2年前の5月、仙台へ出張する機会を利用して近郊を回ってきました。
その時の各地の姿を、皆さんと共有したいと思います。
大阪から仙台空港に着いたのは夜。空港鉄道で仙台市内へ向かいます。
ちょうどお祭りの直前で、商店街は準備万端です。
各企業・団体が競うかのように山鉾を並べています。
仙台藩士支倉常長を乗せてローマに向かったサン・フアン・バウティスタ号をかたどった山鉾でしょうか。
ほかにもいろいろ見たかったのですが、すでに時間が遅かったので、その日は早々に投宿したのでした。
翌日、仕事の前に時間があったので、仙台市内を歩いてみました。こちらは土井晩翠の旧居「晩翠草堂」です。
晩翠草堂は終戦直後に土井の教え子や仙台市民の有志が協力して建てたものです。現在は資料館になっており、晩翠が息を引き取ったベッドも残されています。
仙台市内を歩いてみました。こちらは藤崎百貨店。手前では地下鉄の工事が行われているようです。
ちなみに、イーグルス創設時にいた藤崎は、今同チームの打撃投手だそうです。
メガネの会沢。CMソングがイーグルスの選手がフォアボールで出塁した時のテーマになってます。
仙台だけあって、イーグルスの選手を起用した広告をよく見かけます。
さすがは仙台、こちらもご当地広告ですね。
っていう広告を見た後になんですが、昼はやっぱり牛タン定食にしました。
お昼をたらふく頂いたので、腹ごなしに商店街を散歩しましょう。戦国から江戸初期にかけての仙台の栄光を思わせるからくり時計です。
かと思えば、いかにも日本な提灯も並んでいる。仙台、実に奥深い街です。
蒲鉾店の山鉾を見つけました。豊漁を願う幟に加え、人々が願いを託した絵馬でいっぱいです。
昨日見た太鼓の山鉾です。
こんな張り子の山鉾もありました。商店街は、お祭りムード一色です。
しばらくすると、侍の一団とすれ違いました。イメージからすると、戦国時代でしょうか。
さらに歩くと、すずめ踊りの行列に出会いました。
賑やかなお祭りの一日。私もじっくり見たかったのですが、仕事なので断念。とはいえ、少し雰囲気を味わうだけでも、お祭りは本当に楽しいものです。
翌日は時間があったので、本当ならクリネックススタジアムに行く予定でした。
しかし、朝からあいにくの雨。早々に試合中止が分かったので、ぽっかり空いた時間を利用して、近郊を列車で巡ることにしました。
まずは仙台市営地下鉄を端から端まで乗りつぶします。地下鉄の乗りつぶしは車窓の風景がないので結構な苦行なのですが、仙台の場合は両端が地上区間なのでまだ良かったですね。
仙台に戻った後、JRに乗り込み、北に向かいます。
到着したのは東北本線の支線の終点、利府駅です。かつてはここからさらに北に線路が延びていたのですが、その後ルートが松島方面経由に変わり、利府から先の路線は廃止されました。
その利府に行く支線が枝分かれする岩切駅。電車の待ち合わせの間に、外に出て駅舎を撮りました。
ここからいったん仙台に戻り、仙石線経由で石巻方面に向かいます。
本来なら降りるはずだった宮城野原を過ぎ、松島を眺めながら、1時間ほどで石巻に着きました。
石巻は石ノ森章太郎の生地に近く、市内には氏を記念した石ノ森萬画館があります。その縁で、駅前にはこんな喫茶店があります。
ホームでは、石ノ森マンガで人気を博したキャラクターが出迎えてくれます。
駅の階段にはこんなイラストが。この階段を渡って、さらに石巻線に乗り換えます。
石巻線のディーゼルカーが止まっています。石巻線は仙台の北にある小牛田と言う駅から、ここ石巻を経由して女川までを結ぶローカル線です。
石巻を出たディーゼルカーは、旧北上川を渡ってしばらくすると進路を南に変え、その後いくつもカーブを重ね、南手に万石浦(まんごくうら)を眺めながら、東へと進んでいきます。
万石浦に別れを告げ、トンネルを抜けて、女川駅に着きました。
奥にある青い線は、昭和チリ地震の時に津波が到達した高さ。女川駅のホームは、そこからさらに階段を上ったところになっています。
ホームの隣には、タラコ色のディーゼルカーが1両停まっています。
こちらは、駅の隣にある温泉の休憩室として使われています。
待合室。木の椅子もライトも、何やらレトロな感じがしますよね。
女川駅前にある、駅名標風の看板。女川街道と、女川町の案内です。
となりには足湯もありました。ただあいにくの天気で、この時は利用者はいませんでした。
女川駅の駅舎と、となりの温泉。これでひと風呂浴びて行ければ最高なのですが、残念ながらそこまでの時間の余裕はありません。
