松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

嵯峨天皇に導かれるように≪直指庵≫へ

2016年05月06日 11時00分34秒 | 日記

  

《2日前に(前回のブログ)、ヒーヒーと息ずかいしながら登った【嵯峨天皇・嵯峨山上陵】両横に嵯峨天皇とその書(最澄を悼む詩)です》

さて・・・今回は参拝を済ませて、元の参拝道入り口まで戻った所からからです

来しなは市バス≪嵯峨釈迦堂前≫で降りたのですが、帰りは≪大覚寺前≫からと歩き始める

将に ぶらりぶらりと歩いていると・・・『直指庵』の表示が、まるで憑かれたように・・・

それらしき風景でなかったけど、半信半疑で進んでいくと・・・それらしき雰囲気が

これは ここに間違いないと心も軽く・・・垣根越しに・・・ 角も周ると前方に ”直指庵” らしき建物が

《直指庵(じきしあん)へ来るのは初めてですが、40年程前この門前にあった『北嵯峨』と言う湯豆腐屋さんに来たことが懐かしい思い出です》

永井産業の社長の永井さん(元、私の詩吟のお弟子さん)が経営してたお店でした

2日前に行った時は・・・広い空き地にブルーシートが掛かっていましたので・・・この場所かな、と

前にもこのブログに載せたと思いますが、この永井さんは素晴らしい低音の持ち主で

≪維新への歩み≫を企画したとき、ナレーションをお願いして、録音したのが『北嵯峨』でした

その時も、前まで来ていながら、≪直指庵≫へは入らずでした

それが今回、私の吟道50年の年に偶然と言うか?、必然と言うか?

嵯峨天皇のお導きとしか思えない不思議さを感じています

         

《パンフレットを見て、嵯峨天皇陵と後宇多天皇陵の真ん中に ”直指庵” があった事を知りました 中に入ってその素晴らしさに

では 素晴らしいお庭を見て頂きましょう

 

《入ってすぐ、右手に本堂が、茅葺きの屋根が素敵でした、お庭のいたるところに、萱の垣根とシャガの花(あやめ科)の群生を》

 

《本堂の入り口にも、シャガと垣根が・・・本堂の中は撮影禁止でしたが、懐かしい絵が沢山飾ってありました、シャガです》

 

  

《待合を通り抜けると、勤王の女傑と詠われた、【津崎村岡局】の墓がありました、右の立て看板を読んで知りました、あの篤姫の輿入れに

    

  

  

《直指庵に入ったのが、もう4時を回っていました、4時半の閉門すれすれに戻って来ました受付の彼女が門を開けてくれました》

門を出てきた道から少し外れると、石仏らしきものが道端に並んでいて

横には少し大き目の小川が流れていて、誠にのどか

こんな雰囲気に浸りながら、家路に向かいました

いや~2時前に家を出て、嵯峨天皇陵と直指庵の二箇所も

素晴らしいゴールデンウイークの中間を楽しむ事が出来ました

 

 

 

 

 

 


行って来ました!≪嵯峨天皇・嵯峨山上陵≫へ・・・

2016年05月05日 09時00分17秒 | 日記

行って来ましたよ~・・・凄い山の上、でも新しい階段に感動でした

全くの初めてなので・・・ネットで調べたら・・清涼寺(嵯峨釈迦堂)からと・・・

市バス28番大覚寺行きに乗りまして、嵯峨釈迦堂前で降りたのですが

ここからがさっぱり分りません、方角からしてこの寺の裏からと勝手に決めて

    

《清涼寺に到着、でもここからが大変・右も左も分りません、嵯峨帝陵の字が、境内を抜け裏道へ、この家のご主人が親切に》

清涼寺から5分ぐらいのところの民家のご主人が丁寧に教えて下さった

『この道を真っ直ぐ行くと ”ほっこり茶屋” が出てきますので、それを左へ・・・・』

 

 

《教えられた道を ただひたすらに黙々と・・・と雰囲気のある場所に出てきました、山も近いし・・何かその先に・・・当たりでした

 

《石碑に 【嵯峨天皇・嵯峨山上陵参拝道】 とありました、やった~・・・(まだ入り口で、これからが大変やったんですこの参拝道

一段づつ踏みしめるように登りだしました、本心は・・・”早く御陵へ” とあせる気持ちで、

 

《前を おっちゃんらしき人が登って行きます・・・少し追いついて来ましたけど・・・もうこの辺から、息がハアハアしています情けナ~イ》

《うわぁ~、えらいこっちゃがな おっちゃんが倒れている・・・違うんです・・・腕立て伏せをしてたんですびっくりするがな》

    

《この石段、3年前の嵐山の渡月橋も水に浸かった、あの大雨でここも被害に、それから2年以上掛けて新しくなったところなんです》

 

