こんにちは。rest2012です。
今回は、私が小学生の頃、やはり30年くらい前ですが友人と一緒にバスの車庫を
回り、その時に撮影した写真をご紹介します。
行田車庫→加須車庫→鴻巣車庫の順にご紹介します。
東武バスの写真で全ていすゞ製になります。
行田車庫にて撮影(その1)
行田車庫にて撮影(その2)
行田車庫にて撮影(その3)
下記はこの車庫では当時新車のようでした。運転手さんも笑顔で吹上駅に出発していました。
加須車庫にて撮影(その1)
加須車庫にて撮影(その2)
加須車庫にて撮影(その3)
行田車庫では事務所にも友人と訪れ、運転手さんと会話したのを覚えています。
最後に鴻巣車庫に停車していたバスの写真です。(その1)
その2
鴻巣車庫ではちょうど1台だけ停車しており、
運転手さんといろいろなバスのはなしをしました。バス内も案内していただき、
運賃表も撮影できたり、エンジン内を見せてくれたりしました。
これも古き良き時代の出来事と言えるのではないでしょうか。
寂しいことに、今、東武バスは不採算路線からの撤退や車庫の統廃合が進み、
埼玉県の県北地域ではみかけくなりました。一部、朝日バスとして再出発しているようです。
マイカー時代によるバス利用者の減少ということですが、また時代が変わり
東武バスも復活して欲しいものです。
私なんかもいまでは殆どバスに乗る機会が無くなってしまいました。
だからたまに乗るとちょっと嬉しいですね。
昔の運転手さん優しかったのですね。
今はどうなんでしょう.....
バスの写真を撮っている人ってあまり見かけた事はないですが....
列車は皆さん撮っていますよね。
新しい熊谷ナンバーを持った車両が多かったのを思い出しました。
社番を失念したのですが、昭和57年に突然熊谷と行田に1両ずつ新車が入りました。
大型方向幕を持ってはいたものの、標準床で冷房もなかったのですが、
それでも回りは46~48年式や51年前後の車両ばかりでしたので目立ったことは確かです。
加須の車両は秋谷病院の広告が多かったですね。
幸手の駅近くにあるのですが、加須は行田や鴻巣にも路線があった時代でもあり
菖蒲の車両にも広告があるケースもあり、ずいぶん広範囲に見られたものです。
ただ加須の車両が直接幸手に乗り入れていたのは
昭和51年に加須~鷲宮神社~幸手間が廃止になって以来ない訳で
幸手に貸し出しでもない限り広告の効果はどれだけだったのでしょうか。
運賃表示機も懐かしいです。
いすゞの車両(確か川重のみ)はこのタイプで上尾辺りで見る日野車の表示機とは異なっていました。
ただ、日野で使っていたものより運賃のフォントも含めてスマートですね。
東武のデジタル化は割合早く、昭和60年頃に登場し平成初期までには交換されていました。
デジタル化で「どこまでがいくら」と表示されなくなったので不便だなと感じてはいましたが
逆に言えばギリギリしか持ち合わせがないから途中で降りるからどこまでいけるのか的な
特殊なシチュエーションでもない限り意味はなかったのでしょう(笑)。
坂戸と栃木に存在していました。
栃木の7207、7208の2両は宇都宮撤退の直前まで現役だった事もあり、バス系サイトや書籍を探せば見付ける事が出来ると思います。
よく言われるのですが、国際興業と東武の共通している点としていすゞに冷房装置をジーゼル機器の組み合わせで長年採用があった事と、
東武は系列、国際興業は深い取引関係の協力工場があり、簡単な板金のみならず車体更生や大規模な修理改造にも対応する技術力を各社が持っていた事が挙げられます。
首都圏では早期に非冷房車を放出して冷房化を推進した事業者と、中程度の経年車を対象に冷房改造を行った事業者に分けられます。
国際興業自体は冷房化は埼玉ではいち早く、東京でも有数の早さで昭和52年にサブエンジン式冷房車を導入します。
直結冷房がまだ完全に実用化されていないレベルの時代で「確実性のある方式」を「先進的に」採用したというある意味非常に国際興業らしい選択だと思います。
冷房改造車は53年~55年式のBU04Vと56年式のK-CLM470Vで非冷房で導入された車両のみになっており、
時期が固定されているせいもあり、ほぼ統一された仕上がりでした。
東武は対象車種こそRE120/121、BU10/K-CJM500と限られたものの車体メーカーが複数、新車導入された営業所での環境により低床/標準床、準寒冷地/寒冷地など様々な仕様があり、対象年式も昭和48年~57年までに広く、一部の車両は改造を行わないなど様々なバリエーションがあり、冷房装置もコンデンサー通気口の数やフレーム補強の形状などの相違点がありました。
後者は特に工場で現物合わせを手作業で行っていたようで(それだけの技術力があったという事です)、分類は難しいと思われます。