sovereign powerつまり主権ですが、どうも主たる権力と訳したがる政治学者が多いようです。これは誤謬です。もしもこの権力が政治権力をさすのならば、自由かつ平等な市民という憲法で謳っている観念は欺瞞と偽善になります。
主たる権力ですよね、そうしたならば、「主たる」ですから「全部」ではないわけです。ところが政治権力の源泉は自由かつ平等たる全員市民にあるというのですから、何のことですか、ということになるわけです。
確かに、サブリン・パワーを印象的に「崇高なる権力」と訳したくなる気持ちは分からないわけでもないですが、パワーには、「能力」とか「権限」という意味があります。つまり、市民全員に一定の能力があると観念するわけには行かないし、権限というのは、「権力から限定されたところにいる」というインプリケイションを有しています。「権能」という言葉が一番しっくりいくんですかね。
そうしますと、能力「一般」の象徴は天皇ですし、政治権力には関与しないのも天皇ということでして、サブリン・パワーは「崇高なる『権威』」と訳すのが妥当なのです。
主権を天皇に求めた和辻哲郎の考え方も、この意味で捉えられるべきだと思います。能力にせよ権威にせよ、伝統と歴史を有した観念として捉えるべきであって、政治権力は、いまの自民と民主の政党のように、おそらくはころころ政権交代があるようなところでは、歴史も伝統も醸成されえません。つまり政党(政治)に権威などないということです。
主たる権力ですよね、そうしたならば、「主たる」ですから「全部」ではないわけです。ところが政治権力の源泉は自由かつ平等たる全員市民にあるというのですから、何のことですか、ということになるわけです。
確かに、サブリン・パワーを印象的に「崇高なる権力」と訳したくなる気持ちは分からないわけでもないですが、パワーには、「能力」とか「権限」という意味があります。つまり、市民全員に一定の能力があると観念するわけには行かないし、権限というのは、「権力から限定されたところにいる」というインプリケイションを有しています。「権能」という言葉が一番しっくりいくんですかね。
そうしますと、能力「一般」の象徴は天皇ですし、政治権力には関与しないのも天皇ということでして、サブリン・パワーは「崇高なる『権威』」と訳すのが妥当なのです。
主権を天皇に求めた和辻哲郎の考え方も、この意味で捉えられるべきだと思います。能力にせよ権威にせよ、伝統と歴史を有した観念として捉えるべきであって、政治権力は、いまの自民と民主の政党のように、おそらくはころころ政権交代があるようなところでは、歴史も伝統も醸成されえません。つまり政党(政治)に権威などないということです。