Aari刺繍研究所

ビーズ刺繍とアリワークの教室と作品紹介

私流親孝行かな?・・今できる事

2012-05-03 08:47:40 | 考えること

最近気付いたこと、いえ、変わった事があります。先日息子が海外へ行っていた、2週間・・一人だけの為自分のペースだけで日々を過ごす事ができました。

 個展の後で忙しかったせいもありますが、意外や意外、スペシャルな何々がしたいとか、特別何かが欲しいとか、そんなことがなくなっていた。毎朝、まったく同じ時刻5時13分にパッと目が明き、少しの間、ベッドの中で
ぼーっと、そして起きる、2時間仕事をする。それから朝ごはん、家事をする。その繰り返し、淡々と繰り返す。  例えば朝ごはん、一枚のトーストと野菜スープとヨーグルトとサラダ、それを2食続ける事もあったけれど嫌ではない、同じものを同じ時間にできることが口にすることがなんだか心地よい。

変わったなぁ~私・・・・・、いい事か悪いことあ分からないけれど年をとると言う事はこういう事なのかと実感。

 一昨日実家に行き、同じ話をした、その同じ事が出来ると言う事に感謝よね。・・と。階段から落ちて腰を痛めていた母、私の生き方を見て

「令子に負けないように頑張って元気でいなくちゃ」

と笑顔が戻ってきた。愚痴の多かった母・・。

 宥めたりすかしたり、叱ったり、諭したりしましたが、結局言葉なく私の生き方をみて

「もう他人の態度など気にせずに楽しく生きていくわ」と言ってくれた。以前も母から

「一生懸命生きるということを娘である令子から教わりました。死ぬその日まで一生懸命生きます」

という手紙をもらった。

 私には今、お金を出して贅沢をさせる余裕もなく自分の”生きる”でぎりぎりです。でも唯一、ぎりぎりだから示せることがあるとしたらその姿を両親には見せてあげたいと思うのです。ぎりぎりだから一生懸命の中に未来を感じると思うのです。

死ぬその日までの未来は誰もが持っている。

他人との悩みにエネルギーを使うのはもったいないからやりたい事やって楽しく生きてねと言う言葉を残して帰宅。今日はホームベーカリーが届く、このGWの間にパンを焼いて両親に食べさせてあげようと思うのです。

私流の親孝行、それは誰でも近づいてくる死、短くなる生の時間、残された時間でどれだけの単純な笑いを作って上げられるかです。


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2012-05-03 08:44:23 | 考えること

今日は美術館巡りを致しました。

想像するのです。この世に服がなかったら、全ての人類がすっぽんぽんだったら・・・、社会はどうなっていだのだろう。文化、文明の進化はなかったことだろう。&エロス、エロチシズムもなかったのではないだろうか?脱がす、剥ぎ取る、隠す、隠すから見せる、見られる喜び、そこから結び付く精神、愛、などとまで発展して考えてしまいます。

いい意味でも悪い意味でも着飾る、体を覆うと言う事は、見栄、虚栄、向上、進化、・・なかったとしたらその全て無かったかもしれないなどとそう、何カ月か前から製作途中にぼ~~~っと考えていたものです。

GWに入り、ネットで美術展検索をしていたら、「ハダカから被服へ」という展覧会をやっているではありませんか。こりゃ~観にいくしかないでしょ。

やはり行ってみると、私のばか妄想をきちんと被服の進化の変遷から理論的に語っていた。う~~ん、なっとく。

婦人服と言えばブランドという言葉が誰でも同じ事を思い浮かぶだろう。今日この美術展で知った、元々ブランドというのは牛に押された焼印、市で飼い主を見分ける為の焼印だったのです。それが今や女性のお尻に・・・でしょうか?(笑)

この美術展の図録の解説に書かれていた「大昔、私達が裸で暮らしていた頃は、私達は幸せだった」というのも納得するし、デザイナー川久保玲の作品で新品なのにわざと洗いを掛けたり糸を引きつらせて糸屑がついている服、これはいけないことを服に沢山取り入れることで、世の中にやっていいことと悪いことがないことを示した、というデザイナーの主張にも納得をする。一種のこのデザイナーの哲学であろう。

服は何かを認識させる、概念で理解させるための手段なのに、その概念を取り払おうとするデザイナー、納得する自分にも矛盾を感じながらやっぱり私もすっぽんぽんでは人前には誰れないのです。(大笑)

この他国立近代美術館へも行き、いい感性を日を過ごしました。早くせいさくした~~~い。