葦群

川柳 梅崎流青

川柳葦群39号

2016年09月30日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第39号より)
            梅崎 流青選
蝉は鳴き我は黙ったままでいる    辻内 次根
岩ひとつ動いて川が流れだす     山下 和子
蝉たちよあの日消された歌うたえ   砥川 房代
未使用の青空ここで出そうかな    清水美智子
わたくしの胸に動かぬ錆びた釘    中川しのぶ
一冊の本と漂流して果てる      渡邊 桂太
文明に取り残されてみたくなり    佐藤 倫子
墓掃除カラス一羽と啼き交わす    田中ほつ枝
風を見よ風を感じよ今日生きよ    吉開 綾子
夏至を過ぎもう脱ぎ捨てる殻がない  坂倉 広美
どの指も叛くきっかけ待っている   長井すみ子
本音を言うこともないだろ人の死へ  淡路 放生
影だけが鬼ごっこから帰らない    真島久美子
騙されてみたいと思う心太      野村 賢悟
その後ろそのまた後ろ秋である    水谷そう美
人形の身の上話聞く納戸       横尾 信雄

川柳葦群ノート (39)
       梅 崎 流 青
遺したい一句は
 地方の公共団体が催す落語会へ出かけた。流石、言葉と所作のプロだ。厳しい修練の積み重ね、ということは素人目にも明白だった。
合間の出し物。二つの出刃の切っ先を合わせ一方の柄を天井に向けた顎に乗せてバランスを取る。もう一方の柄には左右対称の飾り物がクルクル回る、というものだった。それこそ「血の滲むような」という修飾語がふさわしい修練の果ての「芸」といえるものだろう。切っ先が狙っていたのは芸人の白い喉仏である。
入場者にアンケート用紙が配られた。その中の設問の一つに年代を問うものがあつた。10代、20代と続き最後は70代以上の一まとめ。
会場を見渡した。どう見ても70代以上が多くを占め80、90代と思しき人も見られた。
高齢化時代、せめて「80代」を設けるべし、と用紙に書き加えた。「高齢の青年」はいくらでもいるのだ。
翻って川柳。私の担当している川柳教室は半官半民で運営されている。春と秋に会員募集を行う。ある日、新入会員に声をかけられた。「大会に入選したい。大会課題の投句を添削して欲しい」というものだった。「80代。もう私は若くはない」とも付け加えられた。
日頃、「自分のことばで自分の思いを表現する」という頑なともいえる理念を大切にしている私にはなかなか難しい注文だった。なにしろ会員には「声色を使ってまでしての大会には入選しなくてもよい」などと口走り、事前に会員の投句に目を通したこともない。たまに隣に座す会員が入選の呼名でもしようものなら軽く頷く程度。
これをもし節操と呼べるなら私の川柳人生の揺るがぬ節操である。
反面、教室では原句を壊さぬように、を前提としながら添削を行う。
一句でも多くとの大会入選句数崇拝の信仰心がより高くなったようだ。川柳総合誌には「入選句を生み出すコツ」なども企画するものだからその信仰心をあおる。
入選句数欲しさに5・7・5の器に借りもののことばや思想で盛り付けていく「手作業」を果たして文芸と呼べるかためらう。
先の「修練」ともほど遠い。
80代といって焦ることはない。「遺したい一句」というものは往々にして「西方浄土」で聞くことが多いものだ。

  近 詠
 敗戦日水漬く屍を低唱す
 饒舌の後ろに暗い海がある
 刻印は父の名鍬は石を噛む
 払暁の地平に置いてみる未来


喧騒の蝉たち
     軽い川柳と新たな負債

 人は自分が持ち得ない能力を持っている人にある種の嫉妬心を覚えながらも尊敬の念を抱く。
 例えば足の速い人、流暢に英語を話す人、ゆっくりとよく噛んで食べる人、伴侶と呼ばれる人と人前で手をつなぐことができる人、人の話にじっくりと耳を傾ける人などがそれである。
 昔、勤め人だった頃、事あるごとに「打ち上げ」と称し居酒屋のノレンを潜った。決まって「締めはラーメン」というムラの掟を忠実に守り抜く仲間たちであった。
 ラーメンや餃子の旨い店のノレンは手垢で汚れ、壁や柱は煙や油にまみれた「不潔な店」というのも一致した見方だった。
 付け加えるなら店主の「不愛想」も絶対条件だった。
 いや一致したものがまだある。それは早食いと他人の話をまるで聞かない人たち、でもあった。
「オイ、人間にはどうして耳が二つ、口が一つか知っているか」と何度叫んだことか。「よく聞き喋りはその半分」という忠告も喧噪にかき消された。半ばそれは自分自身に言い聞かせている発言だとは誰しも分かっていた。
蝉が何かの拍子に一瞬静寂を作りまた一斉に騒ぎ立てるのにも似た連中だった。
私はこの時、酒や食うものの旨さは値段や銘柄、産地、料理人、場所などではなくて「誰と食うか」が一番の決め手であるということを確信した。

