ヒョスク博士(韓日近代史専攻)は、ドイツ外務省所蔵の英文資料「Massacre of Korean in Japan(日本における朝鮮人大虐殺)」=1924年3月=を分析し、当時虐殺された朝鮮人が2万3058人だったと明かした。これまで考えられていたより3倍以上も多い数字だ。しかし、当時日本に住んでいた朝鮮人の人数を考えると、やや誇張された数字かもしれないという指摘もある。

■民間人による殺害だったのか?

 韓国・日本双方の一般市民は、これまで「日本の民間人からなる『自警団』が虐殺を行い、日本政府はこれを傍観する姿勢を見せた」という程度にしか認識していなかった。しかしカン・ヒョスク博士が見つけ出したドイツ外務省の資料には、虐殺された朝鮮人2万3058人のうち▲警察が577人を虐殺した▲軍隊が3100人を虐殺した-と記録されていた。この数字について資料には、当時『中央公論』の編集者だった吉野作造が確認した、と記されている。9月1日の地震発生後、2日に戒厳令が布告されるまで「朝鮮人が放火や暴動を起こした」というデマを広めた主体も、日本政府と警察だと明記されていた。

■本当に「朝鮮人」が暴動や放火を?

 「完全な捏造(ねつぞう)」というのが、韓日両国の学界の見方だ。立教大学の山田昭次名誉教授が、当時司法省の発行した『震災後における刑事事犯及びこれに関連する事項調査書』を分析した結果、放火・殺人・強盗・婦女暴行などの犯罪に及んだと記録された朝鮮人の「犯人」120人のうち、115人は「姓名不明」で、残りは「所在不明」あるいは「逃亡」「死亡」だった。うわさの主体は存在しなかったというわけだ。

■なぜ虐殺したのか?

 日本政府が、震災による民衆の不満をそらすためにデマを広め、朝鮮人を「スケープゴート」にしたというのが定説だ。在日韓人歴史資料館の姜徳相(カン・ドクサン)館長は、大虐殺の背景に▲4年前の19年に起きた三・一独立運動▲社会主義的抗日勢力の出現▲青山里の戦いでの日本軍敗退-など「植民地朝鮮に対する危機意識」があったと分析した。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

関東大虐殺90年:「15円50銭」の発音が命取りに
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001330.html
「15円50銭と言ってみろ」「君が代を歌ってみろ」

 1923年9月初め、地震で廃虚と化した東京一帯で、刃物を携えた男たちが徒党を組み、殺気を帯びた目で道行く人々を脅した。「15円50銭」の発音で生死が決まった。発音が少しでもおかしいと思えば、「鮮人(=朝鮮人の意)だ」という叫びとともに、暴行と殺人がほしいままに行われた。

 清音と濁音の区別がはっきりしない韓国語の特性上、「じゅうごえんごじっせん」は朝鮮人には発音が難しい日本語だった。「『ぱぴぷぺぽ』『がぎぐげご』と言ってみろ」「江戸時代の歌を歌ってみろ」とも脅された。どれも、朝鮮人を探し出して殺そうという目的からだった。明白な「人種虐殺」だった。

 9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震が神奈川県で発生し、強い揺れが東京や横浜など関東地方を襲った。10万以上の人命が失われるという、大きな災害だった。地震発生直後、通信は途絶え、民衆は動揺した。日本政府は、国民の不満をそらすために「工作」を展開し始めた。立教大学の山田昭次名誉教授の研究によると、地震当日の9月1日夕方にはすでに警察が「朝鮮人が殺人・放火を行っている」というデマを広めていた。

 翌2日になると、うわさは急速に広まった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「産業施設を破壊している」「略奪や婦女暴行まで行っている」という根拠のないうわさを積極的に広めたのは、軍人や警察官だった。在日韓人歴史資料館の姜徳相(カン・ドクサン)館長によると、2日午前10時から、一部の地区の警察署長が公然と「朝鮮人は殺してもよい」と言い出したという。