《石段の組み石の色が変わった・・・と思ったら、前方に・・・鳥居らしきものが、石組みの色が変わったのは、御陵の正面の印し

ここで嵯峨天皇のプロフィールを

  嵯峨天皇と                     嵯峨天皇の書(最澄の死を悼む詩)

  

長岡京から京都(平安京)に遷都した桓武天皇の第二皇子で名を神野親王と言う

兄の平城天皇から譲位されたが、その平城上皇が藤原薬子と藤原仲成らに唆され

政権を奪回しようとする(薬子の乱)が起こるが、坂上田村麻呂らを派遣し鎮圧する

以後、朝廷は30年もの間安定し、平安文化が開花する。

嵯峨天皇の書は有名で三筆(著名な三人の能書家)の一人に・・≪嵯峨天皇・空海・橘逸勢≫

 

《千客万来でした、長慶天皇陵も後亀山天皇陵も、そして後小松天皇陵も私一人だけやったのに、さすが嵯峨天皇は人気がある

ましてや 過去の三つの御陵と違って・・・山の上にあるのに子供連れで来ている人も

 

 

《嵯峨天皇陵の正式名は”嵯峨天皇・嵯峨山上陵” (さがてんのう・さがのやまのうえのみささぎ)と言います、(しっかり山の上でした)》

ネットで調べていたら、【呪いの血の池】と言う記事がありました・・・そこで私も・・・

御陵の裏に行く道が在ったんです、正面左側から男性が入って行きました

そこで私も・・・逆に右側から入って行きました

 

《御陵の真後ろに差し掛かったとき右手にありましたよ、ネットで見ていなかったらただの水溜りと云った感じの小さな池でした》

 

何か 錆び色と言うか、泥水と言うか、血の池とは・・・ただ少し薄気味の悪い感じは、否めませんでしたけど、後の半分を急げ

 

《左側の方が道が整備されている感じでした、池から少し歩いたところへ石垣がこの石垣の切れたところが正面になるのでしょう》

 

《やっぱり 正面に出てきました、私が御陵を一周する間に、何人かの人が一周していました、ナント女性一人で・・・慣れてそう

 

《ボツボツ帰りましょう・・・と石段を下り始めました、途中下界の景色が、向こうに見えている池が大覚寺の大沢の池ですね》

 

《あの腕立て伏せのおじさんに山道を下りるのも一興と教えられて、石段から外れて山道へと入って行きました・・・

 

《一歩・一歩・・山道を・・・確かに、おじさんが教えてくれたように、石段と違って、山の中の感じが深まって、おじさんに感謝です》

 

 

《暫らく坂道を下りてくると、突然目の前に民家が・・・ここを横切ると、来しなに登った石段が・・・お蔭で早く下りられました

 

《やっと地上へ戻ってきました、帰りは大覚寺まわりで帰ろうと・・・方向が分らないまま、歩き始めました・・・その先に

直指庵と遭遇するのです・・・これも偶然・・・・・素晴らしい処でした

直指庵の素晴らしさは・・・・・次回のお楽しみ

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幸せいっぱいな動物たち・・・5月3日付け聖教新聞から

2016年05月04日 08時35分13秒 | 日記

生きるy喜びを謳歌する瞬間写す・・・動物写真家≪福田幸広さん

 野生動物の世界は、強いものが生き残り弱いものは死んでいく、弱肉強食の世界といわれます

 弱いものは捕食者の恐怖にさらされる時も少なくありません。

 どれだけ歩いても一口の食べ物さえ見つけられないときや、

 身を寄せ合っても耐えられないほどの寒い夜もあるのです。

 明日、わが身がどうなっているのか、彼らに想像する余裕などありません。

 今の瞬間を精いっぱい行き抜くのです。

 しかし、彼らにも緊張や恐怖から解き放たれ、生きる喜びを謳歌する、幸せな瞬間があります。

 私はその瞬間を彼らと共有し、一枚ずつ写真として紡ぐために旅して来ました。

 デジタルカメラを導入した2003年以降の作品から選りすぐって、

 先日、写真集『動物たちのしあわせの瞬間』(日経ナショナルジオグラフィック社)にまとめました。

こんな記事を見つけ、思わず釘ずけになりましたので、紹介をと思って

福田さんはこの様にも云っています・・・

 写真集の第一章は動物たちの笑顔がテーマです。

 「動物は笑うのか」という問いに「笑わない」と答える人もいます。

 しかし私は「笑う」と答えます。

 動物達は一見無表情に見えても、幸せを感じている時の顔かどうかは

 多くの時を共に過ごせば分るようになるからです

 笑顔は笑顔として伝播します。

 うれしそうにニコニコと笑っていれば、それを見た人にも笑みがこぼれていきます。

 そうやって世界中に笑顔が広がっていけば、どんなに良い事でしょう

素晴らしい心の持ち主が、写真を撮ると、その写真にこころが乗り移ります

きっと、福田さん 優しい心の持ち主なんでしょうね

ネットで調べたら・・・写真集の一部が載っていたので転写を・・・・・

  