納豆文化
 ただどんなに気の合う仲間たちとでもどうしても口にできないものが一つだけあった。それは「納豆」である。
あの世界大戦。終戦時には外地で戦った兵士には餓死という悲惨な山を築かせたが納豆の好き嫌いで出身地が分かったという。
列島を東西に分けると関東をはじめとする東の兵隊たちが納豆を掻き混ぜたという。  
納豆文化は東西で色分けされていた、と何かで読んだ。
そんな訳で「納豆の好きな人」も私の尊敬する人と指を折る。

575の器と独創性
 そして私たちの川柳という17音字の世界。
この器を宇宙より広いと感じるかそれとも小さな盃か、ものの考えようである。
ひところの伝統や革新という論争もとんと耳にせぬようになった。
そして一部に言われた「詩性」についても岸本吟一は苦言を呈した。「それでは詩性以外の川柳はまるで詩がないかのような誤解を与えよう」というものだった。
川柳は明治、大正、昭和という時代と変遷を経て「社会や人間を詠う短詩」という定義が定着した。
私は、両手いっぱいに広げても抱えきれないこの緩やかなシバリが好きだ。
考えようによっては宇宙ほどではないにしてもこの短詩は決して小さな器ではない。
この定義に私は必須条件として「独創性」を加える。独創性は川柳に限らずどの文化、芸術、文芸の背骨であり胆なのだ。
 全国各地の大会、川柳誌に発表される川柳の数はどれほどのものか見当もつかない。その一つひとつに作者の思いがあり手ごたえもあろう。
この一つの雫がやがて川を作り川が集まり海へと注ぐ。
この流れもまた時代によってさまざまなうねりを作ってきた。
このうねりの中に翻弄された鶴彬がいたし俗にいう六大家もいた。
そして現代のうねりの中核をなしているのが「全日本川柳協会」でありそこで選ばれた国文祭や全日本川柳大会の最高賞といっていいだろう。なぜならこれらは今現在の「指標」となるべき作品ともいえるからだ。
これらに準じる「平成柳多留集」の川柳大賞がある。
これは「平成柳多留」に寄せられた多くの作品の中から秀句を選びその中から複数の第2次選者が大賞として選考したものである。
 やわらかな視線にはいといいました
この大賞の表彰は第40回全日本川柳大会での前夜祭で行われた。その外にも同作者の
 にこにこといつも包んでくれました
この川柳も先に照らせば私が持ち得ないものの一つである。
このところ川柳がライト感覚で作られ「軽い川柳」がもてはやされているという。
一頃言われた「情念の川柳」の裏返しかはたまた反動かは窺いしることはできぬ。
これもまた川柳の持つ懐の深さ、広さといえなくもない。
いみじくも話ことばのような「軽い川柳」の台頭がこの大賞で裏付けられた格好だ。
ふと思いだした。同作者の
 よくなってきたなとぼくも思います
 笑ったらどんなにいいか知れません
 そういうといつも笑ってましたなあ
を取り上げ「ジュニア川柳」と並べていた。
これは「川柳番傘」6月号の「前号鑑賞」のことである。