 2日午後6時に戒厳令が布告され、後藤文夫・内務省警保局長の名義で「朝鮮人は各地に放火し、不逞(ふてい)の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。(中略)厳密なる取り締まりを加えられたし」という電報が全国に向けて打電された。実弾を持った戒厳軍が出動、東京や千葉などで朝鮮人を殺害し、各地で自発的に組織された約3600の自警団は、街中を歩き回ってほしいままに虐殺を行った。軍隊・警察と民間人は、いずれも虐殺の主体だったというわけだ。

 犯行は凶悪だった。「警官に連行される男性を、群衆が『朝鮮人だ』とののしりながら池に投げ込み、3人が太い棒で殴りつけた。遺体を池から引き上げるとき、体が裂けて血が飛び散った(9月2日、東京)」「手に持った竹やりや刀で朝鮮人の体をあちこち突いた。うめき声や叫び声が飛び交うむごたらしい光景だった(9月2日、横浜)」

 9月4日、東京ではこのような惨劇も起こった。「10人の人間が血まみれの朝鮮人を針金で縛り、1升くらい石油をかけて火を付けた。朝鮮人がのたうちまわって倒れ込むと、今度は火かき棒で押さえ付けた」。頭と手足を切断され胴体だけになった遺体も、写真資料で確認された。

 しかし「朝鮮人暴動」の実態は明確ではなく、慌てた日本政府は「(朝鮮人が暴動を起こしたという)風説を徹底的に取り調べ、これを事実として出来る限り肯定することに努むる」という決定を下した(9月5日、臨時震災救護事務局警備部打ち合わせ事項)。自分たちが広めたデマが事実であるかのように工作し、国の虐殺責任を隠そうとするものだった。 許文道(ホ・ムンド)元国土統一院長官は「人間が想像できる、ありとあらゆる残虐行為がなされた事件。日本という国家を相手に、真相調査・謝罪を必ず要求する必要がある」と語った。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者
▲関東大震災当時、虐殺された朝鮮人の遺体を、自警団員が棒でつつきながら見下ろしている(上の写真)。自警団員は、刀を持って街中を歩き回り、朝鮮人を探した(中央の写真)。警察が押収した自警団の凶器。この刀ややりで朝鮮人を無差別に虐殺した(下の写真)/写真提供=東北アジア歴史財団

▲関東大震災当時、虐殺された朝鮮人の遺体を、自警団員が棒でつつきながら見下ろしている(上の写真)。自警団員は、刀を持って街中を歩き回り、朝鮮人を探した(中央の写真)。警察が押収した自警団の凶器。この刀ややりで朝鮮人を無差別に虐殺した(下の写真)/写真提供=東北アジア歴史財団


関東大虐殺90年:ホロコースト、南京に次ぐ人種抹殺の実態
関東大震災から90年、学界から名称変更を訴える声
「朝鮮人1万-2万人が死亡」との主張も
日本は隠蔽(いんぺい)、韓国は知らんぷり
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001338.html
今から90年前の1923年9月1日午前11時58分、東京を含む関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生した。この自然災害は、数多くの朝鮮人が日本人の手で虐殺されるという惨劇につながった。

 今でも「関東大震災」として記憶されているこの事件をめぐり「今こそ『関東大虐殺』と改称しよう」と主張する声が学界から上がっている。許東賢(ホ・ドンヒョン)韓国現代史研究院長は「被害者だった朝鮮人の立場から用語を定める必要がある」と語った。

 当時、日本政府は「朝鮮人が放火したり暴動を働いたりしている」というデマを広めた上「朝鮮人は殺しても構わない」と扇動した。ナチスのユダヤ人虐殺、旧日本軍の南京大虐殺に次ぐ残虐な人種抹殺、大量虐殺だった。虐殺された朝鮮人は約6600人というのがこれまでの説だが、1万-2万人に上るという統計もある。