 

 

いや~本当に笑っていますね、何か幸せな気分になってきました

 

 

 

 

 


今再びの【地を這う松】と脇役にまわった【乙訓寺】の牡丹

2016年05月03日 10時19分31秒 | 日記

ああ~昨夜、アップしたのに入ってない・・・残念なり~

今再びの・・・・もう再びになりましたけど 負けんと再ブログです

《2日前のブログで紹介しました、奇怪なこの松・・・・・この【地を這う松】の根元はどうやらこの辺りです一旦くねって躑躅の中へ》

これを、今度は横から撮ってみました・・・

そして角度を変えると・・・誠にグロテスクな【大蛇】いやいや・・・≪松龍≫となるんですよ

《この写真が一番表現力豊かやと思います、天に向かって ”松龍” が昇っていくのが判ってもらえると思います・・・如何ですかこの凄さ》

さて・・・・脇役にまわった・・・乙訓寺の牡丹の登場ですが時期が過ぎていて・・・

あまり期待しないでね、乙訓寺フアンの人に怒られそう・・・もっと早く撮りに来いと

そうなんです、ネットで見つけたときが5月1日の最終日やって、慌てて行きましたので

 

《この門を潜ると、左側に牡丹が我々を出迎へてくれていました・・・・上を仰げば、大悲山の文字を刻んだ大きな額がどっかと鎮座》

 

《先程も言いましたが、これが見頃であれば素晴らしかったでしょうね・これでもカメラを向けても怒られない牡丹を選んでます》

 

《牡丹が途切れると、何かガンダーラの世界が広がっていました、ここが日本である証しに 白い蛇の目傘が沢山並んでました》

 

《こちらは白い傘に囲まれた鐘楼です、何か絵になりますよね こちら躑躅の向こうは本堂です、沢山の人が出入りしていました》

 

 

《中ほどにも、牡丹たちが歓迎してくれていますが・・やはりちょっと元気ないのが可愛そうですね、でも期間中よく頑張った

《この松・・・凄いでしょう、 この上の松から左右に枝が伸びているのですよ・・・でもこの後、長岡天神で【地を這う松】に遭遇》

 

《ナント 天然記念物に指定されている、【乙訓寺のモチノキ】京都府内では最大級とか、室戸台風から立直ったとか読んでね》

 

《緑の紅葉を良いもんですね、新緑と牡丹のコントラスト・・・今日が最終日と知らないで来ている人も沢山居ました・・・牡丹に敬礼》

昨夜のブログミスで入ってなくて良かったかもね~寝むた寝むたはダメですね~

今思っている事・・・長慶天皇(ちょうけいてんのう)・嵯峨東陵(さがひがしのみささぎ)で一大奮起

天皇陵を巡りたいな~と・・・・・京都が多くて・・・特に我が右京区が大変多い

手始めに・・・嵯峨天皇の御陵から・・・・お楽しみに

   

 


長岡天神で・・・きりしま躑躅より凄い松を見た!

2016年05月01日 21時23分26秒 | 日記

後先になりますが・・・・乙訓寺へ牡丹を見に行ったので長岡天神へ

きりしま躑躅が見頃かな~と思って行ってみたら ”びっくりポン” でした

この風景は三年前の4月29日でした・・・・・ところが2日後だけやのに花びら一枚も残っていません

腹が立っていたので、証拠写真を撮るの忘れてきました 口で言うと、この赤が全部枯れて錆び色やったんです

ところが・・ところが凄いのを見つけたんです、こんな松ってはじめて見ました

ここへは何回も訪れていますが、全く気が付きませんでした、常には見ない場所ですもん

まずは見ていただきましょう・・・・・入り口の階段から何時ものように

《階段を上がると、八条ヶ池が左右に広がっています、池の真ん中をきりしま躑躅が(最初の写真の様に)大行列を・・・・》

《左側には、テレビの京都サスペンスにはおなじみの風景が広がっています、何時もはこの辺を中心にシャッターを切りますが》

《きりしまが全くダメなので、帰ろうと思って何気なく道路の方にカメラを向けたのでした・・・・・ナ・ナ・何んやねこの松 

これは 下に降りてみないと・・・という事で・・・急いで来た道を戻りました

《なんか もの凄い感じでしょう、・・・・・でもこちら側からではその凄さは感じられません、自転車のおばさんの処まで

《ひやぁ~なんじゃこりゃ~・・・・・まるで大蛇がくねりながら横たわっているようで・・・あまり気分の良いものではありませんね》

《不細工になりましたが、繋いでみました、取り合えず長いんです、倒れたのが復活したのでしょうか 今思い出しました

5年ぐらい前に、御所(京都御苑)で倒れている松から桜が咲いていたのを

六年前でした・・・・・これも奇跡みたいでしょう・・・・・倒れて枯れてしまった松から桜が咲くのですから