新たな負債
 川柳に限らず短詩文芸は作り手と読み手の共同作業の部分がある。
どのような優れた作品と言われても読み手の胸に響かねばただの言葉の羅列になってしまう。
もちろん読み手の資質にも左右されるところもあるが、読み手の貧しさを補って余りある川柳というものはいくらでも存在する。
その意味でいえば今回の大賞は読み手がかなり汗をかかないと到達できぬ川柳だといえる。
「やさしいことばで深さを」というが何度読んでも平板以上の深さに到達できないのだ。大賞作品、そんなはずはないと挑戦するがこの会話調の作品に届かぬ。
川柳はいうまでもなく韻文である。韻文は単語、文字の配列や音数に一定の規律を持ったものである。
この韻文に対し散文はこれらを有しない。小説やエッセイなどがそれである。
汗をかいても届くことができない理由は果たしてこの大賞作品が韻文か、ということも一方の理由である。
「―――風や光は背中を押してくれるのになかなか決断がつきませんでした。下向きの顔を上げた時その人の顔がありました。私はその『やわらかな視線にはいといいました』―――」。
陳腐なにわか仕立ての散文に大賞の川柳を当てはめても何の違和感もない。
もしこの句の良さをいうなら口誦性とでもいえようか。
俳人の「鱗を剥ぐように」とまでは望まぬが「はいといいました」などの予定調和的川柳が「軽い」川柳としてこれからも広がっていくのだろうか。
そしてまた一方では「駄ジャレも川柳、ことば遊びも川柳」という狂句百年の負債を未だに返せぬ川柳界に新たな負債が生まれようとしている。

どさゆさ」と「きゃーのしゅー」
 どさゆさと言うて路地裏暮れの秋
どさ、ゆさ=「何処へ、入湯へ」(秋田)
 懐手ほんとは嘘と知っとうと
知っとうと=「知っているよ」(博多)
本棚の隅に色褪せた「俳句研究」が並んでいる。整理のためパラパラと捲っていたら「第3回全国方言俳句大会」の入選俳句が目に止まった。
「どさ・ゆさ」とは秋田でも遣うのかと思った。実は前に確か青森の方言として読んだ記憶があったからである。
少し字余りになるが
 何処へ湯へと言うて路地裏暮れの秋
よりはるかに土着の温さが漂い深みがでてくる。これが方言のもつ魅力というものであろう。
恐らく「どさゆさ」は東北地方の共通の言葉ではないかと想像を膨らます。
博多弁の「知っとうと」も同様の響きがある。その転化したものが「とっとうと」だろう。「この席空いていますか」に「母は今電話のため席を外しています。そのため席を確保しています」、を大きく簡略し「取っとうと」ということになる。
「きゅーのしゃーはきゃーのしゅー」とまるでアナウンサーの滑舌訓練のためのようなことばに出会ったことがある。
これは佐賀の真島清弘さんに教えて貰った佐賀の方言である。
標準語では「今日のおかずは貝の味噌汁」となる。
「きゅー」は「今日」、おかずの「しゃー」は「菜」のことで「きゃー」は「貝」、「しゅー」は「汁」で特に味噌汁という。
極め付けは「ケ、ケ、ケ、ケ」だろう。これは鹿児島の一部で遣われる方言だという。元々薩摩弁は日本でも独特のもので戦争中の暗号にも使用したという。
第一のケは「貝を」、第二、第三のケは「買いに」第四のケは「来なさい」という。
テレビをはじめ各種情報網の発達は言葉の平準化と統一化をおし進める。加えて少子高齢化は限界集落を作り、各地に伝わる伝統や習わしの減少、消滅に拍車をかける。
新年の季語一つとっても羽根突き、凧揚げ、歌留多、傀儡師、獅子舞なども本の中の出来事だけになってしまうのだろうか。
私の住む集落では正月の松飾りなどを燃やす「どんど焼き」だけが辛うじて新年の行事として残っている。
遺したい「どさゆさ」や「きゃーのしゅー」。