 しかし、この事件がより悲劇的なのは、日本はもちろん韓国ですら、真相究明の取り組みがあまりに不十分ということだ。日本は厚顔無恥、韓国は怠惰といえる。事件後、日本政府は真相を隠し、民間人に責任を押し付け、さらに加害者を処罰せず、教科書を歪曲(わいきょく)して今に至っている。従軍慰安婦の強制動員を否定する論理と同じ方式だ。韓国政府も、この問題について公式に問題提起したり謝罪を要求したりしたことはない。

 「今こそ『関東大虐殺』の真相究明と謝罪に関する議論を始めるべき」という声が徐々に高まっている。日本の市民団体でも、過去の非人道的犯罪を反省する動きが起こっている。血の歴史から顔を背けるのは「第2の関東大虐殺」をほう助しているも同然だ。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

関東大虐殺90年:虐殺を隠蔽する日本、賠償するドイツ
ナチス政権のユダヤ人虐殺に対し反省・謝罪続ける
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001349.html
 日本が関東大震災(1923年)当時の朝鮮人虐殺を隠蔽(いんぺい)したり、規模を縮小したりするなど、反省していないのに対し、ドイツはナチス政権が犯したユダヤ人虐殺(ホロコースト)を深く反省し、謝罪や賠償を行っている。ドイツは1945年の敗戦後、連合国4カ国(米国・英国・フランス・ソ連)が主導したニュルンベルク裁判で、ユダヤ人虐殺など「倫理に反する犯罪」を断罪された。同年11月20日から46年10月1日まで行われた同裁判で、ナチスの戦犯12人が、ユダヤ人虐殺などを主導した罪に問われ絞首刑を言い渡された。また、首謀者ではない現場責任者に対する裁判も行われ、米国の占領地域で324人、英国の占領地域で240人、フランスの占領地域で104人が死刑判決を受けた。ソ連の占領地域では正確な記録は残っていないが、さらに厳しい処罰が行われたとされている。

 ドイツはユダヤ人虐殺などの戦争犯罪について、他国による処罰だけにとどまらず、自主的な調査や裁判も進め、1963年から90年にかけ計6468人に有罪判決を下した。69年には議会の議決により、ナチスの犯罪者に対する公訴時効を撤廃した。

 また、ドイツはナチスによるユダヤ人虐殺に対し、政治指導者が自ら表に出て反省や謝罪を続けている。1970年12月7日、ビリー・ブラント首相はポーランドの首都ワルシャワにあるユダヤ人犠牲者慰霊塔を訪れ、ひざまずいて謝罪した。85年にはリヒャルト・フォン・バイツゼッカー大統領が「過去に目を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」と発言し、ナチスによる戦争犯罪について謝罪した。

 98年にはヘルムート・コール首相が米国のホロコースト記念館を訪れ、ユダヤ人の犠牲者700万人に対し黙とうをささげた。現職のアンゲラ・メルケル首相は今月20日、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所跡地を訪れ「ドイツ人の大多数が当時の大虐殺に目を閉ざしている。深い悲しみと恥ずかしさを覚える」と述べた。一方、ドイツはホロコーストの犠牲者に対する賠償も行っている。1953年以降「ナチス被害者補償法」などを通じ、700億ドル(現在のレートで約6兆8900億円)の賠償金が支払われた。

李漢洙(イ・ハンス)記者

関東大虐殺90年:日本による正式調査は皆無
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/30/2013083001353.html
 関東大震災の際に虐殺された在日朝鮮人に対する正式な調査は、これまで一度も行われていない。1923年9月10日、上海の大韓民国臨時政府が日本政府に虐殺の実態を詳細に調査して知らせるよう要請したが、日本政府は全く動かなかった。

 それどころか、日本政府は国際赤十字の調査にかこつけて、埋葬した被害者の遺骨を彫り出し、ひそかに別の場所に埋めて隠蔽(いんぺい)した。また、横浜では遺体を海に捨てた。日本人の大内力は地震の際、海軍の親戚から「艦船に乗って横浜に入港したら朝鮮人の遺体が海の上にたくさん浮かんでいて、その上を歩いて行けそうなほどだった」と聞かされたという。それから半年後、子安海岸を襲った台風で数百体の白骨が押し寄せたが、通報を受けた警察は放置するよう命じたとのことだ。