ただ、すぐ近くの海には行ってみました。
本当に天気が悪いのが残念ですし、晴れてたら本当にきれいだろうなぁとは思うんですが、そもそも晴れてたら来てなかったんですよね。
帰りの時間が来たようです。乗ってきたディーゼルカーで石巻まで引き返し、今度はそのまま石巻線で小牛田に向かいました。
途中、前谷地と言う駅ですれ違った、気仙沼線に乗り入れるディーゼルカー。
気仙沼線と言えば、私(いや、日本中の鉄道ファンが、と言っていいでしょう)敬愛する鉄道紀行作家である宮脇俊三先生の名著、「時刻表2万キロ」のエピローグ的な路線で、それだけに憧れがあります。
小牛田に着きました。ホームには、ここから鳴子温泉を経て新庄に至る陸羽東線のディーゼルカー。
どこもかしこも、私の旅情を誘う列車ばかりで困ってしまいます。
とはいえ、飛行機が待ってくれるわけではありません。後ろ髪が抜ける、もとい、後ろ髪を引かれる思いで仙台行の電車に乗り込みました。
仙台からは空港まで直通の電車があるんですが、それまでちょっと余裕があるので、南行きの電車でちょっと寄り道。
名取と言う駅に着きました。この近くのスーパーで、地元のお酒と晩ご飯を調達します。空港で食べてもいいのですが、こういう所で買った方が、おいしいものが安くてたくさん手に入りますからね。
そりゃま、本当はこういう所にも行きたかったんですが……
ともあれ、ここから空港に向かい、しばしの旅を終えて機上の人となったのでした。
本来であれば、旅行記はここでおしまいにするところなのですが、ここで個人的な感情を書かせてください。
このエントリを書くに当たっては、正直なところ葛藤がありました。
ここでご紹介した風景の中には、東日本大震災によって奪われてしまったものが少なくありません。
今テレビやインターネットで繰り返し映される現地の状況を見るたびに、この時の風景との落差を感じずにはいられません。
そのような中、私自身もエントリ作成中に画像を見るたび、表現のしようのない感情に胸が潰されそうになりました。
まして、現地の人々がこれらの画像を見た時にどう思うだろうか……阪神・淡路大震災の経験から、それが「察しようがない」ものであることしか、私には分かりません。
しかし、これらの風景の中に、失われてしまったものがあるからこそ、私はあえて画像を公開することにしました。
かつての風景を、私自身だけのものとするのではなく、一人でも多くの人と共有したいと思ったのです。
いや、共有したいのは風景だけではありません。これらの風景を作り上げてきた、人々の営み、人々の生活の積み重ね、築き上げたもの、そのものです。
それらをこそ、私個人だけの記録としてではなく、一人でも多くの人と分かち合いたいと思ったのです。
人間は自然の前では小さい存在なのでしょう。人一人の生涯以上の長い時間をかけて積み重ね、築き上げてきたものも、自然によって簡単に奪われてしまう。どれだけ人間が抗っても……
ですが、人間は記憶すること、記録することはできる。自然どれだけのものを奪い去ったとしても、それらを記憶として、記録として守り通すことはできる。
人の生命を簡単に奪う自然は、確かにその人の記憶を奪うことはできる。記録も奪うことはできる。
しかし、人間というものが残っている限り、記憶するということ、記録するということ自体は、決して奪われない。
だから、皆さんとともに、覚えておきたいのです。人々が暮らしてきた街を。人々の暮らしを。
これらの画像が私の嗜好に偏っていることは理解しています。まして、たった1日、駆け足の訪問で、大して多くの記録ができていないことも理解しています。
ですが、このささやかなものが、どこかで誰かの記憶とつながって、せめて人々の「想い」の中で、奪われた風景を蘇らせることになる、そんな可能性に私は賭けずにはいられないのです。
そうすることで、東日本大震災の被害のうち、どうしても取り返しがつかないものを、わずかなりとも、補うことができたら……そう私は思っています。
その時の各地の姿を、皆さんと共有したいと思います。
大阪から仙台空港に着いたのは夜。空港鉄道で仙台市内へ向かいます。
ちょうどお祭りの直前で、商店街は準備万端です。
各企業・団体が競うかのように山鉾を並べています。
仙台藩士支倉常長を乗せてローマに向かったサン・フアン・バウティスタ号をかたどった山鉾でしょうか。
ほかにもいろいろ見たかったのですが、すでに時間が遅かったので、その日は早々に投宿したのでした。