ゆうこの日記
 神野きっこが「ゆうこの日記」を出版した。これは野沢省悟が主宰する「触光」に連載したものをまとめ加筆、製本化したものである。
寝たきりのゆうこにも毎月生理
平成25年、第3回「髙田寄生木賞」大賞作品である。
私もこの賞の選者の一人としてこの作品に一票を投じた。
「寝たきりのゆうこ」は世間一般でいう「障害者」である。その障害者といえども連綿と続く命の尊厳は備わっているもの、という摂理を表現した。
加えて、身二つになった一つが障害者であることを白日にさらすという「勇気」にも心を突き動かされた。
「障がい者への世間の偏見がなくなり心と環境のバリアフリーが実現されることを念願に出版します」と表紙にいう。
「害」を「がい」と表記しなければならないことに「偏見」の根深さがある。
障害には身体、知的、精神があるが障害者の反意語を「健常者」という。
人には五官というものがある。五感を生じる五つの感覚器官。眼、耳、鼻、舌、皮膚の合わせて五つをいう。
その中の一つが弱い、または失った人を社会は「健常者にあらず」という。
私は点字歩道を一本の白杖で真っすぐ、または直角に歩く人を何度でも見た。また点字に指を触れながら電車の切符を買う人も見た。
一方、点字ブロックに自転車を放置し白い杖を立往生させる「健常者」にも出くわした。
眼は失っても耳と皮膚を合点すれば五つ以上の障害者はいくらでもいる。
ピアニストの辻井伸行を引き合いに持ち出すまでもない。
視力、嗅覚、味覚など衰えた私など合わせても「五つ」には程遠くなってしまった。
相模原市の知的障害者施設での殺傷者は社会でいう「健常者」である。
命あるものが刺殺されても被害者の氏名など公表できぬ不条理に表だって声も起こらぬ。
被害者という「者」が「物」のように扱われ葬り去られてしまうのだろうか。
ゆうこは平成5年に生まれ、22歳の短い生涯を閉じたが「寄生木賞」としてこれからも人々の記憶の中で生き続けよう。

シャーロキアン
 秋冬野菜作りの準備を急いでいると一人の見知らぬ中高年から声をかけられた。
声も表情も遠慮勝ちである。大げさにいえば恐るおそるという感じ。
人は例え初対面であってもその人の性格やこれまで歩いてきた道のりは何となく想像がつく。
それはシャーロック・ホームズ程の観察、推理力が備わっていなくても、である。
男性は散歩の足を伸ばしてここまで来られたという。
聞くところによると思った通りの定年後の「ブラブラ組」で家庭菜園を趣味の一つに取り入れたが上手くいかない、という。
そこでたまたま通りかかった男性の奥さんが「あそこで勉強してきなさい」と指示され声かけとなった訳だ。
話の内容から住んでいる所、定年後であること、家庭内で置かれている立場など秘かなるシャーロキアンとしての自負を満足させる「道のり」だった。
私は畑の土作りから野菜の植栽、種まきの時期、種類、畝立て、人に無害の消毒液の作り方など知っている限りを教えた。
別れ際私も質問を受けた。「これまでのご職業は」。すかさず質問者のかすかな期待と要望を斟酌し応えた。「農業試験場です」。
軽いジョークのつもりだったが半分は真顔で受け取られた。「しまった。調子に乗りすぎた」。
シャーロキアンにも読み違えはある、と苦笑しながら後ろ姿に手を振った。

川柳界の淀川長治
 誰しも目を閉じれば鮮烈に蘇る映画の一場面はあろう。私は富と名声、そして友人の恋人を手にいれた青年の沖に浮かぶ帆船を見ながらの最後の台詞「太陽がいっぱいだ」、がそうだ。監督ルネ・クレマン、音楽ニノ・ロータ、主演アラン・ドロン。
すり切れるほど観てまた聴いた。川柳界でも映画ファンは多い。その中の一人が青森の高瀬霜石。このほど出版した「わたしのスター日記」。まるであの「サヨナラ、サヨナラ」の映画評論家淀川長治ではないか。彼の前で「趣味は映画」など軽々しく口走ることのないよう気をつけよう。

エンゲル係数
釣具屋にエサを買いに行くと「どこで何が釣れるか」と逆取材されることがある。
いつか私宅を訪ねた真島久美子が庭でウナギを焼く私の姿を見て「漁師と思った」。
「それはないだろう。昔はシティーボーイと呼ばれたものだ」。
天然のウナギの素焼きなど年中冷凍庫にある。
かくして食膳には菜園の季節のもの、釣り上げたスズキの刺身や吸い物とエンゲル係数ゼロの日が何日もある。
主食のコメも僅かばかりの先祖の田畑が供給してくれる。
誰かが「鶏を飼ったら」と助言。この上卵や鶏でもシメたら限りなく係数ゼロの日が多くなる。
庭木剪定の際は庭師に、潮干狩りでも漁師に間違われ、ホームセンターではお客さんから「野菜苗の選び方」を問われる。
反面、銀行では右往左往。手続きに戸惑う「挙動不審者」そのもの。
エンゲル係数が少ない程生活水準は高いというがその実感はまるでない。酒類の項目が飛んでいるようだ。
野菜作りへの小型トラクターを始めとする農業資材、釣り竿やリールなどの釣り道具の購入費をキュウリ一本、スズキ一匹に換算する勇気は今のところない。梅崎流青(敬称略)