 日本が刊行した当時の判決資料集によると、一審判決文のうち朝鮮人虐殺関連の被告は102人だった。このうち81人に執行猶予付き判決が、5人に無罪が言い渡された。実刑判決を受けたのは16人にすぎなかった。上告審では、朝鮮人を虐殺した被告への実刑判決は最高でも懲役2年未満だった。群衆が警察署に押し掛け、留置場から朝鮮人を連れ出して殺害した「藤岡事件」を担当した樫田検事は法廷で「朝鮮人を殺したことはそうだとしても、警察署を襲撃したのはどういうわけか。日頃から警察に不満があったのではないか」と述べた。当時、警察署の器物を破損した者に対する実刑率は、朝鮮人殺害事件の被告に対する実刑率の3倍だった。

 一審の判決文に記載されていた朝鮮人の名前や住所、職業は、最高裁の判決文では「姓氏不明の朝鮮人」に変わっていた。朝鮮人被害者の身元を隠そうとしたのだ。朝鮮人被害者のうち、名前だけでも確認できている人は80人ほどにすぎない。

カン・ヒョスク円光大学史学科講師
▲1923年9月、朝鮮人虐殺事件で殺害された朝鮮人の遺体が路上に放置されている(写真左)。日本の警察は放火・暴動犯を捕まえるという名目で多くの朝鮮人を逮捕し、強制収容した(右)。これらの写真は姜徳相(カン・ドクサン)在日韓人歴史資料館館長が入手し、今月22日に東北アジア歴史財団の学会で公開した。/写真提供=東北アジア歴史財団

▲1923年9月、朝鮮人虐殺事件で殺害された朝鮮人の遺体が路上に放置されている(写真左)。日本の警察は放火・暴動犯を捕まえるという名目で多くの朝鮮人を逮捕し、強制収容した(右)。これらの写真は姜徳相(カン・ドクサン)在日韓人歴史資料館館長が入手し、今月22日に東北アジア歴史財団の学会で公開した。/写真提供=東北アジア歴史財団


関東大虐殺90年:日本の教科書で歪曲・隠蔽が増加
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/31/2013083100796.html
 日本の自由社がつくる中学校用の歴史教科書は、213ページの「関東大震災」の項目で次のように記述している。「1923(大正12)年9月1日、関東地方で大地震が起こった。東京や横浜で大火災が発生し、死者・行方不明者は10万人を超えた(関東大震災)。この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けたが、地震が多い日本で近代都市設計のために得られた教訓は多く、耐震設計の基準作りや都市防災の研究が始まった」

 当時、日本人が6000人以上の朝鮮人を大量虐殺し、その背後に日本政府の意図的なデマ流布があったということは、この教科書のどこにも登場しない。関東大震災について「日本経済への打撃と都市発展の契機」としか見ていない。自由社の教科書は、かつて「歪曲(わいきょく)教科書」出版で問題になった極右勢力「新しい歴史教科書をつくる会」系列の人物が執筆したもの。非人道的犯罪の隠蔽(いんぺい)が、90年過ぎた今でも続いているというわけだ。

 専修大学の田中正敬教授が最近、東北アジア歴史財団の学術会議で発表した論文によると、日本の中学校用の歴史教科書7種類のうち、自由社の教科書を除く6種類では、朝鮮人虐殺について言及がある。しかし、警察や軍隊が虐殺の主体に含まれていたと明記している教科書は3種類(教育出版・清水書院・日本文教出版)だけだった。

 同じく極右教科書といわれる育鵬社の教科書は「交通や通信が途絶した混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が、住民がつくった自警団などに殺害される事件も起きた」と記した。朝鮮人の虐殺を、偶発的に起きた事件であるかのように記述しているだけでなく、責任を日本政府ではなく民間に押し付ける姿勢を見せている。

