世界と私

情報の海で溺れないために

何が真実なのか、事実なのかという問いは、よっぽど日々受け取る情報に対して100%の受け身で生きてい人を除いて抱く思いではないだろうか。情報の信頼性は自らの行動指針とその結果に大きく影響します。その情報の確度は登山など場合によっては死を招いたりするし、逆に大きな利益や学びに繋がったりする事もあるからです。

見聞きした情報の信頼性を確認する方法として、その同じ情報がいくつかの別のルートを介した得られたか、それなりの立場がある人からのものなのかという事は一つの指針であると言えます。同じ事でも大統領が言う場合と、近所のおじさんが言う場合とでは情報の重みが違うと言えます。だだし必ず例外はあります。最近のバイデン大統領の発言のように、スタッフがあわてて訂正に割って入ることもあるくらいですから、最近の支持率のように信頼性は著しく低いです。あと、よく嘘をつく人が他の人と同じ事を言っていても同様で、当てにならない情報と言えます。

同じように、釈迦やイエス・キリストが言ったことは全て真実なのかというと、人間であった以上、一つや二つの間違いはあったという可能性は否定できないでしょう。しかし、他の全ての人の発言よりは、はるかに真実だと言えるでしょう。仏典の場合は翻訳の過程での変遷の可能性、聖書に至っては時の権力者による書き換えや削除された部分が存在する可能性等、それらを考慮しても信頼性は高いと言えます。

情報の信頼性を確認するにあたっての他の要素としては、その情報が自分の経験や書籍などで得られた情報と比較してどうかということです。たとえ、多くの人の意見が自分と違っていても、自分の経験に確固たる自信がある場合は自分の見解が合ってる可能性もありますね。書籍の情報に関しては、過去現在問わず、複数の書籍で同じような記述があるかと言った点もポイントになります。

要は、どんな情報であっても真偽を判断するに当たって、友人や先生、知人任せにしないで、自分で検証するという姿勢は基本的な在り方であると言えます。さらに確信が持てるまで情報を保留しておくことは賢明だと思います。
わからないことはわからないままにしておき、安易に決めつけて思い込んでしまわないことも、この情報過多社会を生きるコツの一つのような気がします。

しかし、ある意味、情報過多社会は幸いなのかもしれませんね。というのは、
例えば、C国のように、情報統制をしている国もありますし、ビッグテックのように企業でありながら、国の大統領の発言を制限するかのような、いわゆるアカバンしたりするからですね。これって、三河屋に貼られた殿様の詔を破り捨てる行為みたいなものですよね。いわゆるファクトチェックを各人に委ねるのではなく国や企業がやっているみたいな感じでしょうか。

その場合、国や企業の情報が真実や事実でない場合はどうでしょうか。たとえ事実であっても、事実の一側面と残りはウソを混ぜたものということもあり得ます。戦時中なら大本営発表とかいって、意図的、偏向的な情報を流すということもあったと思いますが、現代ではどうでしょう?。

みなさんも情報と経験を駆使して、今、世界で何が起きているか考えてみませんか?それは決して無意味な行為ではないはずです。




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