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2016年09月30日 | インポート
葦の原推奨作品  (第39号より)
            梅崎 流青選
蝉は鳴き我は黙ったままでいる    辻内 次根
岩ひとつ動いて川が流れだす     山下 和子
蝉たちよあの日消された歌うたえ   砥川 房代
未使用の青空ここで出そうかな    清水美智子
わたくしの胸に動かぬ錆びた釘    中川しのぶ
一冊の本と漂流して果てる      渡邊 桂太
文明に取り残されてみたくなり    佐藤 倫子
墓掃除カラス一羽と啼き交わす    田中ほつ枝
風を見よ風を感じよ今日生きよ    吉開 綾子
夏至を過ぎもう脱ぎ捨てる殻がない  坂倉 広美
どの指も叛くきっかけ待っている   長井すみ子
本音を言うこともないだろ人の死へ  淡路 放生
影だけが鬼ごっこから帰らない    真島久美子
騙されてみたいと思う心太      野村 賢悟
その後ろそのまた後ろ秋である    水谷そう美
人形の身の上話聞く納戸       横尾 信雄

川柳葦群ノート (39)
梅 崎 流 青
遺したい一句は
地方の公共団体が催す落語会へ出かけた。流石、言葉と所作のプロだ。厳しい修練の積み重ね、ということは素人目にも明白だった。
合間の出し物。二つの出刃の切っ先を合わせ一方の柄を天井に向けた顎に乗せてバランスを取る。もう一方の柄には左右対称の飾り物がクルクル回る、というものだった。それこそ「血の滲むような」という修飾語がふさわしい修練の果ての「芸」といえるものだろう。切っ先が狙っていたのは芸人の白い喉仏である。
入場者にアンケート用紙が配られた。その中の設問の一つに年代を問うものがあつた。10代、20代と続き最後は70代以上の一まとめ。
会場を見渡した。どう見ても70代以上が多くを占め80、90代と思しき人も見られた。
高齢化時代、せめて「80代」を設けるべし、と用紙に書き加えた。「高齢の青年」はいくらでもいるのだ。
翻って川柳。私の担当している川柳教室は半官半民で運営されている。春と秋に会員募集を行う。ある日、新入会員に声をかけられた。「大会に入選したい。大会課題の投句を添削して欲しい」というものだった。「80代。もう私は若くはない」とも付け加えられた。
日頃、「自分のことばで自分の思いを表現する」という頑なともいえる理念を大切にしている私にはなかなか難しい注文だった。なにしろ会員には「声色を使ってまでしての大会には入選しなくてもよい」などと口走り、事前に会員の投句に目を通したこともない。たまに隣に座す会員が入選の呼名でもしようものなら軽く頷く程度。
これをもし節操と呼べるなら私の川柳人生の揺るがぬ節操である。
反面、教室では原句を壊さぬように、を前提としながら添削を行う。
一句でも多くとの大会入選句数崇拝の信仰心がより高くなったようだ。川柳総合誌には「入選句を生み出すコツ」なども企画するものだからその信仰心をあおる。
入選句数欲しさに5・7・5の器に借りもののことばや思想で盛り付けていく「手作業」を果たして文芸と呼べるかためらう。
先の「修練」ともほど遠い。
80代といって焦ることはない。「遺したい一句」というものは往々にして「西方浄土」で聞くことが多いものだ。

近 詠
敗戦日水漬く屍を低唱す
饒舌の後ろに暗い海がある
刻印は父の名鍬は石を噛む
払暁の地平に置いてみる未来


喧騒の蝉たち
   
 軽い川柳と新たな負債

人は自分が持ち得ない能力を持っている人にある種の嫉妬心を覚えながらも尊敬の念を抱く。
 例えば足の速い人、流暢に英語を話す人、ゆっくりとよく噛んで食べる人、伴侶と呼ばれる人と人前で手をつなぐことができる人、人の話にじっくりと耳を傾ける人などがそれである。
 昔、勤め人だった頃、事あるごとに「打ち上げ」と称し居酒屋のノレンを潜った。決まって「締めはラーメン」というムラの掟を忠実に守り抜く仲間たちであった。
 ラーメンや餃子の旨い店のノレンは手垢で汚れ、壁や柱は煙や油にまみれた「不潔な店」というのも一致した見方だった。
 付け加えるなら店主の「不愛想」も絶対条件だった。
 いや一致したものがまだある。それは早食いと他人の話をまるで聞かない人たち、でもあった。
「オイ、人間にはどうして耳が二つ、口が一つか知っているか」と何度叫んだことか。「よく聞き喋りはその半分」という忠告も喧噪にかき消された。半ばそれは自分自身に言い聞かせている発言だとは誰しも分かっていた。
蝉が何かの拍子に一瞬静寂を作りまた一斉に騒ぎ立てるのにも似た連中だった。
私はこの時、酒や食うものの旨さは値段や銘柄、産地、料理人、場所などではなくて「誰と食うか」が一番の決め手であるということを確信した。