 7種類の教科書のうち「虐殺」という表現を使ったのは、清水書院の教科書だけだ。また、殺された人の数については、2種類が「数千人」、2種類が「多数」という表現を使った。虐殺の実体や規模についてきちんと明らかにしていないというわけだ。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

関東大虐殺90年:「嫌韓デモ頻発の日本、同じ悲劇起きる」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/31/2013083100797.html
 東京・墨田区の八広駅から徒歩約5分の路地。住宅の間にある10坪(約33平方メートル)ほどのスペースに「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」が立っている。90年前、ここからわずか数十メートルの荒川河川敷で無念にも虐殺された韓国人を悼む追悼碑だ。

 27日午前に追悼碑を訪れると、誰かが供え物として置いていった缶ビールが2本と菊があった。小さな追悼碑だったが、周囲には丹精こめて手入れされたムクゲとホウセンカが植えられていた。日本語とハングルの案内文もあった。

 追悼碑は日本の良心的な市民たちが30年以上にわたり粘り強く努力した末、建てられた。この地域で小学校教師をしていた絹田幸恵さん(1930-2008年)は1975年、荒川の歴史を調査していた際、関東大地震時にここで韓国人が虐殺されたという話を偶然聞いた。絹田さんは関連調査を経て、82年に市民団体「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」を発足させ、毎年9月に追悼式を開催した。虐殺現場の川沿いで追悼碑設置を推進したが、日本政府と区が拒否し続けた。そのため川の近くの建物を購入し、2009年に追悼碑を建てた。

 市民団体「グループほうせんか」の西崎雅夫さん(55)は大学生のとき、絹田さんの「発掘し慰霊する会」に参加したのをきっかけに、関東大震災時の韓国人虐殺について真相究明に取り組んでいる。西崎さんは追悼碑のすぐ隣の住宅で暮らし、追悼碑の管理や関連資料の調査を行っている。住民らの目撃談を掲載した証言集も発行した。西崎さんは「私たちが訪ねていくと、住民たちは長年胸の中だけにしまっていた悲劇の現場を生々しく語ってくれた」と話す。この地域は被害をほとんど受けず、地震で崩壊した街を脱出した避難民であふれ返っていたという。西崎さんは「地震が発生した9月1日の夜から『朝鮮人が火をつけた』などのデマが広がり、虐殺が始まった」と語った。

東京= 車学峰(チャ・ハクポン)特派員

関東大虐殺90年:韓国の教科書でも忘れられる事件
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/31/2013083100798.html
 サムファ出版社版の検定済みの高校『韓国史』教科書は、計408ページ。このうち、近現代史を扱った部分は306ページあり、全体の4分の3を占める。しかしこの教科書には「関東大虐殺」や「関東大震災」に関する記述が全くない。一方、1937年に旧日本軍が中国で起こした「南京大虐殺」については、1次資料や関連写真まで示し、別に囲み部分を設けて12行にわたって記している。

 関東大震災での朝鮮人虐殺事件は、被害者となった韓国の歴史教科書でも軽視されている。虐殺の主体、被害者数などの記述が、一部の日本の教科書よりも簡略化されている教科書も多かった。本紙が現行の高校『韓国史』教科書6種類を分析した結果、関東大震災での朝鮮人虐殺を紹介した教科書は5種類あったが、このうち本文で記述している教科書は2種類だけだった(法文社・志学社)。残る3種類(未来N社・ビサン教育社・天才教育社)は本文とは別の囲み部分で言及しているだけだった。

