こんにちは。rest2012です。
今から30年くらい前に撮影した東武バスの写真をご紹介します。
写真も残り少なくなってきましたが、今回は新座団地で撮影した写真の追加分になります。
1台のバスを色々な角度から撮影しております。いすゞ+富士重の東武バスです。
その1(新座団地終点)
その2(新座団地奥の折り返し場で待機中)
その3
その4
その5
その6(志木駅南口に向けて出発)
その7(おまけ:西武バス)
今回の写真ですが、いすゞ+富士重のバスですが、私も意識して撮ったわけではありませんが
今の時代で言うところのパラパラ動画のようにもみえますね。
いすゞ車の特徴は全てではありませんがバスの中央に非常口があることです。
またこの頃までのいすゞのバスにはもう一つ特徴がありました。
他のメーカーと違い、後輪の軸の部分に突起があったんです。皆さん知ってました?
シャフトが他社より余分に長かったのかな?(笑)
ところで、バスマニアであった私が今でも良くわからないのが、例えばいすゞのバスを作るにしても
なぜ自社ですべて組み立てないのかということです。例えばこのバスの場合、
エンジンはいすゞですけど、架装(ボディ)は富士重工(FHI)ですよね?
また、同じいすゞでもなぜ、架装を川重や富士重など別々のメーカーに頼む必要があるのか?
やはり納期などの問題なのでしょうか?複数社でやらないと間に合わないとか。
もしfarewell song様、ご覧になられていましたらご解説のほど
よろしくお願いいたします。(笑)
ブログ管理人のrest2012と申します。
この度はコメント頂きましてありがとうございました。
このブログでも書いていますが、私の方はいすゞ派で特にCJMのエンジン音が好きでして、富士重車体との組み合わせもいすゞが一番良くできていたと思っています。あくまで主観ですが(笑)。
おっしゃる通り、CJMは川重との組み合わせが多かったですよね。
また、ご指摘頂いた西武バスですが、当時、西武グループが日産と関係が深かったため、バスはほとんどUDでしたね。時代が変わり、今はいすゞと三菱の混在になりました。
磯部の住民@相模原様は、神奈川県にお住まいでしょうか。
私の方は逆に、埼玉県人として、相模原の北里大学病院に行った際、神奈中のバスに初めて乗ることができたのですが、前乗り前降りの文化に衝撃を受けた記憶があります。また八王子駅に時々来る神奈中のいすゞ車も貴重な存在でしたね。
長くなりましたが、今後とも本ブログをよろしくお願い致します。
ブログを管理していますrest2012と申します。
この度はコメントありがとうございました。
昔はエンジンメーカーと車体メーカーにおいて色々な組み合わせがあり面白かったですね。
個人的には他のブログで時々見かけますが、希少ですが、国鉄や富士急さんの帝国ボディといすゞの組合せがとても興味深いです。
最近は観光や高速バスでは三菱製が一歩リードしているようですね。
今後ともよろしくお願い致します。
いすゞは富士重工か川崎重工業が大半。
日産ディーゼルは富士重工か西日本車体工業。
三菱ふそうは三菱車体か呉羽車体。
日野自動車は帝国自動車か金産工業。
これを指定にしていたんですよ。
後に帝国と金産は合併して日野車体に、
三菱ふそうは呉羽が撤退して自社製造一本に、
日産ディーゼルは富士と西工が相次いで撤退してバス車輌製造から身を引いた。
いすゞは川崎と合併してIKコーチになった後、04に日野車体と統合してジェイバスになりました。
rest2012と申します。コメントありがとうございます。
当時のことを鮮明に覚えておられ、本当に驚いて
おります。新座団地入口の派出所の反対側位で
いつもリトルリーグの子供たちが練習していて
あのチームに入りたいなと思っていました。
新座団地はとてもよいところですよね。
数ある団地の中でも、とても大きく、きれいな
団地だと思います。また「ちさんストア」も
復活してほしいですね。
この度はコメント頂きましてありがとうございました。
新座団地の写真に写る5Eですが、社6748号車 所沢22か・107 K-CJM500 と判明しました。
昭和58年車みたいですね。
この年は新座へは1台のみの投入となった5E車で、
社6741号車から社6748号車の8台が投入され、残りの7台は川重の車体で登場したとの事です。
新座団地の給水塔前にある転向場は私も以前良く写真を撮りに行きました。
あの給水塔も無くなってしまうんですね。
今回の写真の車はいすゞのCJMですかね。
この時代はまだ車体メーカーを選べる時代でしたから、東武に限らず面白い組み合わせが沢山ありましよね。
