佐久間友吾のしくじり先生!不思議な人生物語。

今までの人生を通して学んだことを伝える。生き方、考え方、心の使い方、仕事、借金、恋愛、健康、ダイエット、霊体験など。

(5話)サーカスでの大事件。(幼少期編)

2020-04-30 20:18:00 | 佐久間友吾の自伝




あれは確か4歳くらいの時

千葉県東金市にサーカス団が来て
母と兄と従兄弟で観に行った。

砂地にテントを張り、中に工事現場の足場に使うようなステンレスの板の椅子が段々になっていた。

高さ30メートル位の所で俺は母の隣にひょこっと座りながら観ていて、後ろに寄りかかった瞬間!

なんと俺は段になっている板の椅子と椅子の隙間から落ちてしまったのだ!

大人なら背もたれになるが
まだ4歳の身体のサイズなのでスッポリ抜けて
そのまま下にヒュ〜


ズドン!!


落ちた瞬間から意識がなく。


意識が戻って薄っすら目を開けたら
救急車の赤灯が光っていて

正面からサーカスのピエロや象やライオン、他の動物達が心配そうにこっちを見ているのが分かった。

結構な高さから背面で砂地に落ちたが
無傷で済んだのは守護霊が守ってくれたのかなと今ではそう思うね。

こういう経験をしたからだこそ
守護霊、ご先祖様を意識するようになった。

目に見えない何かに自分は守られているんだと。

だから御墓参りや神社にお参りに行く際はすべてのことに
感謝の氣持ちを伝えている。

世界人類が平和で繁栄する事をお祈りいたします。

今日も一日見守ってくれてありがとう。



佐久間友吾の不思議体験(6本指編。)

2020-04-20 15:46:00 | 佐久間友吾の自伝

俺は産まれた時、指が6本あったらしい。

ずっと車のドアに指挟んで曲がったものだと思っていた。

実は曲がっている親指の角からもう一本指が生えていたんだけど、いじめに合うかもしれないからとの理由で手術して切断したらしい。

この話を聞いたのは俺が27歳位の時だった。
母と居酒屋で呑んでいる時に
泣きながら話していたから本当だろう。

この指が多い事を多指症と呼ぶらしい。

多指(趾)症(たししょう)とは、手足の先天性の形状異常のひとつであり、指(足の場合は趾)が分離形成される段階で、1本の指(趾)が2本以上に分かれて形成される疾患のことである。結果として手足の指の数が6本以上となる。反対に、指の数が少ないのを欠指(趾)症という。手足の先天性異常では比較的多くの割合を占め、様々な症候群に合併する。

ちなみに豊臣秀吉も右手の親指が二本あったらしい。

マリリンモンローは左足の親指が二本あったらしい。

タイでは6本指の子供は神の子ともいい伝えがあるんだって!

そんなことは子供の俺には分からず
指が曲がっていることにコンプレックスを抱えていた。

小学生の当時、SMAPの番組で指スマというゲームが流行っていた。

親が、いっせーので2!と言って
周りの親指を上げる数が親の予想した数と
合ったらあがれるというゲームだ。

俺はいつもこの時、右手の親指を出すのに心の中でためらっていた。

楽しいゲームをするのはずなのに
たかが親指を出すくらいでモヤモヤしていても仕方ないと思い

指スマをやる時に友達に

見て俺の指、曲がってるんだよって
見せたら皆んなして腹よじれるくらい爆笑していてた。

その瞬間、凄く胸クソ悪い気持ちと
凄く氣持ちが楽になった。

毎回、俺が親指見せる度にウケるので

それからは自分のコンプレックスを逆手にとって自虐ネタで周りを笑わせるという

技を習得した。

ここで俺がアドバイスしたいのは

どんな人でもコンプレックスは抱えているもの

それをどう捉えるかが重要だと思う。 

俺が思うブスの定義は

コンプレックスをネガティブなまま捉えてそのコンプレックスのせいにして自分に自信を無くして人目を気にしていつまでも自ら産み出した殻に篭って眼に気力が無く、表情がブスっとしかめっ面な奴がブスだ!

目鼻立ちが悪い。

背が低い。

太っている。

そんなの関係ねー!

今の自分を受け入れて笑顔で明るく接していればそれだけで魅力的だ!

全ては氣持ちの問題、捉えようだと俺は思っている。

それに誰も他人の事なんか気にしちゃいねー!
自意識過剰で私はこんな風に思われているんだろうって勝手な憶測で悩みを作っているなんてバカだっぺ!