翌日、仕事の前に時間があったので、仙台市内を歩いてみました。こちらは土井晩翠の旧居「晩翠草堂」です。
晩翠草堂は終戦直後に土井の教え子や仙台市民の有志が協力して建てたものです。現在は資料館になっており、晩翠が息を引き取ったベッドも残されています。
仙台市内を歩いてみました。こちらは藤崎百貨店。手前では地下鉄の工事が行われているようです。
ちなみに、イーグルス創設時にいた藤崎は、今同チームの打撃投手だそうです。
メガネの会沢。CMソングがイーグルスの選手がフォアボールで出塁した時のテーマになってます。
仙台だけあって、イーグルスの選手を起用した広告をよく見かけます。
さすがは仙台、こちらもご当地広告ですね。
っていう広告を見た後になんですが、昼はやっぱり牛タン定食にしました。
お昼をたらふく頂いたので、腹ごなしに商店街を散歩しましょう。戦国から江戸初期にかけての仙台の栄光を思わせるからくり時計です。
かと思えば、いかにも日本な提灯も並んでいる。仙台、実に奥深い街です。
蒲鉾店の山鉾を見つけました。豊漁を願う幟に加え、人々が願いを託した絵馬でいっぱいです。
昨日見た太鼓の山鉾です。
こんな張り子の山鉾もありました。商店街は、お祭りムード一色です。
しばらくすると、侍の一団とすれ違いました。イメージからすると、戦国時代でしょうか。
さらに歩くと、すずめ踊りの行列に出会いました。
賑やかなお祭りの一日。私もじっくり見たかったのですが、仕事なので断念。とはいえ、少し雰囲気を味わうだけでも、お祭りは本当に楽しいものです。
翌日は時間があったので、本当ならクリネックススタジアムに行く予定でした。
しかし、朝からあいにくの雨。早々に試合中止が分かったので、ぽっかり空いた時間を利用して、近郊を列車で巡ることにしました。
まずは仙台市営地下鉄を端から端まで乗りつぶします。地下鉄の乗りつぶしは車窓の風景がないので結構な苦行なのですが、仙台の場合は両端が地上区間なのでまだ良かったですね。
仙台に戻った後、JRに乗り込み、北に向かいます。
到着したのは東北本線の支線の終点、利府駅です。かつてはここからさらに北に線路が延びていたのですが、その後ルートが松島方面経由に変わり、利府から先の路線は廃止されました。
その利府に行く支線が枝分かれする岩切駅。電車の待ち合わせの間に、外に出て駅舎を撮りました。
ここからいったん仙台に戻り、仙石線経由で石巻方面に向かいます。
本来なら降りるはずだった宮城野原を過ぎ、松島を眺めながら、1時間ほどで石巻に着きました。
石巻は石ノ森章太郎の生地に近く、市内には氏を記念した石ノ森萬画館があります。その縁で、駅前にはこんな喫茶店があります。
ホームでは、石ノ森マンガで人気を博したキャラクターが出迎えてくれます。
駅の階段にはこんなイラストが。この階段を渡って、さらに石巻線に乗り換えます。
石巻線のディーゼルカーが止まっています。石巻線は仙台の北にある小牛田と言う駅から、ここ石巻を経由して女川までを結ぶローカル線です。
石巻を出たディーゼルカーは、旧北上川を渡ってしばらくすると進路を南に変え、その後いくつもカーブを重ね、南手に万石浦(まんごくうら)を眺めながら、東へと進んでいきます。
万石浦に別れを告げ、トンネルを抜けて、女川駅に着きました。
奥にある青い線は、昭和チリ地震の時に津波が到達した高さ。女川駅のホームは、そこからさらに階段を上ったところになっています。
ホームの隣には、タラコ色のディーゼルカーが1両停まっています。
こちらは、駅の隣にある温泉の休憩室として使われています。
待合室。木の椅子もライトも、何やらレトロな感じがしますよね。
女川駅前にある、駅名標風の看板。女川街道と、女川町の案内です。
となりには足湯もありました。ただあいにくの天気で、この時は利用者はいませんでした。
女川駅の駅舎と、となりの温泉。これでひと風呂浴びて行ければ最高なのですが、残念ながらそこまでの時間の余裕はありません。
ただ、すぐ近くの海には行ってみました。
本当に天気が悪いのが残念ですし、晴れてたら本当にきれいだろうなぁとは思うんですが、そもそも晴れてたら来てなかったんですよね。
帰りの時間が来たようです。乗ってきたディーゼルカーで石巻まで引き返し、今度はそのまま石巻線で小牛田に向かいました。
途中、前谷地と言う駅ですれ違った、気仙沼線に乗り入れるディーゼルカー。
気仙沼線と言えば、私(いや、日本中の鉄道ファンが、と言っていいでしょう)敬愛する鉄道紀行作家である宮脇俊三先生の名著、「時刻表2万キロ」のエピローグ的な路線で、それだけに憧れがあります。