納豆文化
ただどんなに気の合う仲間たちとでもどうしても口にできないものが一つだけあった。それは「納豆」である。
あの世界大戦。終戦時には外地で戦った兵士には餓死という悲惨な山を築かせたが納豆の好き嫌いで出身地が分かったという。
列島を東西に分けると関東をはじめとする東の兵隊たちが納豆を掻き混ぜたという。  
納豆文化は東西で色分けされていた、と何かで読んだ。
そんな訳で「納豆の好きな人」も私の尊敬する人と指を折る。

575の器と独創性
そして私たちの川柳という17音字の世界。
この器を宇宙より広いと感じるかそれとも小さな盃か、ものの考えようである。
ひところの伝統や革新という論争もとんと耳にせぬようになった。
そして一部に言われた「詩性」についても岸本吟一は苦言を呈した。「それでは詩性以外の川柳はまるで詩がないかのような誤解を与えよう」というものだった。
川柳は明治、大正、昭和という時代と変遷を経て「社会や人間を詠う短詩」という定義が定着した。
私は、両手いっぱいに広げても抱えきれないこの緩やかなシバリが好きだ。
考えようによっては宇宙ほどではないにしてもこの短詩は決して小さな器ではない。
この定義に私は必須条件として「独創性」を加える。独創性は川柳に限らずどの文化、芸術、文芸の背骨であり胆なのだ。
 全国各地の大会、川柳誌に発表される川柳の数はどれほどのものか見当もつかない。その一つひとつに作者の思いがあり手ごたえもあろう。
この一つの雫がやがて川を作り川が集まり海へと注ぐ。
この流れもまた時代によってさまざまなうねりを作ってきた。
このうねりの中に翻弄された鶴彬がいたし俗にいう六大家もいた。
そして現代のうねりの中核をなしているのが「全日本川柳協会」でありそこで選ばれた国文祭や全日本川柳大会の最高賞といっていいだろう。なぜならこれらは今現在の「指標」となるべき作品ともいえるからだ。
これらに準じる「平成柳多留集」の川柳大賞がある。
これは「平成柳多留」に寄せられた多くの作品の中から秀句を選びその中から複数の第2次選者が大賞として選考したものである。
 やわらかな視線にはいといいました
この大賞の表彰は第40回全日本川柳大会での前夜祭で行われた。その外にも同作者の
 にこにこといつも包んでくれました
この川柳も先に照らせば私が持ち得ないものの一つである。
このところ川柳がライト感覚で作られ「軽い川柳」がもてはやされているという。
一頃言われた「情念の川柳」の裏返しかはたまた反動かは窺いしることはできぬ。
これもまた川柳の持つ懐の深さ、広さといえなくもない。
いみじくも話ことばのような「軽い川柳」の台頭がこの大賞で裏付けられた格好だ。
ふと思いだした。同作者の
 よくなってきたなとぼくも思います
 笑ったらどんなにいいか知れません
 そういうといつも笑ってましたなあ
を取り上げ「ジュニア川柳」と並べていた。
これは「川柳番傘」6月号の「前号鑑賞」のことである。