皆んな自分の事で精一杯なんだ。

見た目が悪ければ、トークを磨けばいいし

喋るの苦手なら優しく接してあげればいい

自分の得意、不得意は自身にしか分からない
だからまずは自分を分析してどこを伸ばして行くか?

何が合っているか?

シコシコばっかりしてないで思考した方がいい。

以上!



佐久間友吾(霊体験編)

2020-04-18 10:59:00 | 佐久間友吾の自伝

初めての霊体験は5歳頃。

俺はいつも母と父と3人で寝ていて
隣のリビングの部屋で兄が寝ていた。

いつもは両親に挟まれ川の字で寝ていたが
その日はリビングの部屋で寝た。 

深夜ふと目を薄っすら開けたら

黒髮の腰まである長髪で、顔が青と白が混ざったような薄光をしている女の人

歳は30代後半から40代前半くらい

格好は白装束。

真っ直ぐ前を直視しながら俺を胸の前で抱えながらスーッと前へ移動した。

足は無かったような気がする。

それは一瞬の出来事だった。
薄っすら目を開けて、顔を左に倒して、あ!
浮いてる。夢かとすぐ寝た。

次の日、リビングで寝ていたはずなのに
いつもと同じ場所で目が覚めた。

昨夜の出来事を両親と兄に説明しても信じてくれない。一応婆さんにも聞いたが運んでないという。

皆んなして寝ぼけてたんでしょ?

夢でも見てたんだよと誰1人として信じてくれない。

確かにあれは幽霊に違いない!今でもしっかり記憶しているし

ここの団地は昔墓地で心霊現象が起きると云われていた。

女の幽霊に運ばれた体験ともう一つ

心霊写真も写っていた。

これは兄とふざけながらインスタントカメラを撮って遊んでいた。

リビングの隣にあるテレビの前で俺がポーズをとり兄が写真を撮った。

現像したら何とテレビの電源が切れているにもかかわらず、画面に口髭生やしたおじさんの顔がドアップで写っていた。

当時、織田無道や稲川淳二などテレビでしょっちゅう心霊番組やっていたので心霊写真を送って霊媒師に診てもらった。

その口髭生やしたおじさんの正体は

ご先祖様らしい。

どうやら俺には3人の守護霊が付いているらしい。

勘弁してよ〜俺のプライベート常に3人に監視されてるのかよ!

と思いつつ、霊に助けられたと感じる出来事も小学5年生の頃体験した。

本日はここまで!
次回もお楽しみに〜 



    佐久間友吾いたずら幼少期

    2020-04-17 16:32:00 | 佐久間友吾の自伝

    佐久間家は、野球とお酒が大好きで陽気でコミュ力高めな父と、

    いつもにこやかで優しく努力家な母と、

    漫画のキャラに出て来そうなバカな主人公みたいな3つ年上の兄と4人家族。 

    飯岡町三川にある県営団地に住んでいた。(ちなみに20歳位まで県営じゃなくて経営団地だと思っていた。笑)

    団地には遊具があって、外に出れば同年代の子達も沢山いたのでここのコミュニティーの中で遊びを想像する事、創造する事を自然と体験して来たと思う。


    会社員の父と母は共働きだったので小さい頃から兄と2人でいるか、1人でいるのは普通の事だった。
    団地というコミュニティは皆んなが家族のような役割でもあった。

    親同士も歳が近いから子供を預けたり、預かったり家族同士で旅行に行ったりしていた。

    その様な環境の中で俺は6歳まで育った。

    イタズラっ子な俺は毎日のように泥だらけになって遊んでいた。 

    *最近母から聞いた話で、あなた達が子供の頃毎日泥だらけになって遊んでいた時に
    周りのお母さん達から何であんなに泥だらけにしているのに子供を怒らないの?と言われて

    母は子供達が好きな事を自由にさせてあげたいと思っていたと
    酒を呑んでいる時に言っていた。

    そしたらこんなにもバカになるとは思ってもいなかったと涙を浮かべながら
    あー可笑しいと笑っていた。

    そんな遊びに明け暮れる中で、自転車に乗ろうと思ったら勝手に人のチャリを乗って補助輪なしでも乗れるようになっていたり

    家の鍵が開いていなかったら壁よじ登って窓から入ったり(二階)

    田んぼでザリガニやオタマジャクシを捕まえたり

    冒険に出ようと仲間ら5人で団地の周り探索して拾ったライターで笠藪に火着けてボヤ騒ぎ起こしたり!
    (ちなみに犯人は兄貴で俺はその時すでに部屋でファミコンやっていた。笑)

    不思議と幼少期の記憶って結構残っているんだよね。
    三つ子の魂百までとあるが、3歳までの教養が100歳まで残るみたいな?

