暑すぎて( ̄▽ ̄;)、
チャリに乗る気にならず
こんな日は博物館で涼みながら学習

という事で、🚙で出かける。
赤穂海浜公園にある海洋博物館に行くことに❗
国道2号線を西へ、いざ出発

参加者:私とお父さんの2人
ペチャクチャ喋りながら運転してたら、相生で曲がるの忘れてて、鯰峠を越える頃、
夫:「アカンやん
こっちに来てもたら❗このまま行ったら岡山行ってまうやん」

と、気づいてくれ、(゜ロ゜;そうや、坂越峠いかなあかんのに…
と、鯰峠を抜けて右折し、Uターンすることに。
夫:「そうや❗ここ、お母さんが博物館で見て、行ってみたい言うとったとこやで
」

右折して橋を渡ると、「野磨駅家跡(やまのうまやあと)」の案内表示が❗
以前、行った兵庫県立考古博物館↓

ここで「駅家(うまや)」というのを知りました。
「駅家」は全国に400箇所以上もあったけど
そのほとんどが、後世の開発によって失われてしまったそうです。
ここで気づいたこと1つ

「駅(えき)」を「うま🐴」と読んでるし
昔々は「駅」が馬の休憩するところだったから「駅」の漢字が「馬へん」なのでしょうか

(…知らんけど
)


奈良時代には全国に「駅路(えきろ)」と呼ばれる道路が整備され、
駅路を往来する役人(駅使)や外国からの使節に対して馬の乗り継ぎや食料の支給、宿泊所の提供を目的として、駅家が設置されたとのこと。

山陽道は九州の大宰府と都を結ぶ道として最重要視され、約8kmごとに駅家が設けられたとのこと。

想像模型はこんな感じのようです。
って、博物館で学習したので、近くだし一度行ってみたいなぁと思ってたのが、道を間違えたことでラッキーにも来れてしまったという…
駐車場に車を停めて

前期、後期で場所が移転してるようで、
前期の駅家は

写真の田んぼで埋められてて

車で渡ってきた橋を戻り、

田んぼの中の立て看板で、どうやらこの田んぼが「前期の野磨駅家」

この駅家跡を落地(おろち)遺跡と呼ぶようです。
落地(おろち)はここの地名。
赤穂郡上郡町落地。
県道5号を上ると、
(暑い中、ブルブル汗流し歩きました)

右手に後期駅家跡がありました。
今も車が通ってるこの道が古代の山陽道だったと思うとすごい⤴️⤴️です。


林の中から、建物跡が見つかったのだから、よくわからないけど、スゴくないですか

昔から、この雑木林の中から瓦などがたくさん出てくるので地元では「源氏屋敷」と呼ばれていたそうです。
本格的な発掘調査が始まり、ここは山陽道の駅家跡だったことが分かったようです。
この看板と反対側にもう1つ、子供たちが書いた絵で物語が書かれていました。
野磨駅家は平安時代の仏教説話に登場するようです。
野磨駅家に毒蛇が巣くっていたという事でその話が絵付きで書かれてるのですが、
(゜ロ゜;

アッと気づいてしまったんです

さっき

「落地遺跡」と書いてあったやないですか。
「おろち」ってなんだか不気味さを感じてしまう響きで…
この物語の毒蛇って「大蛇=おろち」でここの地名が「おろち=落地」なんちゃあうん
と勝手に想像しました。

(…知らんけど
)

「落地」という響きに興味が湧き、少し調べたところ、
どうやら予想は当たっていました❗
「落地」という珍しい地名は、子供たちが伝説として伝わる毒蛇の絵巻を描いているその「大蛇(おろち)」から来ているそうです。
実際に一千年前の今昔物語集の第14巻に「野磨駅家」の大蛇伝説が登場するようです。
清少納言の枕草子にもこの駅家のことがうたわれています。
そんなことが家に帰ってから調べて分かり、壮大なロマンを感じてしまいました。

後期の野磨駅家跡はそのまま切り開かれた状態で残されていました。

正殿跡、西門跡等が発見され、場所をしめす立て札がありました。
レーダー探査では全体がほぼ完全な形で残っていることが分かったそうです。
奈良時代のものがそのまま残ってるなんて。こんな近くに…👀

このような駅家が全国に400箇所以上もあったそうですが、
現在、「駅家」と確定している遺跡は
たつの市にある「布施駅家跡」の「小犬丸遺跡」だけだとか。

小犬丸遺跡はこの案内板しかありません。たまに通りますが気にとめたことがなかったです

いやぁ、道も間違えてみるものですね🎵
大昔の山陽道と現在の道路も同じように走ってるんだと思うだけで、ただの道路🛣️が感慨深いものに見えてきます

…あっ、この後、海洋博物館に行ってきたのですが、それはまた後日