小牛田に着きました。ホームには、ここから鳴子温泉を経て新庄に至る陸羽東線のディーゼルカー。
どこもかしこも、私の旅情を誘う列車ばかりで困ってしまいます。
とはいえ、飛行機が待ってくれるわけではありません。後ろ髪が抜ける、もとい、後ろ髪を引かれる思いで仙台行の電車に乗り込みました。
仙台からは空港まで直通の電車があるんですが、それまでちょっと余裕があるので、南行きの電車でちょっと寄り道。
名取と言う駅に着きました。この近くのスーパーで、地元のお酒と晩ご飯を調達します。空港で食べてもいいのですが、こういう所で買った方が、おいしいものが安くてたくさん手に入りますからね。
そりゃま、本当はこういう所にも行きたかったんですが……
ともあれ、ここから空港に向かい、しばしの旅を終えて機上の人となったのでした。
本来であれば、旅行記はここでおしまいにするところなのですが、ここで個人的な感情を書かせてください。
このエントリを書くに当たっては、正直なところ葛藤がありました。
ここでご紹介した風景の中には、東日本大震災によって奪われてしまったものが少なくありません。
今テレビやインターネットで繰り返し映される現地の状況を見るたびに、この時の風景との落差を感じずにはいられません。
そのような中、私自身もエントリ作成中に画像を見るたび、表現のしようのない感情に胸が潰されそうになりました。
まして、現地の人々がこれらの画像を見た時にどう思うだろうか……阪神・淡路大震災の経験から、それが「察しようがない」ものであることしか、私には分かりません。
しかし、これらの風景の中に、失われてしまったものがあるからこそ、私はあえて画像を公開することにしました。
かつての風景を、私自身だけのものとするのではなく、一人でも多くの人と共有したいと思ったのです。
いや、共有したいのは風景だけではありません。これらの風景を作り上げてきた、人々の営み、人々の生活の積み重ね、築き上げたもの、そのものです。
それらをこそ、私個人だけの記録としてではなく、一人でも多くの人と分かち合いたいと思ったのです。
人間は自然の前では小さい存在なのでしょう。人一人の生涯以上の長い時間をかけて積み重ね、築き上げてきたものも、自然によって簡単に奪われてしまう。どれだけ人間が抗っても……
ですが、人間は記憶すること、記録することはできる。自然どれだけのものを奪い去ったとしても、それらを記憶として、記録として守り通すことはできる。
人の生命を簡単に奪う自然は、確かにその人の記憶を奪うことはできる。記録も奪うことはできる。
しかし、人間というものが残っている限り、記憶するということ、記録するということ自体は、決して奪われない。
だから、皆さんとともに、覚えておきたいのです。人々が暮らしてきた街を。人々の暮らしを。
これらの画像が私の嗜好に偏っていることは理解しています。まして、たった1日、駆け足の訪問で、大して多くの記録ができていないことも理解しています。
ですが、このささやかなものが、どこかで誰かの記憶とつながって、せめて人々の「想い」の中で、奪われた風景を蘇らせることになる、そんな可能性に私は賭けずにはいられないのです。
そうすることで、東日本大震災の被害のうち、どうしても取り返しがつかないものを、わずかなりとも、補うことができたら……そう私は思っています。
よくファイターズ関係やhttp://bb.new.gr.jp/でお名前拝見しておりました。
そして、同じルートで女川へ行かれていたことにちょっとびっくりしつつ、コメント残したくなってしまいました。
自分もこれまでなにかと仙台行く機会があり、現地の友人たちも被災しており、心痛めながらの昨今です。
こういった記憶の中の景色を思い起こしながら、少しでも役に立てるような力を出して行きたいなと思っています。
まとまりませんが、またこれからも楽しみにブログ読ませてください。
それでは。
私の場合、東北が地元の友人がいたり、仕事上の知人が仙台に何人かいたりで、
宮城には何回か行く機会がありました。
それだけに、地震以来本当に悲しい思いをすることが多々あります。
特に女川の状況は、本当にショックでしたとしか言いようがありません。
ただ、おそらくここでご紹介した通りの街並みが元に戻ることはないにせよ、
新たな街並みに、人々の明るい声や笑顔が戻ることを願っていますし、
そのために、少しでもできることがあればと思っています。
これからもご愛顧のほど、よろしくお願いします。