    3歳以前の記憶はほんの少しだけあるが、
    それ以降の記憶は結構鮮明に覚えている。

    初めてのクリスマスプレゼントは3歳の頃
    押入れで遊んでいる俺に母が声をかけてきて、友吾クリスマスプレゼント何がいい?まだ3歳だから分からないか!絵本でいいよね?と

    こっちが話す間も与えないうちに勝手に絵本と決め付けられて、挙げ句の果てにはサンタさんはいませんよと思い知った。

    ちなみに翌年は自分の意思を伝えなければまた絵本にされてしまうと思い、10月頃から
    クリスマスプレゼントは少年アシベのゴマちゃんの震えるぬいぐるみにしてくれと念を押していた。

    トイーズというおもちゃ屋に父と買いに行って初めてクリスマスプレゼントを買って貰って俺は感激した。

    ちょうどその頃、俺の通っていたひかり保育園でサンタさんはいるか、いないかでクラスの仲間が別れて議論を交わした。

    数的にはいる派が多かった。
    いない派は30人中、10人いない位

    いる派の意見の多くはテレビでやっていたもんが圧倒的で、その次にお母さん、お父さんが言ってたもんだった。

    そこで俺はハイと手を挙げて

    反論した。

    サンタクロースはいない!だってお母さんがプレゼント何がいい?って聞いてきたし、お父さんと一緒にクリスマスプレゼント買いにいったもん!

    と!笑

    一瞬沈黙したのを覚えている。
    そっからまた皆んなでいるだのいないだの始まった。

    俺は幼少期の頃からませていた。

    暴力的でカッコつけでイタズラガキだった。

    初めてあだ名はペンギンだった。
    保育園でマンシングウェアのペンギンのデカイロゴのTシャツと当時、幽霊のように手を前にだらんとうらめしやーのポーズみたいに歩くのがカッコイイと思っていたからだ。笑
    (当日、キョンシーが自分の中で流行っていた) 

    小さい頃から戦隊モノや怪獣が好きで力
    (暴力的で強い)こそ正義だと勘違いしていた。

    盲腸の手術で退院したばかりの友達にお腹見せてよと言って服をめくらせて縫ったお腹の手術痕におもいっきり腹パン喰らわして泣かせて
    ケラケラ笑って、先生に見つからないように隠れていたり

    お風呂入りながら鼻歌歌っているところを母と兄に見られて

    包丁取り出して突き付けてぶっ殺すぞと言ったり

    かと思いきや母の日に母がプレゼント何もないやとポツリとつぶやいたのを聞いた俺は
    いきなり家を飛び出して団地の外の遊具場に生えていた小さな花を摘んで花束にして渡したり

    父の日にダンボールに父の好きな野球のチームマスコット(ジャビットくん)を描いて切って渡したり優しい一面も持っていた。

    今思うと本当サディストのサイコパスだと思う。笑


    でもその両親を喜ばせようと思った瞬間は今でも記憶にあるんだよね。

    喜んで貰えるにはどうすればいいかと思った瞬間に頭にピン!と浮かんだら本能のままに体が動き出す感覚。

    だが!

    その頃に事件は起きた!

    ダンボールを切っている最中にカッターの刃が折れて中指をバックリ切ってしまい初めての
    大量出血をし、今でも切り傷が残っている。

    その前にもアイロンってどれくらい熱いんだろと思いヘソの下、今のチン毛が生えているところにアイロンの先っちょをジューッと焼き入れ三角形のアザが残っている。笑

    そんなヤンチャ小僧の保育園の頃
    初めての授業参観の時に将来の夢は何かと聞かれた。

    周りの男子のほとんどはプロ野球選手か大工さんだった。
    女子はケーキ屋さんかお花屋さん。

    皆んな周りの回答に影響されて同じ言葉の連続につまらないなと飽きた俺はその場で思い立った事をハイッ!と声高々に手を挙げて

    僕の将来の夢はカニになる事です!

    と発表した。

    そしたら観に来ていた父兄もクラスの皆んなもドッカーンと大爆笑してそこで俺は人を笑わせる快感を覚えた。

    幼少期の俺は暴力と笑いの狭間で生きていた。