新たな負債
川柳に限らず短詩文芸は作り手と読み手の共同作業の部分がある。
どのような優れた作品と言われても読み手の胸に響かねばただの言葉の羅列になってしまう。
もちろん読み手の資質にも左右されるところもあるが、読み手の貧しさを補って余りある川柳というものはいくらでも存在する。
その意味でいえば今回の大賞は読み手がかなり汗をかかないと到達できぬ川柳だといえる。
「やさしいことばで深さを」というが何度読んでも平板以上の深さに到達できないのだ。大賞作品、そんなはずはないと挑戦するがこの会話調の作品に届かぬ。
川柳はいうまでもなく韻文である。韻文は単語、文字の配列や音数に一定の規律を持ったものである。
この韻文に対し散文はこれらを有しない。小説やエッセイなどがそれである。
汗をかいても届くことができない理由は果たしてこの大賞作品が韻文か、ということも一方の理由である。
「―――風や光は背中を押してくれるのになかなか決断がつきませんでした。下向きの顔を上げた時その人の顔がありました。私はその『やわらかな視線にはいといいました』―――」。
陳腐なにわか仕立ての散文に大賞の川柳を当てはめても何の違和感もない。
もしこの句の良さをいうなら口誦性とでもいえようか。
俳人の「鱗を剥ぐように」とまでは望まぬが「はいといいました」などの予定調和的川柳が「軽い」川柳としてこれからも広がっていくのだろうか。
そしてまた一方では「駄ジャレも川柳、ことば遊びも川柳」という狂句百年の負債を未だに返せぬ川柳界に新たな負債が生まれようとしている。

「どさゆさ」と「きゃーのしゅー」
どさゆさと言うて路地裏暮れの秋
どさ、ゆさ=「何処へ、入湯へ」(秋田)
懐手ほんとは嘘と知っとうと
知っとうと=「知っているよ」(博多)
本棚の隅に色褪せた「俳句研究」が並んでいる。整理のためパラパラと捲っていたら「第3回全国方言俳句大会」の入選俳句が目に止まった。
「どさ・ゆさ」とは秋田でも遣うのかと思った。実は前に確か青森の方言として読んだ記憶があったからである。
少し字余りになるが
何処へ湯へと言うて路地裏暮れの秋
よりはるかに土着の温さが漂い深みがでてくる。これが方言のもつ魅力というものであろう。
恐らく「どさゆさ」は東北地方の共通の言葉ではないかと想像を膨らます。
博多弁の「知っとうと」も同様の響きがある。その転化したものが「とっとうと」だろう。「この席空いていますか」に「母は今電話のため席を外しています。そのため席を確保しています」、を大きく簡略し「取っとうと」ということになる。
「きゅーのしゃーはきゃーのしゅー」とまるでアナウンサーの滑舌訓練のためのようなことばに出会ったことがある。
これは佐賀の真島清弘さんに教えて貰った佐賀の方言である。
標準語では「今日のおかずは貝の味噌汁」となる。
「きゅー」は「今日」、おかずの「しゃー」は「菜」のことで「きゃー」は「貝」、「しゅー」は「汁」で特に味噌汁という。
極め付けは「ケ、ケ、ケ、ケ」だろう。これは鹿児島の一部で遣われる方言だという。元々薩摩弁は日本でも独特のもので戦争中の暗号にも使用したという。
第一のケは「貝を」、第二、第三のケは「買いに」第四のケは「来なさい」という。
テレビをはじめ各種情報網の発達は言葉の平準化と統一化をおし進める。加えて少子高齢化は限界集落を作り、各地に伝わる伝統や習わしの減少、消滅に拍車をかける。
新年の季語一つとっても羽根突き、凧揚げ、歌留多、傀儡師、獅子舞なども本の中の出来事だけになってしまうのだろうか。
私の住む集落では正月の松飾りなどを燃やす「どんど焼き」だけが辛うじて新年の行事として残っている。
遺したい「どさゆさ」や「きゃーのしゅー」。

ゆうこの日記
神野きっこが「ゆうこの日記」を出版した。これは野沢省悟が主宰する「触光」に連載したものをまとめ加筆、製本化したものである。
寝たきりのゆうこにも毎月生理
平成25年、第3回「髙田寄生木賞」大賞作品である。
私もこの賞の選者の一人としてこの作品に一票を投じた。
「寝たきりのゆうこ」は世間一般でいう「障害者」である。その障害者といえども連綿と続く命の尊厳は備わっているもの、という摂理を表現した。
加えて、身二つになった一つが障害者であることを白日にさらすという「勇気」にも心を突き動かされた。
「障がい者への世間の偏見がなくなり心と環境のバリアフリーが実現されることを念願に出版します」と表紙にいう。
「害」を「がい」と表記しなければならないことに「偏見」の根深さがある。
障害には身体、知的、精神があるが障害者の反意語を「健常者」という。
人には五官というものがある。五感を生じる五つの感覚器官。眼、耳、鼻、舌、皮膚の合わせて五つをいう。
その中の一つが弱い、または失った人を社会は「健常者にあらず」という。
私は点字歩道を一本の白杖で真っすぐ、または直角に歩く人を何度でも見た。また点字に指を触れながら電車の切符を買う人も見た。
一方、点字ブロックに自転車を放置し白い杖を立往生させる「健常者」にも出くわした。
眼は失っても耳と皮膚を合点すれば五つ以上の障害者はいくらでもいる。
ピアニストの辻井伸行を引き合いに持ち出すまでもない。
視力、嗅覚、味覚など衰えた私など合わせても「五つ」には程遠くなってしまった。
相模原市の知的障害者施設での殺傷者は社会でいう「健常者」である。
命あるものが刺殺されても被害者の氏名など公表できぬ不条理に表だって声も起こらぬ。
被害者という「者」が「物」のように扱われ葬り去られてしまうのだろうか。
ゆうこは平成5年に生まれ、22歳の短い生涯を閉じたが「寄生木賞」としてこれからも人々の記憶の中で生き続けよう。