東武の場合はシャーシが日野、いすゞに殆ど統一されていたので、どちらにもFHIを架装するパターンを見る事が出来ましたが、国鉄にはいすゞのシャーシに帝国(日野車体)を架装する車がいましたね。
何でも乗車定員に関係があると何かの本で見た覚えがあるんですが、シャーシメーカーが異なっても車体メーカーを統一すれば定員等を気にせず車両の運用をも区別せず効率的に運用が出来るとか・・・
記憶が定かでないので、間違いでしたらご容赦下さい。
富士重工がバス車体製造を撤退する前に、7Eと言う車体を架装したワンステップ、ノンステップ車が東武にも大量荷導入されましたが、最終ロッド近くでは、東武や京成など限られた一部会社にのみ特例でいすゞ+FHIで納入されたそうです。
そんな歴史を刻み、現在の「エルガだらけ」時代が到来して現在に至る訳です。
また懐かしい写真が拝見出来ます事、機体しております。
ttp://motor.geocities.jp/gophilnet/image/0211.jpg
(リンクを張ろうとすると「不正なURLが含まれているため、コメントできません」というエラーが発生して書き込めませんのでURLの頭にhをつけて下さい)
フィリピンでは日本の中古バスのハンドルと前扉位置を交換し使用していますが、
先に導入した中古車のカラーリングが気に入ったりすると後から入ってきた中古車にその色で塗り替えてしまうケースがあります。
関東バスの色などはバリエーションが豊富ですが、こんなケースもあります。
いすゞ投入営業所の減少(この時点で茨城県の境が日野に切り替わっています)、東武自体が新車購入を抑制した時期に突入していることから
いすゞは大原則富士重で賄いきれたと想像されます。
また、キュービックはワイパーの件の他、フロントが大きな一枚ガラスであり破損交換の場合大がかりになる事、
サイドの縦に長いエキストラウインドウ(OKウインドウと呼んでいたはず)を嫌っていたという話も聞いています。
確かOKウインドウそのものは途中で切ってしまうカスタマイズも出来たはずなのですが…。
もしこの頃に中型化も選択肢になり狭隘区間や閑散区間に中型車を導入していれば
一部のLRは川重車体になったかも知れませんね(もっとも富士重もすぐに6Eボディを対応させるようになりましたが)。
が気に入らなかったのでは?という見解ですがいかがでしょうか。東武バスも顔的にキュービック系のバスを見かけたことがありますがワイパーは旧式(ガラスを半分ずつにわけてワイパーする形)でしたのでどうもこの点が気になっております。farewell song様のお時間のあるときで良いですが、コメントお待ちしております。
1つ目に投稿しましたコメントに名前を付けるのを忘れてしまいました。ご紹介遅れましたが私はrest2012といいます。よろしくお願いいたします。東武バスの青車ですが、Unknown様と同感です。この型のバスの次はオレンジ車となり黒バンパーに角目2灯ずつというバスになったと思います。後部側は当時まだはやりの三角形を90度回転させたようなテールランプとウィンカーランプの混合体でした。(でっぱりはあまりない薄い感じでした)このオレンジ車はコックピット的にはトラックのいすゞ810と同じだったのですが、残念ですがこのオレンジ車を境にバスマニアから少し遠のいてしまった感じです。でもUnknown様がうらやましいです。毎日私の大好きないすゞ車をご覧になることができておられたのですから。(笑)そしてその後私的にはさらにサプライズがありました。いすゞ専門にやってきた新座車庫が突然全車日野製になったんです。しかもJBUSに統合する前のお話です。いろいろと書かせて頂きましたが今後ともよろしくお願いいたします。
車体とシャーシのメーカーが分業化されているのは世界的にバスが形となった時点ではそうなっていたようです。
車体メーカーの事をコーチビルダーと呼ぶのですが、歴史的には馬車の車体を作っていたところが権利として残っていたものが分業の元であり、鉄工所や車両メーカーや航空機メーカーが参入し今に至るようです。
そうすることで上の部分の開発を車体メーカーに任せる事により細かな対応を可能にし、シャーシメーカーは下回りに集中できるメリットがあります。
トラックでも運転席のキャブ部分まではシャーシメーカーで精算するのが普通ですが、荷台は車体メーカーが作成しています。
納期については確かに遅れる原因として受注が立て込む事は考えられますが、ユーザーの見解(例えば東武にキュービックが入らなかった理由)や、車体メーカーの取引関係などもあると推測できます。
この東武車は青時代の最後に製造されたものと記憶しています。
背景にある給水塔ももうすぐ40年の歴史に幕を閉じるそうです。
志木駅北口(現在の東口)は2000年に区画が大幅に変化したので、その前の写真をもっと拝見したいですね。