 本文で記述している教科書も、内容は極めて簡略化されていた。法文社の教科書は「日本と米州に移住した同胞の暮らし」という項目で、5行にわたり関東大震災での朝鮮人虐殺を取り上げているが、そこでは「過激な日本人は自警団を組織し、韓国の同胞を無差別攻撃した」と記しており、日本の軍隊・警察が直接虐殺に加担したことには触れていない。志学社の教科書は「国外移住同胞の独立運動」という項目で「1923年の関東大地震では、捏造(ねつぞう)されたデマにより多くの韓国人が虐殺された」と記すにとどまり、「役に立つ資料」と題する囲み部分でも、日本の軍隊・警察が加担したことや犠牲者の数には言及していない。

 採択率が高いといわれる未来N社の教科書は「その時その事件」という別枠の囲みで、7行にわたり関東大震災での朝鮮人虐殺を取り上げ、虐殺の主体は「日本人」とあいまいに記した。▲日本の軍隊・警察が虐殺に加担したという事実▲犠牲者数▲デマを流布した事実-の全てに言及したのは、別枠の囲みで事件を取り上げたビサン教育社の教科書だけだった。許東賢(ホ・ドンヒョン)韓国現代史研究院長は「民族主義を掲げながらも、国内の事件ではない在外韓国人の悲劇は忘れてしまう『片側だけの民族主義』の傾向が、教科書の記述にまで表れている」と語った。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

1923年9月の関東大震災で虐殺された朝鮮人の遺体の写真。在日韓人歴史資料館の姜徳相(カン・ドクサン)館長が入手、今月22日に東北アジア歴史財団の学術大会で公開した。/写真提供=東北アジア歴史財団

1923年9月の関東大震災で虐殺された朝鮮人の遺体の写真。在日韓人歴史資料館の姜徳相(カン・ドクサン)館長が入手、今月22日に東北アジア歴史財団の学術大会で公開した。/写真提供=東北アジア歴史財団



「朝鮮人虐殺に日本軍が組織的に介入」 関東大震災の真相を暴露した西崎雅夫氏
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013083194878
「朝鮮人を10人ずつ縛って軍人が機関銃で殺した。死ななかった朝鮮人は線路に並べて石油をかけて焼いた」

「臨月の女性の腹を縄で縛って川に投げた。すると赤ん坊が生まれた。2人はへその緒でつながれたまま川に流された。本当に悲惨だった」

「朝鮮人の死体は魚市場で大きな魚を運ぶように足首を鉄の鎖でつながれ、警察署まで運ばれた」

1923年9月1日に発生した関東大震災から90年が経ち、当時、東京一帯で強行された朝鮮人虐殺を伝える3冊の証言集がまとめられた。著者は西崎雅夫氏(53)。西崎氏は30日、東亜(トンア)日報とのインタビューで、「日本政府は、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺と関連して、軍や警察の関与を隠したり縮小してきた。しかし、日本軍が直接朝鮮人を殺害し、警察がデマを流したという多くの証言がある」と強調した。西崎氏は、日本社会が当時の教訓を直視しなければ悲劇が繰り返されると警告した。

「当時、日本軍が朝鮮人を殺すと、一般民衆は『万歳』を叫んで歓迎した。朝鮮人が殺人や放火をしているというデマを信じ、軍が自分たちを守ってくれると考えたのだ。これが契機になって日本軍はファシズムに突き進んだ。政府が中国と北朝鮮の脅威を利用して自衛隊を国防軍に変更しようとする最近の動きも同じ流れだ。歴史は繰り返す」

西崎氏は中学校の元英語教師だ。健康上の理由で10年前に退職し、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の仕事に専念してきた。西崎氏は証言を集めるために4年間、東京の公立図書館で資料をさがし、数万冊の本を閲覧した。

――どんな証言が多かったか。

「日本の警察が『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマをねつ造して民衆が自警団を作って朝鮮人を虐殺したという内容だ。日本軍が直接殺したという証言も多い。妊婦もお腹に爆弾を隠しているといって殺した。上海臨時政府がその年の12月5日付の独立新聞に、6661人が犠牲になったと報じた。しかしこれも確かな数字ではない」

