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伝通院(4)

2013-05-03 11:21:47 | Weblog
再び伝通院にもどる。

一番奥の徳川家墓所の墓塔を見る。
没年順にみていくことで、墓塔のデザインの変遷が見て取れると思う。
(とりあえず、江戸中期、徳川吉宗の時代以前のものをこのページまとめた)

徳川家光 次男 亀松君(-1647)
月溪院殿花玉尊栄大童子

5歳でなくなった将軍徳川家光の子。伝通院の奥の墓所では一番最初の被葬者。

徳川秀忠 長女 千姫(-1666)
天樹院殿栄誉源法松山禅定尼

千姫。墓塔のデザインに変化が見える。笠(火輪)よりも大きな丸い部分(水輪)
ふくよかな感じですな。

徳川綱重 正室 (-1669)
隆崇院殿理郭良智大禅定尼

このお姫様は名前が知られていない。
夫の徳川綱重の墓所もかつてはこの伝通院にあり、墓塔のデザインもほぼ同じ。
(伝通院(3)を参照のこと)

徳川家光 正室 鷹司孝子(-1674)
本理院殿照譽円光徹心大禅定尼

墓塔のデザインは先の隆崇院とほぼ同じ。


(左)徳川綱吉 養女 喜知姫(-1698)
   智法院殿栄誉本香良薫大童女
(中)徳川家宣 三男 大五郎君(-1710)
   理岸院殿月光秋華大童子
(右)月溪院殿花玉尊栄大童子(前述)

喜知姫は尾張徳川家のお姫様。徳川綱吉の養女となるが2歳で亡くなる。
大五郎君は家宣の三男。3歳でなくなる。
※大五郎君の墓所は、昭和の改葬で現在地に移転してきたもの。
 以前は現在地から10mほど離れた場所にあった。

徳川家宣 次男 家千代君(-1707)
智幻院殿露月涼華大童子

笠の一部が欠けているので、非常に縦長に見える。

この他に
・徳川家光 養女 亀姫(-1656) (清泰院法誉性栄大姉)
・徳川綱吉 養女 松姫(-1720) (光現院殿鏡誉円清大姉)
 がこの場所にあったが、明治以降に金沢に改葬されている。

 亀姫は水戸徳川頼房の娘、加賀前田光高室。
 松姫は尾張徳川綱誠の娘、加賀前田吉徳室。



話は変わって
国立博物館アーカイブの増上寺の古写真から同じ様式の墓塔を4基見出せた。

・笠が大きいPCDB-012478

・笠と丸が同じくらいPCDB-012532

・笠が少し小さいPCDB-012516

・笠がごく小さいPCDB-012436

残念ながら、キャプションがないのでそれぞれが誰のものであるか特定はできないが、
以下の人物の墓塔であると思われる。

1)徳川秀忠 長男 長丸君 秋徳院殿羨嶺容心大童子(-1602)
2)徳川綱重 清揚院殿円誉天安永和大居士(-1678)
3)徳川綱吉 長男 徳松君 浄徳院殿霊岳崇心大童子(-1683)
4)徳川家光 長女 千代姫 霊仙院殿長誉松月慈光大姉(-1698)
5)徳川綱吉 長女 鶴姫  明信院殿澄誉恵鑑光燿大姉(-1704)

1)は昭和33年の発掘調査報告に写真が出ていたような気がしますな。
2)は現況との比較をすることで判別できるかと。

これらについては追って別稿を起こす予定です。

※疑問や意見、情報等がある方は
 コメントまたはメールにてお気軽にご連絡ください。
 

伝通院(3)

2013-05-03 10:51:59 | Weblog
伝通院から増上寺に改葬された
徳川綱重の墓塔。

現在は埼玉県飯能市の能仁寺の門前に据えてあります。




墓碑の銘は以下のとおり

[右面]
 延宝六戊子年

[正面]
 清揚院殿
 正三位前参議
 円誉天安永和
 大居士神儀

[左面]
 九月十四日

全体写真。歩いている人と比べるとその大きさがわかります。


なお、国立博物館古写真アーカイブにある
「六代将軍実父墓所」(写真番号:PCDB-012302)では、
明らかに宝塔と思われる墓塔が写っているので、
増上寺時代この墓石は廟内のいずれかに保存してあったのかもしれない。
※あるいはキャプションが間違っているか。

伝通院(2)

2012-11-19 19:13:36 | Weblog
伝通院墓所の墓塔を順に見ていく。

清雲院殿心誉光質大禅定尼
徳川家康の側室。万治三年(1680)年、80歳にて逝去


変形五輪塔。

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傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼



伝通院殿墓の隣に並ぶ墓所
奥(左)より 伝通院殿、大誓院殿、貞松院殿、松壽院殿


大誓院殿心誉寿栄大禅定尼
 徳川家康養女(松本藩主松平(戸田)康永女)諷姫
 大垣藩主戸田氏鉄室
 承応三年(1654)歿


貞松院殿照誉高月大姉
 大多喜藩主 本多忠朝女 千代姫
 大多喜藩主 本多政朝室
 寛文七年(1667)歿
 「女 本多甲斐守政朝妻 寛文七年丁未九月三日卒、法名貞松院照誉高月凉心」(断家譜四)
 大多喜藩主本多政朝はのちに姫路の本家当主本多忠刻(千姫の夫)の死去により本家を継ぐ。
 千姫の縁でここにあるものと思われる。


松壽院殿桃誉栄紅大姉 
 寶永七年五月四日 (続柄 不明)
 徳川家に縁のある女性と思われるが該当なし。



興安院殿豊誉天清陽山大姉
 徳川秀忠四女 初姫
 出雲松江藩主 京極忠高室
 寛永八年(1630)歿



5つの墓所は隣接しているがこういう場合は最初からスペースを考えて作るのだろうか?