シャーロキアン
秋冬野菜作りの準備を急いでいると一人の見知らぬ中高年から声をかけられた。
声も表情も遠慮勝ちである。大げさにいえば恐るおそるという感じ。
人は例え初対面であってもその人の性格やこれまで歩いてきた道のりは何となく想像がつく。
それはシャーロック・ホームズ程の観察、推理力が備わっていなくても、である。
男性は散歩の足を伸ばしてここまで来られたという。
聞くところによると思った通りの定年後の「ブラブラ組」で家庭菜園を趣味の一つに取り入れたが上手くいかない、という。
そこでたまたま通りかかった男性の奥さんが「あそこで勉強してきなさい」と指示され声かけとなった訳だ。
話の内容から住んでいる所、定年後であること、家庭内で置かれている立場など秘かなるシャーロキアンとしての自負を満足させる「道のり」だった。
私は畑の土作りから野菜の植栽、種まきの時期、種類、畝立て、人に無害の消毒液の作り方など知っている限りを教えた。
別れ際私も質問を受けた。「これまでのご職業は」。すかさず質問者のかすかな期待と要望を斟酌し応えた。「農業試験場です」。
軽いジョークのつもりだったが半分は真顔で受け取られた。「しまった。調子に乗りすぎた」。
シャーロキアンにも読み違えはある、と苦笑しながら後ろ姿に手を振った。

川柳界の淀川長治
誰しも目を閉じれば鮮烈に蘇る映画の一場面はあろう。私は富と名声、そして友人の恋人を手にいれた青年の沖に浮かぶ帆船を見ながらの最後の台詞「太陽がいっぱいだ」、がそうだ。監督ルネ・クレマン、音楽ニノ・ロータ、主演アラン・ドロン。
すり切れるほど観てまた聴いた。川柳界でも映画ファンは多い。その中の一人が青森の高瀬霜石。このほど出版した「わたしのスター日記」。まるであの「サヨナラ、サヨナラ」の映画評論家淀川長治ではないか。彼の前で「趣味は映画」など軽々しく口走ることのないよう気をつけよう。

エンゲル係数
釣具屋にエサを買いに行くと「どこで何が釣れるか」と逆取材されることがある。
いつか私宅を訪ねた真島久美子が庭でウナギを焼く私の姿を見て「漁師と思った」。
「それはないだろう。昔はシティーボーイと呼ばれたものだ」。
天然のウナギの素焼きなど年中冷凍庫にある。
かくして食膳には菜園の季節のもの、釣り上げたスズキの刺身や吸い物とエンゲル係数ゼロの日が何日もある。
主食のコメも僅かばかりの先祖の田畑が供給してくれる。
誰かが「鶏を飼ったら」と助言。この上卵や鶏でもシメたら限りなく係数ゼロの日が多くなる。
庭木剪定の際は庭師に、潮干狩りでも漁師に間違われ、ホームセンターではお客さんから「野菜苗の選び方」を問われる。
反面、銀行では右往左往。手続きに戸惑う「挙動不審者」そのもの。
エンゲル係数が少ない程生活水準は高いというがその実感はまるでない。酒類の項目が飛んでいるようだ。
野菜作りへの小型トラクターを始めとする農業資材、釣り竿やリールなどの釣り道具の購入費をキュウリ一本、スズキ一匹に換算する勇気は今のところない。(敬称略)

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