――当時、日本政府はどのように対応したか。

「国際社会の批判を恐れて、日本軍が殺害した事件を除いて民衆が殺害した事件だけ一部裁判にかけたが、ほとんど執行猶予などの軽い処罰で終わり、4ヵ月後の皇太子の結婚式の時に皆恩赦を受けた。日本政府はむしろ朝鮮人の暴動証拠が発見されなかったため、無理に証拠を作ろうとした」

――日本人たちの反応は…。

「ほとんど知らずにいたが、話を聞いて『ショック』を受ける。そこから日本の将来を考えるようになる。最近、高校教科書で関連内容を記述した箇所が削除されているが、日本はますます過去に戦争を行なった原因を忘れつつある」

西崎氏は、市民団体とともに朝鮮人虐殺に対する日本の国家責任を問う署名運動を6月から展開している。現在500人余りの署名が集まった。今年の年末まで署名を集め、国会衆参両議院の議長に対して真相究明を求める請願を出す予定だ。


今現在、2013年9月になろうとする時期ですが、90年前関東大震災がありました。マグニチュード7.9の大地震が関東を襲い、千葉県から静岡県まで広範囲に被害を出し、10万人を超える死者と200万人近い被災者を出しました。関東大虐殺、関東大震災で起きた一連の朝鮮人虐殺事件を書いた9つの朝鮮日報の記事、1つの東亜日報の記事を素晴らしいのでブログでも紹介させて頂きます。記者の兪碩在(ユ・ソクチェ)氏には恐れ入ります。私は関東大震災およびその後に発生した一連の朝鮮人虐殺を関東大虐殺と今後呼ぶことにします。

以下、以上の記事の中から私的にいくつかの要点をまとめてみます。

●関東大震災で殺された朝鮮人の数については、6000人というのが定説だったが、2万人以上と今まで考えられてきたよりもはるかに犠牲者が多いということ。朝鮮人のほかには、中国人も虐殺されています。朝鮮日報の記事では朝鮮人の虐殺についてのみで触れられていないが、中国人の犠牲者も多い可能性も否定はできない。

●虐殺自体があったことを否定するものは少ない。しかし、交通や通信が途絶した震災の混乱の中で、"地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火したり、井戸に毒を投げ入れている"といった流言・噂が広まり、民間人からなる『自警団』が朝鮮人の虐殺を行った。つまり、日本政府(軍隊・警察)はこれを傍観した不作為の責任は否定できないにしろ、虐殺の責任は大地震による混乱と民間人にあるというのが一般的。
しかし、実は、「朝鮮人が放火したり暴動を働いたりしている」という流言を広めた上に、「朝鮮人は殺しても構わない」と住民を扇動したのは、警察や軍隊、つまり日本政府そのもの。9月1日の震災の発生したその日の夜のうちに"朝鮮人が火をつけた"というデマが広まった。この事実だけでも自然発生的にとするのは、あまりにも早過ぎて不自然。
単に流言を広めるだけではなく、地震の直後に戒厳令も公布されるとともに、自警団やデマが広がる前に軍隊が出動した。日本軍が流言が乗せられて住民が虐殺する前に率先して朝鮮人を見つけ組織的に虐殺を開始した。各地の警察が"朝鮮人の暴動や放火、井戸に毒を入れた"などのデマを流し、そうしたデマや軍隊、警察の行動を知った民衆が自警団を組織し、軍隊とともに朝鮮人の大量殺戮を実行し、大量虐殺につながっていった。

●日本政府がデマを広めたり、虐殺を行なった理由
震災後の国民の不満や動揺を逸らすためのスケープゴートとして朝鮮人をターゲットにした。立教大学の山田昭次名誉教授の研究によると、地震当日の9月1日夕方にはすでに警察が「朝鮮人が殺人・放火を行っている」というデマを広めていた。関東大震災から4年前の3.1独立運動や青山里の戦いでの日本軍敗退など、大虐殺や虐殺を扇動した背景には、"植民地朝鮮に対する危機意識"も当時の政府、日本軍内部にもあった。

●「朝鮮人が放火したり暴動を働いたりしている」といった警察が流したデマは事実無根の完全な捏造
当時の朝鮮日報が日本の警視庁の秘密報告書を入手し、9月24日付の記事「朝鮮人の暴行は絶無」で「朝鮮人の暴行や放火事件はなかった」という事実を伝える。
立教大学の山田昭次名誉教授が当時の司法省の発行した『震災後における刑事事犯及びこれに関連する事項調査書』を分析した結果、放火・殺人・強盗・婦女暴行などの犯罪に及んだと記録された朝鮮人の「犯人」120人のうち、115人は「姓名不明」で、残りは「所在不明」あるいは「逃亡」「死亡」であり、デマを引き起こした犯罪の主体は存在せず完全な捏造と断定。朝鮮人への大量殺戮が広まり過ぎて、日本政府も慌てるが、「(朝鮮人が暴動を起こしたという)風説を徹底的に取り調べ、これを事実として出来る限り肯定することに努むる」という決定を下し、自分たちが広めたデマを事実であるかのように工作し、政府の虐殺責任の隠蔽を図る。

●大虐殺の隠蔽は虐殺後も続けられた。国際赤十字の調査に便乗して、埋葬された虐殺犠牲者の遺体(遺骨)を掘り出して、ひそかに別の場所に埋めたり、虐殺犠牲者の遺体を海上に遺棄し、隠蔽した。

●震災後、朝鮮人虐殺関連についても裁かれたが、すべて自警団などの民間人で、虐殺に至るデマを広めた政府の幹部や、直接虐殺に加わった警察官や軍人は裁かれませんでした(朝鮮日報の記事には言及なし)
朝鮮人虐殺関連の被告は102人のうち、実刑判決を受けたのはたったの16人に過ぎず、最高でも懲役2年未満。
群衆が警察署に押し掛け、留置場から朝鮮人を連れ出して殺害した「藤岡事件」では、朝鮮人を殺害した者よりも警察署で器物を破損した者のほうが実刑率は3倍も高かった。

●90年前に関東大震災と言う大地震を関東地方に発生。数多くの朝鮮人が日本人の手で虐殺されるという惨劇が起こる。この一連の朝鮮人虐殺の悲劇は関東大震災の一出来事、一事件として位置づけられ記憶されることが多い。この一連の朝鮮人の虐殺の事象を関東大震災という自然災害の事象と切り離して分離し、犠牲者である朝鮮人の支視点から考え、"関東大虐殺"として定義しようというのがこの一連の記事。

● 日本軍も直接虐殺に加わった。関東一帯から朝鮮人絶滅を意図したものではないものの、震災の国民の不満や動揺を仕向ける対象として朝鮮人を選んで、「朝鮮人が放火したり暴動を働いたりしている」というデマを広めた民衆を興奮させた上、「朝鮮人は殺しても構わない」と朝鮮人の虐殺(殺戮)を扇動した。各地で組織された自警団が朝鮮人を探し殺戮しながら練り歩き、実弾をもった日本軍も各地で朝鮮人の大量殺戮を行なった。
ナチスは「ユダヤ人が富を収奪している」という嘘とデマを振り撒き、民衆自身がユダヤ人の捜索と迫害、虐殺に加担するように仕向けた。関東大虐殺とナチスのホロコーストは大量殺戮という点以外でも、特定の人種をターゲットにした人種抹殺という点でも非常に類似し、一連の関東大虐殺は朝鮮人に対するジェノサイドであるといえる。

従軍慰安婦問題や強制徴用・労働、過去の植民地支配自体に隠れて、この問題は追及されてきませんでした。90年も立ち、犠牲者遺族や被害者への補償、加害者への処罰は困難かもしれません。でも、日本政府が当時の責任を認め、謝罪することによる"朝鮮人が放火したり、暴動を起こしたり、井戸に毒を投げた"との当時のデマの汚名からの犠牲者の名誉や尊厳の回復や、真相究明は絶対に果たされなければなりません。

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